第4話-去れど吹き荒ぶ

 晴翔はホトホト困り果てていた。

「なーあ、そんなに怒ってんなって」

 追跡者——ダビドが晴翔らの前から立ち去って既に十分じっぷんは過ぎているのだが、謙吾の苛立ちは未だ収まらずにいた。彼は眉間に深い皺を刻み、それが晴翔には見えぬよう手で覆い隠している。本人が言うに健康的な細マッチョらしい体躯は、晴翔の細指に掴まれている腕が揺すられるまま弱々しくゆらゆらと揺れていた。

 晴翔にとって荒れ狂う謙吾は異質だった。それはまるで吹き荒ぶ嵐のように獰猛で、見慣れず知らず、向けられたことのない謙吾の怒りを目の当たりにし、晴翔は困惑するしかできない。勿論、謙吾は晴翔に怒っているのではない。晴翔もそれを理解はしているのだが、対処の方法が分からない。知っているであろう勇哉や典昭に助けを求めて視線を投げるも首を振られ、助け舟が出されることはない。それは店に隠れたままでいた閑架も同じで、ガラスの向こう側にいてもなお、晴翔と目が合えばさっと静かに逸らした。閑架はそんな困り果てている晴翔に対して、ほんの少しの申し訳なさも抱えていた。口が悪くサバサバとした性格ではあるが、心根は優しい少女なのだ。

「はるるんは初かー。うまく隠してたもんねぇ」

 怖いもの知らずで謙吾から邪険に扱われていようとも意に介さない結衣は、それを見てニヤリと笑う。が、結衣はすぐに顔色を濁らせくりくりと大きな瞳を細めた。

「うるせぇな。外野は黙ってろ」

 この謙吾の言葉に腹が立ったのだ。

「いや、いつも逃す手伝いしてるうちを外野扱いはキツくない?」

「ゆっチやめとけって、一番知ってんでしょ」

 呆れた勇哉はわざと声を上擦らせ、辟易していることを表した。謙吾の言葉で結衣は口角を引き攣らせ、マジなんなの、と怒りを爆発させる。と、結衣は勇哉に抱き着き、丁度鳩尾の高さにあるその小さな頭を幾度も勇哉へと打ち付ける。短く切り揃えられたふわふわの栗色が揺れている。

「ねっ、えっ!ッグ!いっ、だっ!いっ!ゆっ、ヂ!」

 筋肉自慢の勇哉といえど、流石にこの攻撃は効くらしい。抵抗しようにも細身の結衣を抑えつけてしまえば怪我をさせるかもしれない、と勇哉は躊躇し抑えもしないでいる。優しい男なのだ。

「だって腹立つんだもん‼︎」

 と、結衣は普段の気怠げともいえる雰囲気を一変させ、勇哉をドン、と突き放して鳴りもしないアスファルトに足を打ち下ろした。穏やかそうな、柔らかい雰囲気の結衣から想像も付かない所作に驚くのは、通行人のみである。見かけによらず、結衣は少々気性が荒い。口の悪い閑架と仲が良いのはそれが理由であったりもする。

「結衣、そんなイラついてもエネルギーの無駄。パフェのカロリーがゼロになる」

「のん〜、そんなこと言ってもムカつくんだもん〜」

 ゼロになるなら願ったり叶ったり、なんて思いながら勇哉から閑架へと寄り添う相手を代え、結衣は彼女の肩へと額を押し当てる。勇哉はそれを不服そうに見て溜息を吐いた。

「どうする?帰る?」

「まぁ、だいぶ勉強は捗ったし」

 言いながらバックパックを担ぎ直した典昭はバックポケットへと手を回す。再び現れた右手にはスマートフォンが握られており、帰りの電車を確認するらしかった。

「のんパパに謝らないと」

 自身のせいで店に迷惑を掛けた、と苦い顔をする晴翔は謙吾の腕から手を離す。スッと静かに離れた低い温度は少しばかりの虚しさをもたらし、それは冷や水をかけたかのように謙吾を冷静にさせた。

「ああ、そうな」

 つい先程まで、怒り狂っていたのと同じ人間とは思えない程静かな声で謙吾は呟き、ゆったりとした動作で屈めていた身体を起こす。勇哉も結衣も典昭も、それを見て苦笑を深めた。

 閑架がドアを引き開けると、ドアチャイムが晴翔を迎え入れた。

「のんパパ?」

「……ん?ハイハイ。あ、終わった?大丈夫だった?」

 にこやかな笑顔で店の奥から顔を出した店主は小首を傾げる。何やらスマートフォンと格闘していたらしく、すっきりとした顔立ちに不釣り合いな野暮ったい眼鏡を掛けていた。

「終わった。お腹空いたから帰る」

 思春期の女子が父親へする態度そのもので閑架が言うと、店主は苦笑し眼鏡を外した。閑架は眼鏡を掛けている父が嫌いなのだ。

「迷惑かけてスミマセン」

「いいよ、気にしないで。というか、知り合い?」

「いんや、晴翔のこと追っかけ回してくるストーカー」

「ストーカー?……彼が?」

 店主は驚いた顔をして晴翔を見る。それは当たり前の反応だった。ダビドの正体を知っているのならば、である。驚いた顔をして見せるのは典昭も同じである。

「そ」

 のんから聞いてない?と典昭は片眉を釣り上げ、晴翔の背後から顔を覗かせ店主を見遣った。今度は父が娘に目を遣るが、その目は「なに?その話」とそのまま語り掛けており、誰が見ても閑架が何も話していないことを理解出来た。

「まぁ、いいんだけど。彼のお父さん、すごい有名人だよ」

「マジ?」

 典昭はドアの隙間から店内へスルリと身体を滑り込ませる。

「マジマジ、ホラ」

 典昭の真似をしたような砕けた口調で言いながら店主が差し出した画面には、どこかダビドに似た雰囲気のある男前な男性が映し出されていた。

「A.Hiuchi、3年ぶりの個性的な新作から、クラシカルなセミオーダー家具までを集めた、その場で買える個展を開催……?」

「海外で人気を集めてる家具ブランドなんだよ。日本にはあまり入ってこないんだけど、細々としたものは幾つかうちにもあるんだよね」

 アレとか、と嬉々とした表情の店主が指差したのは間接照明とハンガーラックが一体となったもので、曲線を描くウォルナットのボディと柔らかく店内を照らすライトが客からも評判の良いインテリアだった。

「高いの?」

「まぁ、そこそこ。流木を使ってるから味があるし、何より曲線が美しくて一目惚れしちゃったんだよねぇ」

「アレで十五万だって。……ママ呆れてた」

「その節はすみません」

 閑架にジロリと睨まれた店主は苦笑し頭を掻く。インテリアが好きな彼にとって、一目惚れしたお気に入りはやはり特別なのだ。

「のんパパの趣味、俺は好き」

 へにゃへにゃの笑みでフォローするように晴翔が言うと、店主は感動したようにこちらもへにゃへにゃの笑みを浮かべた。

「海外で人気でその値段なら、だいぶ儲かってるってこと?」

 問い掛けたのはまさかの晴翔で、謙吾と典昭はギョッとした。謙吾は晴翔がダビドに興味を持つ事を、典昭は謙吾の機嫌を損ねる事を懸念したのだ。

 だが、晴翔は純粋な興味だけでその問いを吐いていた。身体の弱い彼でも簡単に出来る呼吸と同じように、深く考えず。

「そうだね。これだけ大々的にネット記事で取り上げられてるくらいだし、だいぶどころか相当じゃないかな?パーティーなんかにも、夫婦揃ってよく顔を出してるみたいだし」

「へぇ」

 純粋な好奇心で聞いたに過ぎない晴翔は店主の言葉を聞いて、現代っ子らしい興味なさげな返事をした。それは今ではどこにいても簡単に聞くことが出来る平坦なもので耳慣れたものだった。

「晴翔」

 静かな声で謙吾が呼んだ。典昭はそれに再びギョッとしたのだが、謙吾の苦い顔を見て何も言うまいと決め込んだ。

「アイツのこと、気になる?」

 酷く穏やかで、普通であれば鋭い棘に覆われていたであろう言葉が柔らかい。今にも溢れそうな怒りを、僅かばかりに残っている理性が抑え込んでいて彼の声は震えていた。

 謙吾へは顔を向けずに、ん、と首を傾げて晴翔は考える素振りを見せるが、すぐさま左右に振った。

「気になるとかはないけど。……レベチの金持ちとか周りにいるし、どっちかと言えば……怖いし」

 ボソボソと小さな口で並べると、晴翔は自身の表情筋を不器用に扱い、

「……ストーカーには変わりないから」

 と、口角を引き攣らせて溢した。


***


「のんパパ、うちら帰るね」

「ああ、気を付けて帰ってね」

 店のドアから顔を覗かせた結衣はそう言うと、勇哉とともに手を振りながらガラス張りの壁の向こうを通過し、帰ってしまった。店主はそれに手を振っていた。

 謙吾が開けたままにしているドアの隙間から、閑架は猫のようにするりと身体を滑り込ませた。

「閑架は?帰る?」

 それを認めた店主は閑架へ優しく問い掛ける。と、壁に掛けられた時計を見て、父を見て、少し考えてから娘は、

「……もう少しで終わるの?」

 と、問いを投げる。父は柔らかく微笑むと同じように時計を見てから答えた。すると、彼は一度頷いてみせる。

「仕込みは殆ど終わったし、あと三十分もしたら帰るよ」

 父の言葉を聞いて、閑架はさらに考えた。もう暫し待つだけで良いのなら、と言葉には出さず頷く。

「そ」

 待ってる、と呟いた娘に父は気を良くし、典昭にまで「待っててね」と言いながらまたも厨房へと引っ込んでいく。まるでこれからデートへと出掛けるカップルのようだ。

「のんパパ、俺帰るね」

「ああ、はるるんもありがとね。またおいで」

「うん、ありがとう」

「ご馳走様でしたー」

 じゃ、と晴翔は典昭と閑架に告げ、ドアへ手を掛ける。が、それは晴翔を追い掛けてドア前まで来た謙吾によって包まれ、晴翔が力を入れずとも簡単に引かれた。ドアチャイムが軽やかなメロディを奏でる。

 家が同じ方向にある晴翔と謙吾は帰宅するべく、同じ道を辿っていた。晴翔は古語をまとめた単語帳を見ながら、謙吾は鼻歌を歌いながら。

 謙吾はすこぶる機嫌がよかった。

 なぜって、あのストーカーに晴翔が興味を示していないと分かったから。彼にとってそれはとても重要で、それだけが気掛かりだったのだ。それ以外は瑣末で、それだけが重大な懸念事項だった。

 それが解消された。

 ここ数日の中で一番機嫌がいいと言ってもよい程に、分かりやすく謙吾は忽ちあんなにも荒んでいた心情を立て直した。鈍感な晴翔ですらその薄茶の瞳を細めて訝しむ程速やかに、分かりやすく、軽やかに。つい先程聞いたドアチャイムのメロディのように。

「晴翔、明日はギャラリーで待ってたら?」

「え?」

 なんで、と意味が分からないと顔に書いて晴翔は首を傾げる。彼以外であれば言われただけで察する内容すら、晴翔は気付かず、言われても納得せず、必要性を理解して初めて悩む。が、大抵それは却下される。

「流石に部外者は校内まで来ないだろ?晴翔がどこにいるかなんて、GPSでも付けないと拾えないし。ね?走んなくて済むよ」

 これ名案、と言わんばかりの笑みで謙吾は提案し、晴翔が頷くと信じて疑わない。

 だって、晴翔は誰よりも謙吾を信頼しているから。

「いや、いいよ」

「は」

 愛おしくて堪らない晴翔を、部活中も眺められると思ったのに。

 晴翔はまるで風に曝された蝋燭の火を消すかのように、謙吾の提案を軽く断った。これは、謙吾にとってストーカーの存在以上に重大なこととなった。

「……なんで?」

 努めて冷静に、と謙吾は自分に言い聞かせた。彼の唇の皮は今にも全て剥かれてしまいそうだし、胃の辺りがムカムカして胃酸を全て吐き出してしまいそうになりながら、謙吾はそれらに耐えてポーカーフェイスで問うた。

「え、いや。いても邪魔でしょ」

「いや、晴翔なら十人いても邪魔じゃないけど」

「なんか意味違く聞こえる」

 晴翔は一番信頼している謙吾が、自身の身体の小ささを揶揄うようなことを言わないと知っている。事実、眉を顰めて不服申し立てをする晴翔に、違う違う、と焦ったような困ったような風で謙吾は先の発言を訂正しようとするのだ。

「女子とかさ、あとアイツらみたいに晴翔はうるさくしないでしょ?本読むか、課題やるか、……俺見るか。それならいても気にならないって話」

 謙吾の言うアイツら、とは勇哉と結衣のことで、比較的静かな典昭と閑架は含まれない。謙吾もこの二人には悪い印象がないからだ。気にならないなんて嘘だし、謙吾は晴翔が体育館の見える位置にいたのなら必ず目で探す。気にならない、と言ったのはそれは晴翔が断る口実を潰す分かりやすい明らかな嘘だった。

 が、晴翔は謙吾の言葉の裏など見ようとしない。彼は謙吾を信頼していて、自身のためを思って言っていると信じているからだ。そんな優しい謙吾を無碍にするのは気が引けるし、確かに悪くない話だと晴翔は理解した。だから、

「謙吾がいいなら……行こうかな」

 と、小さな口で囁くように答えた。

「うん、そうしな」

 ゆるゆると上がりそうになる口角を必死に抑えつけ、謙吾は優しく言うのであった。

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