第24話:フラン②
フランの人生は順風満帆というものではなかった。幼い頃に母は死に、父も3年前に死んでしまった。しかし狩人たるフランは、生きとし生けるものがいつか死と寄り添うことは避けては通れないものだとよく知っている。父親が生きていた頃から、フランは動物を狩っては血を抜き、皮を剝ぐ日々を送っていた。動物たちはフランの食事となり、血肉になってフランを生かしてくれる。その命を犠牲にして。
もちろん動物たちは進んでその身を捧げてくれるわけではない。おそらく彼らからすれば、その身に矢が食い込むのは天災のようなものだろう。実際には人災であるが、動物からしたら大差ないことだ。だからせめて苦しまぬようにしてあげなさいと、父から教わったフランはその言いつけを守って、獲物は一撃で仕留めることを信条にしている。必ずそれが守られる保証はないけれど、狩りの獲物となる動物たちに対して、仕留め損なったことはいままでなかったし、二射目を打ち込んだこともない。フランはそのことを小さな誇りとして胸に抱いて生きてきた。
暗く鬱蒼とし、どこへも行けない森の中で、フランは父から教えられた小さな正義を大切にして生きてきた。命を屠ったとしても無駄に嬲ることはしない。貰った命を大切に、最後まで使う。それはフランが苦しい世界でも生きていくための縋るべき教えだった。
「うわっ……え……なんだこれ……」
「…………」
徐々に声量を失っていくダグの言葉を耳にしながら、フランは眼前に広がる遺跡とその遺跡の中心に立つ不自然な大木を眺めていた。レグルスと別れてからしばらく走った後、フランとダグは木々が途切れて開けている場所に出たのだ。そこは南の遺跡群で、フランも狩りのために通り抜けたことがある。しかしその時には遺跡の中心に大木など存在していなかった。フランはわさわさと枝に茂った葉を揺らす大木を、口をあんぐり開けて見上げている。
甘く香るのは花の匂いか。根を蠢かせる大木の頭には緑はなく、赤いつぼみばかりが目に映る。開ききってもいないのに、腹に響くような甘さが鼻につく。しかもそれは後から刺激臭に変わって非常に不快だった。
フランは口を開けっ放しにして呼吸が疎かになり、苦しくなって深呼吸をしようとしたが、すぐにやめる。この匂いを深く吸い込むのは良くないと思ったからだ。なぜなら先ほどからダグの【ギフト】である防護壁がチラチラと見え隠れしている。なんの攻撃も受けていないのに発動しているということは、この場自体が危険であるということだろう。
「ねえ、あの木って……」
「たぶん……ミーズ神だ。見ろ、木の幹の中間あたりに顔がついてる。あれはミーズ神にもついてたはずだ。え……? と、鳥だったのが木になったのかよ? もうなんでもありだな……」
ダグは乾いた笑いをこぼしたが、ごくんと喉を鳴らして木の根元の方へと視線を動かした。そしてぎゅうっと顔じゅうの筋肉を中心に寄せ、じわりと涙を溢れさせたと思えば、そっぽを向いてしまう。フランはそれを見て、ダグは何を見たのかと視線をやった。
するとそこは木の根が生きているかの様に蠢いていて、実に不気味だった。しかしそれに恐れを抱いてダグは辛そうな顔をしたのではない。その根の隙間から、微かに子供たちの手足が見えていたからだ。フランはそれを見て、まさか死んでいるのかと心臓が痛くなったが、子供たちの上には虹色に輝くベールのようなものあった。そしてほんの少し、倒れている子供たちの奥にエマを抱いて座り込むミレイの姿が見える。
「ダグ、よく見て。ミレイがいるわ」
「えっ! どこ!?」
「あそこ、子供たちと一緒にいるの。ミレイの背から羽……みたいなものが生えてるわね……? 子供たちを覆ってるのかしら……?」
蠢く根のせいで視認しづらいが、ミレイが子供達を守っているのだろう。フランはそう思ってホッと息を吐いた。子供達はひとまず無事な可能性があるという希望に体から力が抜けそうになったが、すぐにこれではいけないと腹筋に力を入れる。
ここで気を抜いても事態は良くならない。少なくとも今は無事というだけで、早く助け出さないといけないことには変わりないだろう。フランはなるべく匂いを吸い込まないよう、短く呼吸をすると弓を構えた。移動することのない大木であればどこに矢を放っても外すことはない。そう思い狙いを定めて青白く光る矢を放ったが――。
――あっ、ダメ……当たらない……!
弦を離す瞬間にフランはそう思った。しかしすでに指から力が抜けている。解き放たれた矢は巨木となったミーズ神へ向かってまっすぐ飛んでいったが、その大きな幹に到達するよりも早く、鞭のようにしなった枝によって叩き落された。魔術がエンチャントされている矢であったが、着弾しない限り魔術は発動されないのだろう。あっけなく粉砕され、矢だったものはパラパラと風に吹き飛ばされていく。
「うっそだろ!? 失敗!?」
「そうね……失敗だわ……どうしよう……」
呪いを浄化する矢を無駄にしてしまった。予備が1本あるが、それはつまりもう失敗できないということだ。そもそもどうして射ってしまったのだろうか。当たる、当たらないなんていつもだったら射つ前に分かるはずだった。確かに相手は木の化け物だ。動物を狩る時とはまるで違うと想定しておくべきだったとフランは自分の判断を悔やむ。
――今のは完全に私のミスだわ。射つ前に、当たらないことを察知しておかなかった私が悪い。
フランは標的に当たる、当たらないがよく分かった。フランは再び弓を構えてミーズ神を狙ってみたが、今度はすぐに『当たらない』と思った。しかしその判断は今しがた失敗したせいで思っているだけなのかもしれない。レグルスに射ち込んでみせると豪語したのに、あっさりと外してしまった己に恐怖する。悔しさとか、羞恥などはどうでもいい。次も当てられず、万策尽きるのが恐ろしい。その先にあるのはエマや子供たちの死かもしれないのだから。
「フラン」
いつの間にか震えていた右手を掴まれてハッとした。ダグは真っ青な顔で、ダラダラと汗を掻いている。恐らく変貌を遂げた神に恐怖が止まらないのだろう。それなりに長い付き合いなのでフランは知っている。このダグという男は罠にかかった小さな兎すら殺せないような男なのだから、あんな根を蠢かせる神に恐れを抱かないほうがおかしい。
「作戦通りに行こう。俺があいつの気を……な、なんとか引く……。だからその間にフランはあいつに矢を撃ちこんでくれ……!」
「ダグ、待って」
「だ、大丈夫だって。お、俺は死なねえから……!」
「違うのダグ。私、あいつに当てられる自信が……」
「そ、それに俺はフランの腕前も【ギフト】も……信じてるから! お前なら絶対にやれる! 頼んだぞ!」
「ダグっ!」
目をぎゅうと瞑ったまま、ダグは大木めがけて駆けて行ってしまった。ダグは先ほど、矢が叩き落されたのを見たはずだ。フランの矢はミーズ神に届かない。しかしダグはフランを信じると言って行ってしまった。フランの矢が届かないと知っていても、行ってしまったのだ。
――違うっ……矢が届かないとかそんなことを言っている場合じゃない! なんとしても矢を射ちこむのが私の役目よ!
フランはミーズ神に向かって走っていく赤髪を見送ると弓を構え直した。信じると言われたからには俯いているわけにはいかない。必ずやり通さねば。
――ダグが注意を引いてくれる! その間に必ず、なんとかして射ち込むのよ!
ダグがミーズ神に近づくと枝がツルの様にしなり、ダグめがけて振り下ろされた。ダグの恐怖に濡れた悲鳴が聞こえたが、同時に硬質な音も響いて、ミーズ神の攻撃は無事防げたことが分かる。やはり、ダグの【ギフト】である防護壁はミーズ神の攻撃を通さないらしい。だからフランはダグが幾重にも打ち付けられるのを前にしても、冷静に目を凝らすことができた。四方へと視線を巡らせて弱点をとなる場所を探るが、いつもの狩りとは違い、目が曇ったかのように分からなかった。このままでは動きを封じるための矢ですら、叩き落されてしまうだろう。ミーズ神のしなる枝は、ダグを追いかけまわしているから隙があるというのに、当てられるという確信がフランの中にはなかった。
「レグルス……」
思わず呼んだ名前にフランは恥を覚えて頭を振った。羞恥で顔が赤らみ、自分の情けなさに唇を噛む。レグルスはいま、神官と戦っている。ミーズ神をどうにかするのはフランとダグに任せられたことだ。イレギュラーな状態になっていたとしても、簡単にレグルスに頼るわけにはいかない。そもそもレグルスはフランの望みを叶えに来たわけではないのだ。個人の願いすべてを把握し、叶えてくれる存在なんていない。神ですらしてくれないのだから、この世にそんなものいる筈がない。
――レグルスは言ったわ、勘違いするなって。エマを助けたいと私が願うなら、それに応えるのは私の力よ。考えなきゃ……あの腐った神をどうしたら殺せるのか……。
フランは細く、長く息を吐きながらミーズ神を睨みつけた。ミーズ神はいまもフランの目の前でダグを嬲っている。ダグの防護壁に阻まれて直接届いてはいないが、それは友人の死を想像させるには十分だった。いまはまだ大丈夫であるが、ダグの魔力が尽きたその時は四肢がバラバラに舞い散るだろう。
――私が、殺すのよ。あいつを。あの神を。じゃなきゃ皆が死ぬ。遅かれ早かれ、みんな死ぬ。
あの神の中には森の全てを腐らせる呪いが詰まっているとレグルスは言った。そしてそれはミーズ神の死によってもたらされると。生き物が自らの許容量を超えた魔力を身に蓄えれば、自壊を引き起こすのは誰でも知っている常識だ。しかし集落ではミーズ神は森を守るために魔力を消費していて、不足した分を補うために捧げものを求めているのだと解釈していた。誰に言われたわけでもないのに、勝手にそう思い込んでいた。自分たちの心を守るために、ミーズ神を少しでも良い存在としてきたのだ。
――だけど実際には、怪鳥から巨木に変貌するほどの魔力を蓄えていたのね……。
あの変貌が魔力の過剰供給の末なのか、神官が変異を促したのかは分からない。どちらにしてもこの森に生きる者たちはいま、生死の境にいるのだとフランは理解していた。そして己の腕前で結末が決定しうることも理解していた。
――……殺す、殺すのよ。殺さなきゃ……あいつを、あいつを殺す。なにがなんでも、殺す。殺して見せる。私が、私がっ……!
『ああ、フラン。そんなに殺意を込めては駄目だ。向こうに気取られてしまう。それで当たったとしても余計に苦しませてしまうよ』
急に父親の言葉を思い出して、フランは肩から力が抜けた。それと同時に血管から血が噴き出してもおかしくないと思えるくらい、腸が煮えくり返り始める。大切な父の教えに反してでも、あの神に苦しみを与えた末に殺したいと思った己に怒りが湧く。しかしその欲望をフランは抑えられなかった。なにしろあの神と、あの神を従えた神官はよりにもよってフランの巣穴に潜り込み、穏やかに眠る愛し子を攫った狼藉者なのだ。
愛し子である妹のためなら、自らの命を差し出しても躊躇うことはないとフランは思っている。なぜなら父も、母もそうしたからだ。フランは死にゆく父とも約束をした。エマを頼むと約束されているのだ。 父と母が生きていてほしいと望んだのがエマだけではないというのを、きちんと愛されて育ったフランは知っている。しかしそれはそれとして両親亡きいま、エマを守り死にゆくのは自分の役目だとフランは信じていた。父が死んだその日から、いつかエマのために死ぬのだと確固たる予感を持って生きてきた。父が死んだ悲しみよりも、父が死ななければいけなかった理由を作り出した神への憎しみと殺意から、フランはいつか自分にも同じ死が訪れると確信していたのだ。
――でも今は違う。私は死なない。生きて、あの神を殺す。絶対に殺す!
フランは剝き出しの殺意を込めて矢を弓につがえた。すると突然に視界がクリアーになっていく。ミーズ神の枝の動きが遅く感じられ、つぎにどの枝がどう動くのか分かった。一瞬先の未来を覗き見ているような、そんな不思議な感覚だ。フランはそれに【ギフト】が発動したことを確信する。
【ギフト】とは、一定以上の魔力を持った人間の中で、ごく稀に発現する能力のことだ。ダグの鉄壁を誇る『防護壁』も【ギフト】であり、他には『動物と意思疎通が図れる』、『遥か遠くを見通す』といったものや、単純に『怪力』になるというものまで種類は数えきれないほどある。
その中でフランの【ギフト】は『勘が良くなる』というものだ。それは発動しているかが本人からしても分かりづらく、精度もまちまちだった。要するにフランもまた、ダグと同じように自分の【ギフト】を扱いきれていないのだ。むしろダグのほうが自身に危険がある場合、自動で発動するので使い勝手がいいかもしれない。しかし今のフランは自分の【ギフト】のことを理解した。天啓のように己の【ギフト】がなんであるかを理解したのだ。
――私の【ギフト】は直感! その精度は戦意が高まり、感情が昂るほど良くなる! つまり……殺意を高めることこそが私の能力を最大限、活かすことになる!
フランは強かった父を、優しかった母を脳裏に思い描く。どちらも殺される謂れのない善人だった。家族に愛され、森の住民にも信頼されていた人達だった。幼き頃のフランは新しい家族である妹と共に、みんなで幸せに暮らしていくと信じていたのだ。しかしそれは外からやってきた神によってズタズタに切り裂かれた。切り裂くだけでは飽き足らず、両親の死肉を喰らい、そしていまはフランに残された家族をも奪わんとしている。
「殺す! 殺す! 殺してやるッ!」
フランはつがえていた矢を放った。矢はうねる枝を見事に掻い潜り、大きな幹に射ち込まれる。すると悲痛な叫び声が森に響いたがフランは気にもせず二射目を撃った。そしてその後も次々と矢をつがえては打ち、どれも見事に命中させていく。
撃ち込まれた矢はレグルスが込めた魔術を過たずに発動させた。黄色に発光した魔術の網目がミーズ神の肉体を這い上り、動きを封じられた神は空中で振り回していた枝を地面に落としてしまう。重量のある枝が地面に落ちた衝撃で地面に振動が走ったが、フランは集中を切らさず、ここだと思う場所に青白く光る矢を撃ち込んだのだった。
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