第6話

「……ちゃーん……」

どこか遠くの方から、声が聞こえる気がする。

「ちゃーん……由香里ちゃーん……」

疲れていたせいか、その声は実は遠くからではなく、近くで囁いている声だと気が付くまでに少し時間がかかった。

 ゆっくり目を開けると、ぼんやりした視界が、だんだんはっきりとしてきた。


「――由香里ちゃん、来ちゃったよ」

目の前には昨日会ったパグ犬がいる。

「あ、え?? あなた明生くん?」

思わず声を出した私に、明生くんはシーッと指を立てるような動作で、

と言っても、実際には前足を変な形に曲げただけだったが。とにかく”静かに”と言う感じのゼスチャーを見せた。


「あの……どうやってここに入ったの?」

私が小さな声で聞くと、

「訓練センターに入る車に積んであったダンボールの荷物の中に紛れ込んだんだ。

皆が荷物を置いている隙にダンボールから出て建物に侵入したら、柱や観葉植物の影に隠れながら夜になるのを待っていたんだよ」

彼はなんだか、凄いことを言い始めた。


「じゃあ由香里ちゃん、行こう」

「行こうって言われても、ケージに鍵が掛かっているし……」

「大丈夫。同じ番号の鍵は見つけておいたから」

か、鍵を見つけたって……アンタは怪盗ルパンか。……私は心の中で突っ込みを入れた……。


 ――ケージから出ると、私と明生くんは訓練所の廊下をどんどんと進んだ。

 彼はすでに、建物の内部をほぼ把握してしまっていて、敢えて複雑なルートを進みながら人目に付かない道を選んでいるようだった。


「監視カメラがあるからね。ちょっと遠回りなんだけど、この進み方の方が安全なんだ」

と、軽い調子で彼は言った。


 一体この人は何者なのだろうか……。

結局、私達は誰にも見つからずに、あっさりと建物の出入り口のドアまで辿り着いた。


「でも、このドアどうやって開けるの?」

「ああ、実はここ閉まっていないんだ」

言いながら明生くんは、同時にドアの境目に前足を入れて簡単に開けてしまった。

「ど、どうやったの??」

と、私が驚いて聞くと、

「さっき、由香里ちゃんのいた部屋へ行く途中で人が出入りした隙を見て、

壁とドアの間に小さな石を置いておいたんだ。そうすればドアは半開きのままになるからね。

こういう時は人間より犬の方が小回りが効くんだなって思ったよ。あはは」


 あははって、アンタは忍者か……。

私は明生くんに得体の知れないものを感じ始めたが、自由になれた嬉しさもあったので今は深く考えない事にした。


 ――私達はそのままセンターを抜けだして、街の灯りが見える方向へ走りだした。


「由香里ちゃん大丈夫? 疲れた?」

無言で走っている私を見て、明生くんが心配そうな声で聞いてきた。

「大丈夫。センターで訓練してたから、体力はあるんだけどね……」

苦笑いしながら私は答えた。


「由香里ちゃん、これからの事なんだけど、前に僕達みたいな犬と会ったって言っていたよね?」

「うん。犬になった最初の日に会ったの」

「で、その人は由香里ちゃんを見て、すぐに人間だって見抜いたんだよね?」

「うん。向こうから突然話しかけてきたんだよ。でもビックリしちゃって、こっちからは全然話せなかったんだけどね」

「もしかしたらさ、その人は何か知ってるんじゃない? 僕達が犬になった原因とかさ……。由香里ちゃんは、その人がどこに住んでいるか知ってる?」

「ううん。散歩中に出会っただけだったから……。でも、きっと私がいた家の近所だとは思う」

そこまで言って、私はふと至極当前の事を忘れていた事に気が付いた。


「ね、ねえ明生くん。それよりも、私達が人間だった時の家に行ってみた方が良くないかな??」

すると、それを聞いた明生くんの表情が少し曇った。


「由香里ちゃん。実は僕、人間だった頃の家に一度行ってみた事があるんだ」

「え? ほ、本当に? ど、どうなっていたの?」

「……」

「あ、明生くん?」

少し沈黙してから、明生くんは重たそうに口を開いた。


「――いないことになってた」


「え? い、いないことになってたって、何が??」

その言葉の意味するところが理解出来なくて、私は聞き返した。

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