第2話-不機嫌な同伴者

 ホームルーム中の教室は、どのクラスも真面目に担任教師の話に耳を傾ける生徒とそうではない生徒の差がくっきりとし、教卓から見る景色は文字通り二分された。

「なぁなぁなぁなぁ、晴翔。……晴翔」

「ごめんけど、ちょっと黙って」

 晴翔はどちらかというと、そうではない生徒に分類される。後ろの席に掛けるクラスメイトに小声で抗議し、細い腕で文字通り頭を抱え俯いたままの晴翔は深い深い溜息を吐いた。今日ばかりはいないでくれ、と例の男へも神へも届くはずのない祈りを捧げる。

「準備運動しねぇの?」

「マジで黙って」

 間髪入れずに言い返し、晴翔は机に突っ伏した。晴翔が男から逃げ回っていることは、瞬く間に学校中を駆け抜け、クラスメイトであれば当たり前に知っているのだ。

「木崎、顔上げろ」

「……うす」

 すぐさま注意された晴翔は顰めっ面のまま前を向き、溜息を吐いた。背後から聞こえる小さな笑い声に、晴翔の眉間の皺は更に深くなる。飲み下す間もなく出続ける溜息は晴翔の気分をただただ暗くさせた。

 話が終わった担任が号令を掛けるよう促した。日直の声を聞いたクラスメイトが全員立ち上がるのと同時に、教室を厭わしい音が満たす。晴翔の小さな身体はその音に揺らされたのか、ビクリと肩を跳ねさせ、顔を上げた途端に机の上に置いていたバッグパックを手に取り、教室の外へ足早に向かった。

「晴翔ー」

 間延びした声で晴翔を呼び止めたのは謙吾で、澱んだ空気を纏う晴翔はそれすらも不快そうに顔を歪める。

「なに」

「ちめたいねー。遊び行かん?」

「あー、うん。……いや、部活は?」

 明るく朗らかな笑顔を晴翔へ向けていた謙吾は、その温度をグッと低くする。晴翔以外が見れば察することだろう。あ、コイツ怒ったな、と。

「言ってんじゃんよー、毎週水曜はオフって。ね、遊ぼ」

 だが、謙吾はそれを決して晴翔には悟らせない。晴翔が人の機微に鈍いこともあるが、謙吾は晴翔と接する際、他と接するよりも明らかに慎重に言葉と声色に注意を払っているのだ。

「安海、参考書見に行かん?」

「えー?俺は晴翔と遊ぶ予定!」

「あ、そ」

 じゃあな、と謙吾に告げたクラスメイトは苦笑を浮かべてそこから立ち去る。晴翔はそれに興味を持たず、自分よりもずっと体格のいい謙吾を見上げた。

「どこ行く?なんでもいいけど」

「お、デートしてくれんのー?やりー」

「デートて……まぁいいや。カフェとか?勉強もしなきゃねぇし」

 謙吾の言葉に晴翔は顔を顰め、適当に思い付いた行き先を吐き出す。

 晴翔らの通う樋泉ひいずみ学園高等学校は、そこそこの進学校で、そこそこの家柄の子どもが通うことで知られている私立校だ。つまり、ただのうのうと過ごすだけでは留年しかねなかった。

「再来週テストあるしそうしよか」

「あ、あすみーん。やほー」

「……やほー」

 結衣を見ると少しの不快感を滲ませて謙吾は手を振り返す。

「はーい、そんなに威嚇しないの」

 と、緩い口調で謙吾を諌める勇哉は、ゆっちもね、と苦笑して結衣にも注意をする。

「してないけどー?なに?ついてくる気?」

 口角だけを上げ、目元に笑みは一切浮かべず不快感を露わにする。勇哉と結衣はそれに苦笑し、出たよ、と呟くのだった。

「強火セコムマジ厄介なんだが」

「てーか、また追っかけられんだろうし、人数は多い方がいいだろ」

 閑架を待っていたらしく、一足遅れて登場した典昭が晴翔の頭をグシャグシャと雑に撫で、謙吾を挑発する。が、謙吾はその体躯を屈め晴翔の髪を整えた。

「ま、空気と思えばいっかー。どこのカフェにする?」

「のんのとこでいいんじゃね?」

 と、薄い反応で返す晴翔はどこか他人事で、謙吾のみならず他の四人も苦笑した。そんな状況の中でさえも、晴翔は頭ひとつ、否、ふたつ程高い位置にある謙吾を見上げ、どした、と呑気に聞く。

「ハァ……はい、じゃあみんなで行きましょうねー」

 それにはさすがの謙吾も溜息を吐き、これから嗜むであろうコーヒーよりもずっと苦い笑みを浮かべ、晴翔の背に腕を回しそっと押す。逆らうことなく、腕に押されるがままゆっくりと歩き始めた晴翔に、謙吾の中にある満たされない器へぽたりと一雫ひとしずくの充足感が注がれた。


***


 コンクリートのグレーと寄せ集めの木々が色合いを成す店内を遅めの昼食を取るサラリーマンやOLと、子と旦那の居ぬ間を楽しむ主婦達が賑やかしている。テーブルいっぱいにノートや単語帳、参考書を広げる高校生男女六人組は、その中に紛れるには少しばかり浮いていた。

 耳にイヤホンをし真面目にペンを走らせる典昭と閑架と、ゆったりとした口調で会話をしながら単語帳を捲る勇哉と結衣、あれこれと話しながらも課題を進める晴翔と謙吾は同じグループとは思えない程バラバラだ。

「てか、今日は来ねぇな」

「……ああ、そうな」

 唐突に晴翔へと向けられた勇哉の言葉にワンテンポ遅れながらも返し、晴翔はペンを置き水滴を纏ったグラスへ手を伸ばす。アイスティーと溶けた氷の淡く輝く鮮やかなグラデーションがぐらりと揺れた。晴翔はそれをチラリと一瞥し、片眉を吊り上げると口を付ける。

「来てくれって頼んでねぇし、疲れっからいーんだよ。……つか、思い出させんな」

 例の男を思い出した不快感から晴翔は顔を顰め、勇哉を睨む。が、垂れ気味の目尻をほんのりと上げたに過ぎない目付きでは、怖いも何もなく、ただ小動物が威嚇している姿を思わせるだけだった。

「おっかない顔しなーいの」

 その顔を愛おしそうに見詰め、謙吾は晴翔の頬を柔く摘む。謙吾こそ、晴翔が威嚇をしている小動物にしか見えていないのだが、冷たく遇らわれようともほんの数秒、晴翔に触れたいがために構うのだ。

「ねぇ、のんー……のーん」

 そんな謙吾に呆れ果てた結衣は、イヤホンをしたまま集中し、手を止める気配のない閑架のノートを指先で叩き、彼女の意識を自分へと向けさせる。顔を上げ、ペンを置いた閑架は首を傾げて結衣を見た。はめていたイヤホンを外す。

「ごめん、なに?」

「のんもパフェ食べる?」

 結衣は左手に持っているメニューをヒラヒラと揺らして主張し、既に開かれている茶会に糖分を追加しようと提案する。閑架は薄い下がり眉をきゅっと吊り上げ、緩く首を振った。

「スコーンにする」

「うぃ、ゆーやは?」

 俺はねぇ、と結衣の手元にあるメニューを覗き込んだ勇哉は、パウンドケーキかな、と呟き頷く。閑架は再びイヤホンを耳にはめながら隣にかける典昭を肘で軽く突くと、典昭は視線を上げて結衣の持つメニューを認め、

「アイスコーヒー」

と、短く、それだけ呟いた。

「晴翔と謙吾は?」

 勇哉が結衣に向けていた視線を二人へと移す。謙吾はチラリと晴翔を見遣り、なにかを察し、にこりと、これまで勇哉や結衣には決して向けてこなかった笑みを彼らに見せた。タイミング悪くその笑顔を見てしまった結衣は口角を引き攣らせ、謙吾からさっと視線を逸らす。

「俺はいらなーい」

「ブリュレ・プリンにする」

「あいよ。おじさーん、すんません」

 手を挙げ、勇哉が呼ぶ男性は髪色や髪型こそ違えど、すっきりとした目元や薄い唇、薄い下がり眉が閑架とよく似ていた。

「のんパパ〜、今日ものんが釣れないの」

「そうなの?閑架、ゆっチには優しくって、いつも言ってるだろう」

「オッサンのゆっチ呼びキッツ」

 イヤホンを耳から取りもせず、このカフェの店主である男性を見もせず。閑架はうんざりとした顔でノートに写した数学の問題を解きながら、繰り広げられているであろうやりとりを予測して吐き捨てる。聞かずともその会話にぴったりの悪態を吐いてみせた閑架を目の当たりにし、さすがの結衣も、ハハハ、と乾いた笑いを浮かべるしかなかった。

「まったく……閑架も美人なんだから、もっと愛想良くしなさいよ」

「え?なに?」

 イヤホンを外そうともせず、閑架は口先だけで聞き返す。『のんパパ』と呼ばれた店主は文字通り、閑架の父親である。

「はぁ……えーっと、注文かな?」

「あ、んと……パフェと、スコーン、パウンドケーキとアイスコーヒー……とブリュレ・プリンで」

「はい、かしこまりました。少し待っててね」

 注文を終えた勇哉は店主と笑顔を向け合い、互いに手を振る。が、父のこの軽薄に見える雰囲気が、閑架はどうしても苦手だった。


***


「はーい、みんなお待たせ」

 普段、閑架が見せないような笑みを浮かべ、閑架にそっくりな顔の店主はスイーツを並べたトレイを両手で支え現れた。それを認めた閑架は静かにテーブルに広げていた参考書やノートを閉じた。それに倣い、晴翔や結衣、勇哉もテーブルの上を整理する。

「あざーす!プリンが晴翔で、パフェとパウンドケーキはこっちで、」

「はいはい」

 勇哉は置く場所を誘導するように指を差し、スイーツの行き先を指で繋いで指定した。それを聞きながら、店主はフォークとスプーンのぶつかる音やテーブルと食器のぶつかる音を小さく立て、それぞれへと分配していった。

「スコーン、ちょうだい」

 トレイに残る最後のひと皿。それを手にし、行き先を確認するために顔を上げた店主は娘と目が合う。少し愛想がなくて、すっきりとした美人顔が冷たさを普通よりも強調する彼女は、気まずそうにして、しかしその目からは逃げまいと見つめ返していた。

「はい」

 なんてことはない、ただ皿に盛られたスイーツを手渡しただけなのだが、閑架は今まで感じたことのない満足感を得た。彼女の得たそれは、父であり店主である彼だけでなく、彼氏である典昭と友だち思いの晴翔にも同じように注がれ、暖かい空気が彼らの周りを包み込む。

 この平和で、温かい時間がいつまでも続くことを彼らの多くは望んだ。

「ゆっくりしていってね」

「ありがとうございまーす」

 ただひとり、ストローを齧りながら晴翔を見詰める謙吾を除いて。

「頼まなくてよかったのか?」

 謙吾へと視線をチラリと送り、疑問を投げかけた晴翔はデザートスプーンを手にした。謙吾は、ふふ、と小さく笑み晴翔が食べる様を見守る。

「母さんがメシ用意してるしねー。甘いのそんな食わないし」

 晴翔を含め、その動作は見慣れたものなのだが、その真意を知る四人は居心地悪そうに苦笑する。

「ああ、謙吾の母ちゃんアレよな」

「お残しは許しまへんでー!、って」

 母親の真似ではなく、母親と似ているキャラクターの真似をした謙吾はチラリと晴翔を見る。ケラケラと笑う彼は同い年とは思えない程に幼く、謙吾の様々な欲が掻き立てられた。が、謙吾は静かにそれを抑え込む。

「たまには飯食いにおいでよ」

 昔みたいにさ、と囁く謙吾はまるで晴翔の恋人で。四人の——五人の空気がガラリと変わる。控えめなドアチャイムが鳴る。

「いらっしゃいませ、おふたりでのご利用でしょうか?」

「いえ、少し話したい方がいまして」

「え?あ、ちょっと……!」

 遠くから店主が客を呼び止める声が聞こえる。いつも通りあまり変わらない声色だが、閑架はなにかが引っ掛かり声の方へと顔を向けた。その先にあった光景に薄い唇から音を溢す。

「貴方に害をなすつもりはありません。彼に用があるだけです」

 声を聞いた晴翔の肩がビクリと跳ねる。と、同時にガタッと大きな音を立て、掛けていた椅子から反射的に立ち上がった。

「ハルトくん、こんにちは」

 柔らかい笑顔を晴翔へと向け、ズンズンとこちらへ向かってくる男を認めた典昭は晴翔を隠すように立ち、少しの時間稼ぎを試みる。

「君達に用はない」

 冷え切った声色で告げる男に典昭と勇哉は底知れぬ不気味さを覚え、謙吾は烈火の如き怒りを溢れさせた。

 深く息を吐き立ち上がった謙吾は晴翔の肩に手を添える。その眼光は鋭く、晴翔の知る謙吾ではなかった。

「やーっと会えた。クソストーカー」

「幼馴染のアスミ・ケンゴですね。想像よりずっと軟派な男ですね」

 事情の知らない人間でも分かる程険悪な雰囲気に、店主は咄嗟に閑架を手招いた。

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