第3話-グレーに触れる
謙吾は一度男から顔を逸らし、再び深く息を吐く。数度そうしてから感情のままに言葉を選び吐き出した。
「なんだって“俺の”晴翔を追っかけ回してんの?お前」
男へと向けられた顔は綺麗な笑顔に塗り替えられてはいるが、それは真の笑顔などではなく、独占欲と怒りに満ちたものだった。その証拠に、額には青筋が浮かべられている。
名乗りもしない追跡者に怒りを覚えているのは、確かに謙吾だけではないのだが、勇哉や典昭はここまで露骨な反応を示してこなかった。それも相俟って、怒りや不快感を露わにする謙吾に対し追跡者である彼は不服そうに顔を歪める。
「追いかけ回す、というよりハルトくんが逃げてしまうから追っているだけなのだが……それよりも、“君の”ではないだろう」
「あ?今そこ論点じゃねーけど?」
ぶつかり飛び散る火花が確かに見える二人に典昭は溜息を吐き、謙吾の肩に手を置く。
「いや、この際それはいいわ。」
「あー、まぁ、そうな。誰のとかねぇし」
と、典昭の言葉に頷きながら、勇哉は己の身体で晴翔を隠す。何度も追跡者の彼と対峙してきた勇哉の身体に染み付いた、悲しい癖だ。
「晴翔が逃げるとか関係なく、そこまで執着する理由は?」
勇哉が端的に問い掛けると、男は呆れたように首を振る。それには謙吾のみならず、典昭も苛立ちを覚え舌打ちをした。が、それを制したのは勇哉で、ゆるりと表情を和らげ口を開く。
「早よ言えや」
が、表情とは対照的に声は低く言葉は雑だ。
「最初に言っただろう。彼は僕の運命の相手だ」
そんなことを言っていたか、と晴翔は勿論、典昭と勇哉は凡そ十日前の記憶を辿る。が、謙吾だけはその言葉をそのまま飲み込んでしまい、男の胸倉を掴み、その整った顔を間近に引き寄せた。
「んな訳ねぇだろ。妄言も大概にしろよ」
「君には関係のないことだ。早くそこを退きたまえ」
「関係ない訳ねぇだろ」
「ちょ、落ち着けって」
細い指で謙吾の腕に縋り、か弱い力で制止する晴翔はまるで乙女。と、言いたいところだが、いくら弱いといえど結衣や閑架よりは僅かに力強い。眉間に皺を寄せた晴翔は男と謙吾を睨み付け、溜息を吐いた。
「一回、店出てから」
他の客への配慮と、閑架の父である店主への迷惑を最小限にしたい晴翔は提案する。否、提案というには些か強引に、テーブルに広げられていた参考書を謙吾の胸へと叩き付け実行した。これには謙吾も倣うしかなく、舌打ちをして男を睨みながらバッグへと自身の物を仕舞っていく。
男は溜息を吐き、荷物を纏める四人の動向を見守りながら通りに面した窓へと目を滑らせる。そこには、心配そうに眉根を寄せて男を見詰める紳士がいた。何をそんなに、と男は片眉を釣り上げるが、執事というには歳が近く幼少から男を知る紳士は、実の兄弟よりも深い理解を男へと示すのだ。それが彼を救い、時として暴走させるというにも拘らず。
「おい」
嫌悪感に塗れた声が男の鼓膜を揺らした。その声の主へと顔を向けることはせず、男は晴翔へと柔らかく慈愛に満ちた目を向ける。
「行こうか」
主導権は必ず自身にある、と信じて疑わぬ男の物言いは謙吾を苛立たせるだけなのだが、男にそんなことは関係ない。自身の声が晴翔に届き、晴翔が手に入るのなら、それで充分なのだ。パタパタと小走りで結衣と閑架が駆け寄るが、勇哉はそれを制止し閑架の父とアイコンタクトを取る。すると、閑架の父は二人を店の裏へと再び連れて行き、パッと走って店を出たかと思うと、表にある店の営業を知らせる看板を『sorry,we are closed.』と書かれた面にした。
「晴翔、日焼け止め——」
「サンスクリーンは塗らないのかい?ハルトくん」
謙吾の言葉を遮って男が問い掛ける。言葉と同時に晴翔へと差し伸べられた手には、外資系化粧品メーカーの低刺激が売りな日焼け止めが握られいた。男が何かを言わずとも、それは使うように促されていると何も知らぬ店主さえも理解に及ぶ。
「あー、いや……それちょっとコワイ、かな」
だが、いくら低刺激といえど様々な日焼け止めを試してきた晴翔にとって、初見のものは全て警戒の対象となる。男は理解していたであろうにも拘らず、その眉間に薄らと皺を寄せた。
「何が気になるんだい?」
ひどく柔らかい声色は、先程まで謙吾と言い合いをしていたものとは別物で、聞いた者に不気味さを覚えさせた。すると、バツが悪い晴翔が答えようと口を開くより先に、謙吾が男の手から日焼け止めを奪い取り、そのパッケージを凝視した。晴翔は苦笑し、使い込まれていると見ただけで分かる印刷の擦れたチューブを取り出すと、白色の液を手に取り肌へと塗り広げた。
「晴翔は肌弱いから、決まったのしか使わねぇんだよ。海外製のは匂いキツいし」
晴翔をよく知る過保護な謙吾は吐き捨て、男の胸元へと男が用意した日焼け止めを押し付ける。それは男にとって自身の用意したものを拒否された上に、幼馴染でしかない謙吾が答えたので不愉快極まりないことなのだが、晴翔の決めたことならば、と潔く引き下がる。己の欲よりも晴翔を優先する男を見て、ああ、コイツと謙吾は同族だ、と典昭と勇哉は内心苦笑した。
***
さて、どうしたものか。
と、典昭や勇哉のみならず追跡者の似非兄弟である紳士まで頭を悩ませていた。
なにせ、追跡者である男と謙吾は晴翔を外へ連れ出したものの、言葉を交わすでもなく、ただ睨み合い、ひしと晴翔の手をそれぞれ掴んだままでいるのだ。この状態を動かせるのは間違いなく晴翔だけなのだが、晴翔はふたりに手を握られたまま典昭にアイコンタクトを送るだけだった。
ヘルプ。いや、無理だろ。無理とかないから。いや、無理だって、考えてみ。頼むって。無理。典昭ならいける。無理。
と、いった調子で無言ではあるものの、傍で見ているだけの勇哉が咳払いとともに溜まった笑いを発散させなければならぬ程、ふたりは分かりやすく目で会話をしていた。
一方で、追跡者の似非兄弟は男同様に整っているその顔を美しく歪めていた。なんてことはない、ただ呆れながらも何かいい手はないか、と考えているだけなのだが、その表情すら乙女が見ようものなら頬を赤らめるような、そんな色気を漂わせている。視線を彷徨わせた先、紳士は街にあるカラクリ時計を見てハッとした。
「ダビ、そろそろ帰らないと」
と、ふっくらとした唇から男性らしい鼓膜を強く振るわせる声が奏でられ、紳士はその黒真珠を思わせる瞳を『ダビ』と呼んだ追跡者へと向けた。男は自身の手首にある腕時計を軽く振り、カチャ、と金属音を立てたかと思えば、その手をそっと晴翔の頬へと添えようと伸ばす。が、それは謙吾により阻止される。
小さな舌打ちがふたつ響く。すっ、と短く深い息を吸う音がひとつ。
「ハルトくん、また会いに行くよ。……出来たら次はゆっくり、話をしよう」
有無を言わせぬその声はしっとりと晴翔に注がれ、晴翔は困ったように、ハハハ、と笑うしか出来ない。
毎日毎日追い掛けられ続けた晴翔は、もはやその意味を見失い、一度くらいは話を聞いてやってもいいのではないか、などと考えていたのだ。
「ダビ」
だが、今日やっと——十日以上毎日顔を合わせていた男の愛称らしいそれを、晴翔らは初めて耳にした。
「ダビ?って名前なん?」
好奇心旺盛な勇哉は迷うことなく男へと問い掛ける。特に隠す理由もない男は少し考え、いや、と呟き続けた。
「愛称だ。そうか、言っていなかったな。……いや、言う機会がなかったのか。僕は
柔らかく微笑み、晴翔のみへと注がれるその眼差しは語りかけているのではなく、懇願しているようにも見える。が、当の晴翔はそれを直視せず、視線を下へと逸らし、左の口角だけを上げた。
「多分、ダイジョーブ」
覚えた、と小さく呟き、晴翔はヒクリと上げた口角を震わせる。
と、カランとドアチャイムを鳴らして結衣が顔を覗かせた。元々クリクリと大きな目をしている結衣だが、今は元の比にならない程見開かれている。
「え……日内ダビド、って…-あんたの親って」
結衣が問い掛けると、男は——ダビドは目を上げ、今更気が付いたのか、と呆れ顔で小首を傾げた。
「まじ?」
「そうだと言っている。本当に忘れていたのか」
嘆息し、晴翔へと向けていた目を結衣へと滑らせる。その目は晴翔へと向けるもの程ではないが、これまで晴翔達が見てきた中でも柔らかくあたたかかった。
「デカくなりすぎてて分かんなかったわ。いつぶり?こっち来てなかったよね」
「君が日本に戻る前に会ったきりだ。……十年ぶり?だろうか」
「あー、そっか。そうだよね。来てんなら言ってよ。高校は?」
「待て待て待て待て。なに、お前ら知り合いなの?」
慌てた勇哉がガッシリとその逞しい腕を伸ばして結衣の身体を反転させる。と、結衣は、あー、そっか、と言いながら控えめなネイルの施された指先で頬を掻き、口を開いた。
「多分、うちのパパがイタリアにいた時の仕事仲間、かな?ダビはその息子」
「兄弟弟子だ」
「兄弟弟子?」
意味が分からない、と顔に書いて勇哉と典昭は結衣の顔を覗き込み、どゆこと、と重ねて尋ねる。
「うちのパパ、昔家具職人目指してたんよ」
「そうなん?いや、スペインっつってたじゃん」
コイツ、とダビドを指差して勇哉は眉間に皺を寄せる。少し考えれば分かることだが、勇哉は脊髄反射で言葉を吐き出しているので、ひとつも何も考えていないのだ。
「僕の父も同じ工房にいたんだ。母はスペイン人だが出会ったのはイタリアだ。君は昔から説明が大雑把過ぎる」
ダビドは勇哉に分かりやすく説明し、混乱の原因である結衣へと苦言を呈した。
「ごめんて。えー……んーと、ね」
と、唸りながら結衣は顎に手を当て、わざとらしく考える素振りをして見せる。勇哉は勿論、閑架や典昭や晴翔は、その仕草の後に飛び出す発言が碌でもないものだと知っていた。
「ダビはね、悪いやつではない。悪いやつじゃないんだけど、でも脳内メルヘンだしお花畑だし妄想癖がヤバいからヤバいやつではある」
「悪口の羅列で笑うもできねぇわ」
普段から結衣と時間を共にすることの少ない謙吾のみが、げんなりとした顔でツッコミを入れる。彼は口元を引き攣らせたままの顔を結衣へと向け、目だけでダビドを見た。
「僕は理想を語っているだけだ。」
「それがヤバいんだってずっと言ってんじゃん」
「ちょ、ねぇ。知り合いならさ」
晴翔は両腕を謙吾とダビドに拘束されたまま結衣へと目を遣ると、察した結衣は、なに?、と晴翔に近付く。察しのいい結衣に感謝しながら晴翔は耳打ちしようと結衣の耳元へと口を寄せようとすると、
「ハルトくん!なんといかがわしい!」
「いや、どこ、が——」
と、ダビドは的外れな声を上げ、同時にグッと晴翔の腕を引いてしまった。
謙吾はハッとした。ダビドの腕に力が籠るのを見逃さず、反射的にその手を離したことを後悔した。
なぜなら、次の瞬間には晴翔の身体が、スッポリとダビドの腕の中に収まってしまっていたからだ。
「おっと、申し訳ない。大丈夫かい?」
「え、うん」
それより、と晴翔はアスファルトを見詰めたまま呟いた。ピリリ、と刺すような空気が晴翔の薄い肌を刺激する。
「あの、謙吾がすげぇ……キレてる」
から離して、と柔く男の胸元を押し、晴翔はその腕から逃げ出そうと試みた。
「このまま我が家へ行こう」
「お願いだから話聞いて。離して」
「今ここで話をするのかい?構わないよ。何を話そうか」
「そっちの“はなして”じゃなくて、あの……ねぇ、お兄さん!助けて!」
「……ああ!ごめんね。ダビ、いい加減帰るよ!」
晴翔の声で似非兄弟は存在を取り戻し、カツカツと革靴の底を鳴らしてダビドの横に立つと、晴翔の身体からその褐色の手を剥がした。
「なんて雑な」
「ダビが我儘を言うからだろ?さぁ、帰ろう」
悪かったね、とダビドと似通った背格好の紳士は半ばダビドを引き摺りながら車までの道を辿り、無理矢理その中へと押し込んだ。
ギッ、と鈍い音が響く。
「あすみん、歯欠けるよ」
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