第4話

我ながら浮気された元カノを家に連れ込むなんて常軌を逸している。

自分が取った行動がどれだけ奇怪なことか今更気付いた。

一途は途中で逃げ帰るわけでもなく、黙々とオレの後ろをついて来る。警戒心は拭い切れていないが、先刻より表情が柔らかくなった。


「どうしたの?さっきから私の顔見て」

「いや、相変わらず可愛いなと思って見惚れてた」

「あっそ。浮気された女に見惚れるなんてイカれてるわ。早く病院行って頭診てもらったら?」

「うん。確かに一途の言う通りオレ、頭おかしいかも。明日行ってくるわ」

「ゴメン、今のは冗談。だから、そんな凄い真面目な顔で頷かないで」


一途は申し訳なさそうに自分の発言を訂正する。

時折見せる罪悪感と悲壮感に苛まれた表情が妙に引っかかり心が痛い。


「ちょっと一回笑ってみて」

「は⁉なんで?」

「久しぶりに笑ってる所が見たい」

「イヤよ。いきなり恥ずかしい」

「一途は笑顔が一番似合う」

「なに急に?もしかして口説いてんの?」


一途との思い出は常に頭の片隅に残っていた。寝る前や講義中、バイト中の時もふとした瞬間に彼女の顔が蘇る。目を閉じても瞼に浮かぶのはたまに見せてくれた多幸感溢れる美しい笑顔。

あの笑顔をもう一度直視したい。そしてドキドキしたい。

だが一途は全力で拒否する。死んだ魚の目でオレを蔑む。


「尻軽女に口説く暇があるなら友達の一人や二人作れば?」

「友達は興味ない。高校で飽きた」

「友達に“飽き”という概念はありませんが…」


高校まで周りに友達がたくさんいたが、ハッキリ言って疲れる。

大して仲良くもない相手とも友達として接しないと角が立つ。女社会ほど苛烈ではないが、それなりの気遣いが必要とされ、少しでもドジを踏めば忽ち輪の中からハブられる。もうそういうのを一々気にしないといけない生活は懲り懲りだ。


「自分の体裁ばかり気にする人生は止めた。これからはもっと自由に生きる。だから友達を作らない」

「へぇ~」

「なんだ?その興味なさそうな返事は⁉」

「今の発言、ただ友達がいないことを正当化するための言い訳みたい」

「ちがう‼」

「そんな全力で否定すんな。余計に怪しさ増しちゃうよ」


一途はオレの顔を横目に鼻で笑う。

ゆったりとした足取りや僅かに上がる口角から余裕を感じさせる。ずっと顔色が悪い癖に態度が生意気だ。


「つか、家まで五分って言ってたよね?」

「うん」

「歩き始めて十五分ぐらい経ったと思うんだけど、まだなの?」

「安心しろ。もう目の前にある」


そう言って正面に見えた薄汚いアパートを指差す。


「ここがオレの住処」

「見るからに家賃安そう」

「うん。掘り出し物件で家賃はかなり安いけど、住みにくい環境じゃないよ」

「あっそ」


二人は錆びついた階段を上り、二階の角部屋で足を止める。


「ちょっと部屋汚いけどいい?」

「どのくらい汚い?」

「それは見てのお楽しみ」


ギギギッと油が足りてないドアを開け、先に一途を玄関に上がらせる。


「お邪魔しまーす……って、うわ~、そこそこ汚いな」

「でしょ、でしょ?」

「なんでそんな嬉しそう?」


玄関を見た瞬間、一途の顔がクッと嫌そうに歪む。

彼女の視線の先には大量に放置されたゴミ袋の山と危険な異臭を放つカップ麵が三つほど床に転がっていた。


「結構部屋広くない?」

「そんなことより直ちにゴミを片付けろ。ギリギリ人が住める環境じゃない」


一途は鼻を抓んで、カップ麵の残骸を拾い集めだした。


「そんなモン、よく素手で触れんな。手が真っ黒に汚染すんぞ」

「どうせ後で入念に手洗うからいい。このまま汚い部屋で我慢する方がムリ」

「さすが潔癖症。高校の頃から変わんないねー」

「別に私は潔癖症じゃない。何事にも無頓着でいつまで経っても整理整頓できない怠惰なアンタが異常なの」


そう云えば、付き合ってた頃もオレの部屋に来る度に汚いと不満をぼやいていたな。毎回嫌そうにする割にはウキウキで掃除していた。

今もポーカーフェイスを気取っているが心なしか楽しそうだ。


「——ほら、だいぶ綺麗になった。あとは後日、燃えるゴミの日にあの溜まった袋を捨てれば万事解決」


一途のおかげであっという間に部屋が片付いた。

玄関付近が掃き溜めと化したが、他の部屋は伽藍洞。雑然とした空間が、うら寂しい殺風景な部屋へ変わってしまった。


「ゴミ以外何もないじゃん」

「大学生ってそういうもんじゃない?」

「ある程度趣味があればこうはならないわよ」


埃被った必要最低限の調度品たち。キッチンすら使い機会がなく、まだ真新しい。勿論、ポスターやフィギュア、漫画なんて存在しない。

ここはただ寝泊まりするだけのカプセルホテル。1Kで洋室が9帖もあるが。


「単身赴任中のサラリーマンでももう少し飾り気があるわ」

「なんかスマン。おもんない部屋で」


一途と付き合っていた頃は人並みに趣味や好奇心を持っていたはず。それがいつの間にか消滅していた。

娯楽に関するものは全て実家に置いたまま。ここには何も持ってきていない。


「冷蔵庫に何かない?お腹空いた」

「豚肉とナス、ピーマンならある」


一途は何の躊躇いもなく冷蔵庫の扉を開ける。

オレと一緒にいるのが慣れてきたのか、張り詰めた空気が弛緩し限りなく素に近づいてきた。


「ちょっとキッチン借りていい?」

「いいけど、もしかして今から料理作んのか?」

「まぁね。家に上がらせてくれたお礼も兼ねて」


この部屋を借りてから四年ほど経つが、オレを含め未だ誰も台所に立ったヤツはいない。それが今日、まさかの女性。しかも元カノが第一号として立つとは夢にも思わなかった。人生何が起きるか分からない。


「醬油と黒砂糖ある?」

「ある」

「どこ?」

「上の棚」

「はいよー」


傍から見ればオレ達の光景はカップルに見えるのだろうか。お互い自然体で言葉少なに意思疎通する。

冷たくもなければ熱くもない。程よい距離感と温度で会話が続く。


「——この三年間同じ大学に通ってたのに今まで全く気付かなかったのはなんでだろう?」

「私は気付いてたよ」

「え⁉いつから?」

「入学してすぐ。たまたま講義が一緒だったから」

「うっそ⁉どの講義?」

「哲学の講義」

「教授は誰だった?」

「大森教授。メガネ掛けた恰幅の良いオジサン」

「マジかよ。あの時に一緒の空間にいたのかよ……。てか、そんな早くに気付いてたんなら、声掛けて来いよ」

「いや、どのツラ下げてアンタに話しかけに行くのさ。肝据わり過ぎでしょ」


「私、浮気したんだよ?尻軽女なんだよ?」と自分の顔を指差して卑下する。

浮気した女が元カレに自分が犯した罪を何度も告白する姿は中々、斬新だ。

酷く滑稽で笑い出しそうになる。


「なに、ニヤケてんの?」

「今更ながらこの状況がカオス過ぎてツボり始めた」


一途は怪訝そうな顔でオレの方を睨む。手に携えた包丁を不敵に光らせて。


「これ作ったらもう帰ってもいい?」

「ダメだよ。ちゃんと面接練習に付き合って貰うんだから」

「元カレの就活に付き合わないといけないとかマジで意味わかんない」


ブーブー文句を垂らしながらも、着々と料理が出来上がっていく。


「美味しそうな匂い。なに作ったの」

「簡単な野菜炒め。無骨メシだけど我慢して」


醬油と豚肉の香りが部屋中に充満し、まるで学食に来た気分。

手際よく皿に盛り付け、ローテーブルの上に置かれた。


「どうぞ召し上がれ」


目の前には大皿が二枚。一途はオレと向き合う形で正面に腰を下ろす。


「こうやって一緒に食べるの懐かしいね」

「別に」

「冷たいなー」

「懐かしむ前に早く食べろ。ご飯が冷める」

「はいはい」


一途の手作り料理を食べるのは四年ぶりぐらいだが、感覚的にはもっと昔のように感じる。

オレはまず見た目から吟味しようと真剣に野菜炒めを眺めていたが、普通に怒られた。そのため急いで豚肉を口の中に放り込み、舌で転がす。


「前と変わらず美味しいな」

「あれから全然上達してないって言いたいの?」

「ち、ちがうよ。そもそも一途が作る料理は高校の段階で全部満点だったんだ。ミシュラン三ツ星級の味。てか、それ以上‼」

「噓くさい褒め言葉ありがとう」

「噓じゃない。マジのマジ‼」


オレにジト目を向けつつ、不味そうにおかずを頬張る。

昔からそうだが、彼女の食事シーンはどうしても食欲がそそらない。何を食べても砂利を食べているように見える。今もそれは健在のようだ。

せっかく料理は上手いのに勿体ない。


「アンタはいつも美味しそうに食べるね。特に私の料理の時は」

「それは勿論!実際に美味しいし」


不意に箸を止め、オレの顔をジッと眺め始める。絵を鑑賞するように固まってしまった。


「ん?口に何か付いてる?」

「ううん。少し頭がボーッとしただけ」


オレが首を傾げて不審がると一途は慌てて視線を下げてしまった。

両手で自分の顔を覆い隠す。耳がほんのり赤くなっていた。


「チッ……、アンタの顔を見てると調子狂う。マジ最悪」


女がてらに小さく舌打ち。

理不尽に悪態を吐きながら残りのおかずを口の中に流し込んで平らげた。

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