ミス・コネクション【第一話 C】

 週明け、出勤したと同時に上司の岸から声をかけられ、彼は人目を気にしているのか、喫煙所まで移動した。


「別に言いにくいことでもないんだがな……一応だ。誰かに聞かれて、噂が流れてもあの人に悪いからな」


 タチバナは「はぁ」と首を傾げる。

 誰のことを言っているのだろう……?


 久しぶりに岸に呼び出されたので、なにかミスでもしたのかと思ったが、違うようで安心した。どちらかと言えば、岸自身がミスをしたと思っているようだ。


「なあ、タチバナ。担当作家、変えるか?」

「え?」


「タチバナをアカバネ先生、ニタドリをオオアゴ先生の担当にしたのは、当時はそれが上手くはまると思ったんだ……。アカバネ先生の自由奔放さは、お前のしっかりとした管理で直ると思っていたし、寛容なオオアゴ先生に新人のニタドリをつければ、伸び伸びと仕事をしてくれるかもと期待してな……。だけど実際は、二人ともストレスを抱えるようになっちまった……、作家の二人に変化はなさそうだが」


 少なくとも、アカバネ先生はいつも通りである。

 オオアゴ先生も、制作のペースが落ちたわけでもない。


 苦労しているのは担当編集だけだった……だから。


「タチバナとニタドリを入れ替えようと思うんだが…………どうする?」

「ニタドリはなんと言っていますか?」


「まだお前にしか話していない。お前にその気があれば、ニタドリにも話を通すつもりだ。ニタドリが嫌だと言っても……まあ言わなさそうだけどな。もし言っても、入れ替えは滞りなくおこなわれるから、そこは安心していい。理不尽な変更も受け入れる、それが社会人ってものだ」


「岸さん、その考えは古いですよ……そんなことじゃあ、あっという間に若い子がいなくなっちゃいますよ」

「お前も若い子だけどな」


 見た目ではなく実年齢のことだ。


 エルフは長い間、若い頃の姿を維持できるから、タチバナも誤解されることが多い。

 その見た目でも実際は四十代なんでしょ? と言われることも多い――が、タチバナは正真正銘、二十代である。


 まだまだ、若い子と言えるだろう。


「気を付けるよ。それで…………どうする? 担当を変えるか?」

「いえ、このままでいきます。……ここで変えたら、逃げたことになりますから」


「逃げたっていいんだぞ? 嫌なら逃げるべきだ。理不尽なことは言うかもしれないが、嫌なことを強いるつもりはないんだから――お前が仕事をしやすい環境を整えるが、上司の仕事でもある。そりゃあ、成果を出せるなら出してほしいし……お前はきっと、アカバネ先生よりもオオアゴ先生の方が合っていると思うぞ」


「それでも」


 会社が決めた担当替えなら断らなかっただろう……断れない、だろうけど。


 でも、これは違う。

 タチバナのわがままで、担当を変わるのは……――タチバナが納得できなかったのだ。


 アカバネ先生と上手くいっていないけど、まだやれることはあるのではないか?

 それをしてからでも……担当を変えるのは、遅くはないはずだ。


 オオアゴ先生の担当は、とっても魅力的だけど……。

 わだかまった後悔を消化しないと、前には進めない。


 我ながら面倒な性格だと分かっている。ニタドリのように今をどう楽しく生きるかだけを考えられたら――ここまで苦しむこともなかったのかもしれない。


「あたしは、もうちょっと頑張ってみます」


「……そうか。なら、担当はこのままでいく。極力、口は出さないようにするが……困ったらなんでも言えよ?」


「はい。ありがとうございます、岸さん」


 〇


「あれれ? お二人で密会ですかー?」


 自席に戻ると、ニタドリがニヤニヤしながら近づいてきた。


「内緒話なら混ぜてくださいよ」

「言うわけないでしょ。だって、あなたのことなんだから」


「え? もしかして、遂にわたしも昇進ですか!?」

「さて、どうでしょうね。逆もあり得るかもしれないわよ?」


 新人の降格はクビなのでは? と想像してゾッとするニタドリに、タチバナが彼女の頭をぽんぽんと撫でて、


「さ、仕事をしましょ」


 〇


 数日後、タチバナがいつも通りにアカバネ先生の自宅へ向かう。


 作品の進捗はどうなっているのか。進んでいなければ喝を入れるし、制作できるようにサポートをする……それが担当編集の役目である。


 合鍵を使って自宅へ入る。音信不通が当たり前の状況なので、アカバネ先生のマンションへの出入りはいつでもできるようになっている……もちろん、担当編集のみの特権だが。


「アカバネ先生、入りますよ?」


 一応、一報を入れていたので問題ないとは思うが、たまに女の子を連れ込んで遊んでいたりもするので、気を付けなければいけない……。

 最悪、交尾の最中だったりもするので、そういう場合はすぐさまUターンだ。一報を入れても、彼が見ていなければ意味はないし……なので毎回、恐る恐る入ることになる。


 今日は大丈夫のようだ。

 ただ、やけに静かな気もするけど。


「アカバネ先生?」


 カーテンも閉め切り、薄暗い部屋で椅子に座るアカバネ先生。


 部屋に入ったタチバナは、言葉にできない不穏な空気を感じ取る……。


 付き合っている彼女にフラれたとか、ギャンブルで大損したとか、そういう落ち込み方ではなく――。


 最低限、身なりを整えることもしていない、寝起きのまま……いや、もしかして寝ていない?


 薄暗いから気づきにくいが、目の下の隈がかなり濃く、深い……。


「え、――どうしたんですかっ、アカバネ先生!?」

「ねえ、タチバナちゃん……」


 駆け寄ったタチバナの手を、ぎゅっと乱暴に掴むアカバネ。


「痛っ」

「タチバナちゃんは、オレの担当を、外れるの?」


「え、……どう、して、それを……?」

「ああ、やっぱり、外れるんだね……」


 アカバネが椅子から立ち上がる。

 そして、震えるタチバナを床に押し倒した。


 掴まれた手を振り解こうと足掻くタチバナだったが、女性の力では敵わない。

 しかも上から乗っかられたら、これを覆すのは難しい。


 アカバネの瞳がタチバナを狙う。

 ゾッと、背筋が凍った……、普段のアカバネとは違う様子のギャップもあるが、それ以上に、タチバナは身の危険を感じたのだ。


 命を取られるのではなく、女を奪われる恐怖を。


「オレの傍から離れる前に、タチバナちゃんの全部を貰っておこうと思ったんだ……」

「やっ、め――離してッ、離してくださいッッ!!」


「ずっと担当でいると思っていたから、ゆっくりと距離を縮めていこうと思っていたけど、こうして急にいなくなるかもしれないなら、やっぱりすぐに手を出しておくべきだったね……。誰かのものになるくらいなら、オレのものにしてあげる。大丈夫、死ぬまで面倒を見てあげるから。知ってるでしょ、オレには金がある――女の子の一人や二人、死ぬまで養えるんだよ」


「…………もう、やめてください、先生……っ」


「いいね、その顔。タチバナちゃんはあまり泣いたりしないから……うん、ゾクっとするね、可愛いよ、タチバナちゃん――」


 ダメだ、止まらない。


 言葉をどれだけ重ねても、今の彼は『タチバナと繋がった』という結果がなければ離れてはくれないだろう。


 このまま受け入れてしまう? それが最も安全だ……。暴れて、逆上した彼に殴られるかもしれない……、だったらこのまま女をあげた方がいいだろう。


 ――でも。

 激しい嫌悪感が、少しだけ、恐怖を紛らわせた。


 こんな男に奪われるのだけは、絶対に、嫌だっっ!!


「わ、分かりました、受け入れ、ますから……」

「それでいいんだよ、タチバナちゃん」


 拘束が解かれた。そこが隙だった。


 自由を取り戻したタチバナが、慣れない手つきで握り拳を、アカバネの頬に突き刺した。


 腰も入っていない弱い一撃だが、それでも、不意打ちを受けたアカバネは床を転がった。

 立ち上がってくるまで、まだ数秒の遅れがある。


 タチバナは這いながら玄関へ向かう。単純に忘れていただけだが、鍵を締めていなくて助かった――部屋の外へ飛び出し、マンションから走って逃げる。


 怖い、怖い、怖いっっ!!


 涙を拭かずに走って、走って――二駅ほど、必死になって走っていたらしい。


 体力の限界がきて、小さな公園に辿り着く。

 幸い、誰もいなかった……空いているベンチに座って、スマホを取り出し、


『……はい、タチバナ? どうした?』


 上司の岸の声を聞くと、とても落ち着いた。


『おい? タチバナ? ……なにか問題でもあ、』



「…………助けて、ください……っっ」



『今、どこにいる?』




 第一話 D へつづく

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