第17話:ミーズ神②
そこは今まで通ってきた道と同様の技法で整備された広場であった。道を抜けて全容を把握してみれば、石畳でできた横縦80メートルはある四角い広場だ。周囲は崖に覆われているようで高いところにも森がある。奥にある祭壇らしき台だけ材質が違い、あとから置いたのが伺えた。レグルスは広場の中をぐるりと観察してから空に輝く満月を見上げる。
――なるほど。大きく開けている。これならあのミーズ神も入ってこられるだろう。
しかしここはミーズ神のために整えられた場所ではない。神殿と同じくかなり古いもののようで、10年前にやってきたというミーズ神はちょうどいいから使っているだけなのだろうと考えながら、レグルスは周囲の観察を続けた。荷物を引いている司祭もまだ到着していないし、神官の姿もない。ミーズ神もまだやってこないだろうと広場を見て回る。ダグは見通しのいい場所にいるのが落ち着かないのか、そわそわしたようにレグルスについてきていたが、周りからすれば姿はほぼ見えないし、音も聞こえないので問題はない。
――やっぱりこの場所は神殿と同じくらいの時期に作られていそうだな。風化具合が多少異なるが……間違いなく、神殿で祀っていた神に関係する場所だろう。
神殿があるということは、なにがしかの信仰がこの地にあったということだ。しかしダグはそのことについて話していなかったし、元から森に住んでいた者たちの状況がひっ迫していたとはいえ、あまり反発なくミーズ神の信徒になったことを考えると、この地にあった信仰は一度途絶えているのかもしれない。要するに現存する信仰ではなく、かつての大昔にあった信仰であり、神殿とこの広場は遺跡に該当するということだ。
――もしかしてそれが神官たちの言う『邪神』か? この地は異常なまでに恵みに富んでいる。もしミーズ神以外の『神』がいるなら、神殿の存在も、森の豊かさも辻褄があうな。
しかし今のところ推論でしかない。レグルスがうーんと考え込んで広場をウロウロしているといつの間にか司祭が到着していたようで、脂汗を大量に掻きながら地べたに手をついていた。そしてしばしそこで息を整えると、今度は荷車にあった捧げものを台座の上に置いていく。小さな袋から運んでいくその様子から見て、疲労が大きいのだろう。司祭は息を激しく乱しながらも、荷物の大半を台座に乗せると荷台の向きを変えて、最後に例の全長150センチある麻袋を引きずるように動かしていく。
「はぁ……はぁ……ひぃ……お、終わった……」
作業を終えた司祭の姿は汗みずくだった。レグルスはここからどうなるのだろうと思っていたが、ダグは麻袋のほうが気になっているらしい。ちらちらと司祭を伺いながらも、麻袋を見ている。
「はぁー……今月もなんとかなった……。はぁ……」
司祭は疲れ切った様子で満月を見上げている。その姿はなんの威厳もなく、いっそ哀れなほどくたびれてた。身体的疲労もありそうだが、目が虚ろなので精神にも負荷がかかっていそうだ。レグルスは早く麻袋の中をあけたいので、チャンスがないだろうかと司祭をじっと観察していたのだが、司祭はこれまた大きな溜め息を吐くと、祭壇の上にある黒い小袋から何かを取り出した。それは香炉の様で、司祭が火をつけると緩やかに紫煙が空へと立ち上っていく。
「ああ……神よ……ダーナ神よ……私に幸福をお与えください……」
「え、ダーナ神? ミーズ神じゃなくて? 急に違う神の名前が出てきたな……」
レグルスは疑問を思わず口に出したが、司祭から2メートル以上離れた場所なので向こうには聞こえていない。司祭はなにやら香炉に向かって必死に祈りを捧げている。レグルスはその様子に首を傾げて、ダグのほうを見た。するとダグは苦虫を潰したような顔で司祭を見ているではないか。その顔におやっと思い、「どうした?」とレグルスは声をかけた。ダグは本当に嫌そうな顔で、首を横に振ってから司祭を指さして言った。
「こいつ……アルスターから来たんだ」
「アルスター?」
「この森よりもっと北にある場所だ。そこはダーナって神が治めてる場所で、あっちこっちに嫌なちょっかいかけてくる連中が住んでるんだよ」
「なるほど」
司祭はダーナ神とやらに必死に祈りを捧げているようだった。集落ではミーズ神に仕えているとされる司祭は、実はダーナ神とやらの信徒らしい。そのダーナ神は北にある土地を治めているらしく、この森の神ではないのだろう。ダグが言うにはあっちこっちにちょっかいをかけているとのことだが、ミーズ神を伴ってこの森にやってきたのも、その『ちょっかい』とやらなのだろうか。
「準備はできたのか」
広場に声が響き、振り向けば神器を片手にした神官が広場にいた。どこで何をしていたのかは知らないが神官もこの場にやって来たようだ。レグルスは神官が神器を持っている事実に面倒くさい予感がして少し眉をしかめたが、現実は変わらないので会話を聞き漏らさないようにと耳を澄ませた。神官の声音は集落で聞いたような穏やかなものではなく、硬く冷たい。司祭は神官の登場に慌てたように身を正すと頭を下げた。
「あ、はい……いましがた終わらせております……」
「ご苦労。では貴様はもういいぞ。森から出てかまわない」
「へ……?」
「聞こえなかったのか? アルスターへの帰還を認めると言っているんだ」
神官の言葉に司祭は喜色に富んだ表情をしたが、すぐに表情を曇らせる。そして意見を否定するように「で、ですが……まだ目当ての物は見つけておられないのでは……」と神官に言い募った。神官はそんな司祭を「ふんっ」と鼻で笑う。
「もう時間がない。ダーナ様から早急に結果を出し、報告をあげるよう言われている。今夜、決着をつける」
「しかし、まだミーズは万全の状態では……フランも、エマも喰わせておりません。折角、余所者を受け入れるという大義名分が立ったのです。姉のほうは要求すれば、すぐに食わせられると思いますが……」
司祭がさらりと放った言葉に、レグルスとダグは顔を顰めた。やはりフランとエマをミーズ神に喰わせる算段があったらしい。そしてその大義名分とやらは、レグルスとミレイを受け入れたという対価のことらしい。フランが司祭とした対価の約束とは、もしかしたら己を差し出すことだった可能性がある。
「あいつら、まじで碌でもねえな……」
低い声で言うダグにレグルスは同意も否定もしなかった。それよりもフランが自分を犠牲にしてでも、レグルスとミレイを村に留まらせようとした理由のほうが気になったからだ。しかしそんなことを思案している暇はなかった。神官と司祭のやり取りは変わらず続いているのだから。
「問題ない。先日、力が増強されるものを手に入れたのだ。すでにミーズには取り込ませている」
「な、なんですと……!」
「喜ぶがいい。貴様の娘はこれでダーナ様のご期待に応えられるのだ」
そう言って両腕を開いた神官の声に呼応したかのように、広場に大きな影が差す。見上げれば最初に見た時よりひと回りも大きくなったミーズ神の姿がそこにあった。ミーズ神は体が大きくなっているだけではなく、中央についている人間の顔が紫色となってあちこちがぶつぶつと膨れている。体も腐りかけているのか、巨体が動くたび羽も散っていっていた。実に清潔感のない見た目であったが、なによりも堪えるのが匂いだ。鼻を押さえたくなるような悪臭が漂っており、その醜悪な姿と強い魔力にレグルスは珍しく顔をしかめた。
「うげっ! すげぇ匂いじゃん! 鼻が曲がる!」
「確かにこれは……酷い匂いだ」
ダグの非難に同調し、レグルスは頷いた。どうやら奪われた『骨』はすでに取り込まれているらしい。『骨』によって過剰なまでに魔力が増大したのだろう。涎を垂らして甲高い奇声を上げるミーズ神は、レグルスの目から見れば、壊れかけているように見えた。
――今夜決着をつけると言っていたが……これはもう、ミーズ神の肉体がもたないからだろうな。彼らはこの森でなにかを探しているらしいが……探すのにミーズ神が必要なら、肉体が壊れたら困るんじゃないのか?
満月の日に捧げものをするのは、ミーズ神にさらなる力を与えるためだろう。獣の生命力、人間の持つ魔力。それらを蓄えて蓄えて、10年かけてミーズ神は強くなっていった筈だ。それなのにミーズ神が壊れても構わないくらいに魔力を注ぐのはなぜなのか。成長の結果に崩壊があっていいのか。レグルスはじっとミーズ神を見据える。
「な、な、なんと……! み、ミーズ……! ああ……どうしてこんな醜い姿に……!」
どうやら司祭もレグルスたちと同じ感性を持っているようだった。ミーズ神を見上げたままへたりこんだ司祭がその顔に張り付けているのは恐怖の表情だ。真っ青で、みっともなく、ガタガタと唇を震わせている。ミーズ神を連れてきたのが自分たちだというのに、ずいぶんな反応だなとレグルスは思った。
「なにを今更。貴様が保身のために娘を素体に差し出したのだろう」
「うっ、うっ、ううっ……!」
「安心しろ。貴様のしでかした汚職については、この森での働きに免じて許しが出ている。ただいまをもって、お前の任を解こう。大手を振ってアルスターに帰るといい」
「は、はいぃぃ!」
「……もっとも、帰りの足は自力で用意しろ。現時点をもってお前は俺の管理下ではない。ここからは好きにするといい」
「そ、そんな! 私ひとりではアルスターまでたどり着くことなどできません! 途中で野垂れ死ぬのが関の山でございます!」
「それも試練のひとつだろう。 罪を贖う役目の大半を娘に押し付けたのだ。少しは自らの力で成し遂げてみろ」
追いすがるように懇願する司祭に、神官はもう興味がなさげであった。それどころか嫌悪を感じているようである。ダグは神官が言った言葉に対し、反発を覚えたらしく「自分の娘を犠牲にしたって……信じられねえ……!」とぼやいている。レグルスはその辺の感想はどうでもよく、床に這いつくばる司祭を黙って眺めていた。
――娘を素体に……つまりミーズ神は人間をもとに造り出されたわけだな。ミーズ神が作られた神なら、おそらく目的に沿った能力をもっていると考えるのが妥当か。
レグルスはこちらをまるで見ないミーズ神を見あげた。ミーズ神はこの場にいる誰にも興味がないのか「ギャッギャッギャッ」と奇声をあげて涎を垂らしている。その涎も生理的なものなのだろう。祭壇の上の捧げものにも興味を示す様子がなく、腹を空かせているようには見えない。それもそのはずだ。肉体が崩壊しそうなほどに魔力を摂取させられているのだから腹など空いていないだろう。そもそもこれ以上、魔力や生命力を喰らえば、己が終わってしまうかもしれないのに食べようとするわけがない。
「さて、さっそく儀式を始めたいところだが……まずはここにいる目障りな奴らの排除からだな」
神官はそう言って、杖をこんこんと地面に軽く打ち付けると、ゆっくりとレグルスとダグがいる方を振り向いた。二人がいた場所は、祭壇はもちろん司祭や神官が良く見えるような位置であったが、どう考えても中途半端な場所であった。普通に考えて、なんの意味もなくこの方向は見ないだろうというような位置取りだったのだ。だからこそ二人は、神官が迷いなく振り向いたのを受けて、お互いの顔を見合わせる。
「あれ? これってもしかして、俺たちがいるのバレてる?」
「そうだろうな。視界と聴覚で俺たちをとらえるのは難しいが……あの神官が魔力探知の魔術を使っているなら、俺たちの存在はすぐに看破されるだろう」
「えっ! そうなの!?」
二人のやり取りは神官に聞こえていないだろうし、見えてもいないだろう。しかし神官は神器たる杖を掲げて魔法陣を展開させ、それを発動させた。その瞬間にレグルスは、自分が掛けていた魔術が消滅したのを感じた。張っていた魔法がボロボロと解けていき、それに伴いレグルスとダグの姿が視認できるようになったのだろう。目深にフードを被った神官は、口元を弓なりにして笑った。
「な! お、お前たち! なぜここに!?」
「うわ~!! マジで見つかっちまってるじゃん!!」
司祭とダグは慌てているが、レグルスはじっと神官を見た。魔力の量を考えても、魔術は使えるのだろうと思っていたが、まさか自分の魔術を破って来るとは思わなかったとレグルスは感心する。しかし感心している場合ではない。力が未知数な壊れかけの神に加えて、魔術が思った以上に仕える神官までいるのだ。こちらの手札は自分と、何ができるか分からないダグだけ。そして未だなにが入っているか分からない麻袋という厄介な存在。あの中に生きている人間が入っているとしたら気安く放置できない。死体であればまだいいが、その袋の中身は開けない限り分からないシュレディンガーの猫だ。
「ゆけ、ミーズ! ダーナ様に勝利を捧げろ!」
神官がそう声を張り、ミーズ神に命令するように杖を掲げた。するとミーズ神は甲高い奇声を上げて羽を広げる。明らかに戦闘態勢へと入った様子に、レグルスはふふっと笑う。
「参ったな……思ったよりも形勢が不利かもしれない」
魔術を扱う者同士の戦いは久しぶりだ。レグルスには僅かに緊張があったが、魔術をいつでも組み上げられるように構えを取った。
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