第5話-欲を言うならば

 強い音を立てて扉が閉じられた部屋はシックだった。黒やウォルナットの家具でまとめられたシンプルでいて品があり重厚感のある部屋は、褐色の肌と黒髪の住人を顕すようだ。深い墨にも似たパチュリの香りが部屋を満たし、住人の——日内・アントーニオ・ダビドの髪や肌にしっとりと馴染む。彼は不安になると、すぐに大好きなパチュリの精油をディフューザーにセットするのだ。そして深く息をして心を落ち着かせる。それがダビドの日課だった。

 ダビドの最近の一番の不安というと、当然に晴翔のことである。しなやかで頑丈で屈強な守り人が何人もかたわらにいる晴翔と如何にして言葉を交わすか。如何にして警戒心を解くか。そればかりに心を砕いていた。

 が、しかし。今日は一歩前進した。

 確かにひとつ進んだ関係性にダビドは歓喜し、これを書き留めぬなど馬鹿のすることだ、と強く思い少し早いが日記を開きペンを取った。

 曰く、こうである。


***


13 de Junio,2018…2018年6月13日


 なんと形容しようか。とても感動的で、あの瞬間死んでも構わないと思えた。決して過ぎた言葉ではない。心の底からそう思えたんだ。

 ハルトくんに触れられた。触れられたなんてものじゃない!抱き締めてしまったんだ!これ以上の幸せがあるとしたら、その時僕の心臓は止まっていることだろう。ハルトくんはとてもシャイだから、どんなに仲を深めても手を握らせてくれるかだって怪しい。今日のは渋々“掴まれていた”といった方が正しい。

 だが、ハルトくんがいたカフェはとても良い場所だった。カトラリーひとつを取ってもこだわりを見て取れた。それに父の作ったラックもあったし、時計もおそらく一点物だ。オーナーは相当凝り性なのだろう。ジュストは澄ました顔をしていたが、きっと今も気になっているに違いない。彼は父の家具の最も過激なファンの一人であるし、なによりも同じような愛好家を求めているから。

 そんなことより、明日こそハルトくんとじっくり話がしたい。きっと僕を勘違いしている。害をなそうなんてしていないのに。

 いや、それを言うならユイの説明も悪い。彼女は昔からなにも変わっていない。口の悪さも面倒臭がりなところも何一つとして。あれは直したほうがいい。

 確かに僕の考えは少しばかりメルヘンかもしれないが、そうだとしたってあんな言い方はあんまりだ。彼女だって同じようなことを昔は言っていたと言うのに、僕だけがそうだったみたいに言うのはひどい。

 しかし、あの男をどうしようか。独占欲が強くていけない。

 ハルトくんはまだ誰のものでもない。僕も独占したいのは確かだが、あんなにも欲を丸出しにしてしまってはハルトくんも怯えてしまう。実際怯えたようにしていたし、かわいそうだ。ユイも彼に好印象がないように見えたし……だが、きっと無理に引き離すこともできないだろう。ハルトくんは望んでいないようだから難しい。

 それにしても、最初の頃と比べると日本語もだいぶ自由が利くようになった。幼い頃に使っていた言葉とはいえ、年令に合わせるとやはりかなり違うし、スペインの友人となんて日本語で話す機会はないから参ったが……これならどこへでも行けるだろう。

 さて、早いところ父や母にもメッセージを送るとするか。学校も決めないとならないから。


***


 ……と。

 この日記は、本来であればダビドの日本語の読み書きの練習のためのものであった。日本人の父が後から読むと知っているはずだが、ダビドは何一つとして隠そうとはしない。それ程までに晴翔へと想いは強かった。そして、彼の父はLBGTQ+に理解があり、「私はどちらかというとBかな。好きになる相手の性別を気にしたことはないけど、妻を心の底から愛しているよ」と明るくインタビューで答えてしまうような男であった。

 日内・アントーニオ・ダビド、齢十七。所謂高校三年生なのだが、彼はこの歳になるまで日本へ訪れたことがなかった。海外を拠点に活動する父と彼をサポートする母は、アトリエのあるイタリアと木材の調達をするために各国を行き来し、たまの展示会で日本へ訪れる程度。大抵がホリデーではない日だったこともあり、ダビドは同行してこなかったのだ。

 ココココン、コン。

 ノック音が響いた。それは些か強くて、ダビドは思わず眉間に皺を寄せた。ペンを置き、曲線の美しい椅子から立ち上がるとドアへ近付いて開けた。

「日記でも書いていたのかな?こんな時間に」

 初夏の空が紫を窓の向こうで広げているのが見える部屋の前。満面の笑みを湛えた整った顔と、額や首に浮かぶ血管は色が異なっていて、ダビドの目の前にいる似非兄弟の穏やかさと獰猛さを同時に表していた。

「そうだが?」

 が、ダビドはそれに興味を示さない。もうひと言付け加えるのであれば、ダビドは似非兄弟がなぜ不機嫌でいるのか分からず、それによってダビドまで不機嫌になる始末だった。

「何度もノックしたんだ。今ので六度目。おおかた予想はしていたけれど、さすがに待ちくたびれて大声を出すところだったよ」

「それはすまない。集中していたんだ」

 溜息をひとつ。

「そうらしいね」

 ジトッとした目でダビドを見て、紳士——ジュスト・デッラセーガは溜息を吐いた。

 ダビドは鼻をスン、とさせると何かに気が付いた。

「早く言ってくれ」

「まったく……ダビの鼻の良さにはいつも驚かされるよ」

 スッとジュストの横を抜け、自室から出たダビドは足早に開けられたままでいるリビングの扉を潜った。

 ふわりと暖かい蒸気がダビドの肌を撫でた。ダビドはこの心地良い感覚がパチュリの香りの次に好きだった。何でもない、湯が沸騰し蒸発した少しムワッとする香り。パチュリの香りとは反対の真っ新な香りがほんのりとリビングに満ちていた。

「茶葉は何がいい?」

「…‥ダージリン」

「本当に好きだね」

 ジュストは沸かした湯をティーカップとポットへと注ぎ、やかんをコンロへと戻して再び火にかけた。

 高層マンションの広い一室。ダビドの部屋同様、クラシカルな家具でまとめられたその部屋の空気は数分前より重くなった。家具のせいであるはずがなかった。

「ダビ、何度溜息を吐いたってハルトくんは手に入らないよ」

 ダビドが数え切れない程の溜息を繰り返しているからである。広いといえど限られた面積の中だ。彼の吐く溜息に圧迫されてしまっては空気は重みを増す一方だった。

 これには似非兄弟であるジュストも同じように溜息を吐くしかなかった。何度も吐かれる溜息は何とも色気があり、ここに乙女を寄越そうものなら卒倒するであろう。

 彼らは全く違う願望を抱き、それを叶えたい、叶えてやりたいと強く思っていた。

「なにがいけないのだろう」

 ポツリとダビドが呟いた。ジュストは紅茶を淹れていたのだが、彼はそれが聞こえているのに相槌も打たずに湯で温められたティーカップに手を添えた。じんわりとジュストの掌が温められる。

「最初に挨拶と用件をきちんと伝えなかったのがいけないだろうね」

 紳士は真顔で呟いた。それはもはや取り返しのつかない失敗だった。よってダビドはそれに不快感を示し「気に入らない」と呟いて手を払う。

 ティーカップとポットに入れていた湯をシンクへ流し、ジュストはティースプーンに茶葉を二杯入れ湯を注いだ。カチャッ、と音が鳴りポットの蓋がされる。

「僕だって挨拶をしたかったさ!けれど、彼らが邪魔をした。ハルトくんは瞬く間にいなくなってしまったんだ。……仕方ないだろう」

 ダビドの話を聞きながら、ジュストはフックにかけてある手作りらしいカラフルなティーコジーを取りポットに被せた。彼はそれに手を乗せる。

「その前にも、キミは彼の手を握って詰め寄っていただろう。ちゃんと話は聞いてあげたの?」

「話?彼は何も……ああ、人違いだ、と言っていたかな。なぜそうなったのだろう」

「顔見知りではない相手から迫られたら、当然の反応ではないかな」

 ジュストはしっかりとした人だった。ダビドの暴走を可能であれば止めたいと思っているし、晴翔には申し訳ないことをしているとも思っている。だが、それ以上にジュストはダビドを甘やかしてしまうのだ。

「そうか……確かに、そうかもしれない。彼はシャイだからな」

 シンクにカップの湯を捨てる。

「そうだよ。次はちゃんと挨拶をして、自己紹介をして、用件を伝えるんだ」

「そうさせてくれるといいが……」

 トレーにティーカップとポット、小さなティースプーンを載せ、ダビドの待つテーブルへと運んだ。それは暗いウォルナットの凹凸を埋めるように注がれた深いエメラルドのレジンが、夜の浜辺を彷彿とさせるテーブルだった。

 努めて静かにトレーを置いてから、ジュストはティーコジーを取り蓋を開けた。ティースプーンでくるくると数回円を描いてからまた蓋をし、ポットを持つと、温かいティーカップへキラキラと輝く紅茶を高い位置から注ぐ。と、

「いい香りだ」

 ダビドは言うのだが、これにジュストは首を振る。

「私にはパチュリの香りしかしないよ」

 ダビドの部屋を満たすパチュリの香りは、そこだけに留まらずリビングや廊下にまで及んでいた。よって、この部屋でたった今淹れられたダージリンの香りの良さに気が付けるのは、鼻のいいダビドだけだった。ジュストはティーカップへと鼻を寄せてやっと分かるというのに。

 ダビドは淹れられたダージリンの香りを堪能すべく、ティーカップがテーブルに置かれるとすぐさま手元へ引き寄せた。

「うん、いい香りだ」

 椅子を引きダビドの正面に腰掛けたジュストは、ダージリンの香りを堪能した。ひと口含み、香りを鼻腔へ送る。

「もし、次の時にハルトくんが話してくれるとして、」

「?」

 ダビドは紅茶を啜り、ジュストの言葉を待つ。少しの間考え、間違いがないか確認しながら頷き、柔らかくダージリンの香りを纏った言葉をゆっくりと吐き出した。

「ダビは何を話す……話す?」

「……あー、伝える?」

「それだ。何を伝えたいんだい?」

「ハルトくんに?」

 そう、とジュストはダビドへは視線を遣らずに肯定しティーカップを置いた。ダビドはジュストの意図するところを理解しておらず、何を今更、といった顔で似非兄弟を凝視する。

「なに?」

「いや、僕の今までの言葉を聞いていなかったのかと思って」

「君は僕の運命だ!……って?女の子はそれで喜ぶかもしれないけれど、男同士だ。そうはいかないと思うよ。」

 ジュストは冷静に諭すように言った。

「だが、仕方ないだろう?そう思うんだ。彼を見付けた時そう思ったんだ。あれは脊髄反射で意思とは関係なかった。彼は運命の人に違いないんだよ」

「あの子の言う意味が痛い程理解できるよ。悲しいことにね」

 ジュストは首を振りティーカップを傾けた。ヤケ酒を飲むようだ。

「あの子?ユイのことか?」

「そ、その子。口は悪いけど素直な子だね。気に入ったよ」

「好きにしたらいい」

「傍にいつもボーイフレンドがいる」

「律儀だな」

「まぁね」

 と、ここまでを遣い慣れたイタリア語で話し、二人はハッとする。

「ダメだな」

「仕方ないさ。気が抜けるんだ」

 二人きりの時の会話も日本語ですると決めていたことを思い出し、やれやれと揃って首を振る。

「そうだ。学校はどこにするの?」

「ハルトくんのところにしようと思っているよ」

「筋金入りだね。まぁ、気を付けて。」

「ジュストは?」

「私はどこかでウェイターでもするさ」

「いいな。今度見に行く」

「好きにしてくれ」

 ふっ、と小さく笑い二人はその後もダージリンを楽しんだ。

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