第5話 贈り物ですわ!



 そして、南部に赴く為の、様々な準備をしながら一週間。


 ―――今日は、陛下がおいでになる日ですわっ!


 今日という日を心待ちにしていたアーシャは、侍女に頼んで、お風呂で肌を入念に磨き上げる。

 陛下はお忍びなので、流石に盛装でお出迎えする訳にはいかないけれど、だからと言って使い古した夜着で会うのは、恥ずかしい。

 気合を入れつつも、慎ましやかに見える格好……淡い青色の、肌が透けない夜着を新しく出して貰い、髪に香油を薄く塗り込んで整えて貰う。

 そうして、侍女も下がらせた。

 夜着の上からショールを羽織って、もう一度、部屋の姿見で自分の姿を確認する。

 すっぴんであることだけが唯一の不満だけれど、そこは我慢した。


 ―――準備万端、ですわ!


 一応、会うことは秘密である。

 年頃の乙女が、夜に殿方と二人きりで会う、というのは外聞の悪い話なのだ。

 侍女に察せられたとしても、あまり大っぴらにするようなことではない。

 それにアーシャは『親に内緒で、夜に陛下に会う』という、悪いことをするのが何だかドキドキして、嬉しいと思っていた。

 約束の時間を、今か今かと待ち侘びる。


 ―――早く、来ていただけないかしら。


 アーシャが、落ち着かずに部屋の中とベランダを行ったり来たりしていると、ふと、三日前に父が手に入れてくれた生き物の檻が目に入った。


 ―――そうですわ!


 待っている間に、『それ』の相手をしようと、アーシャはいそいそと近くに寄る。

 そして話しかけたり、檻を指先で叩いたりしてみるが。

「あなた本当に、エサの時以外はちっとも動きませんわねぇ」


 鉄柵の隙間から見えるのは、鮮やかな紫色をした半透明の球体。


 檻に差すように。横向きに通された枝。

 そこに触腕でぶら下がる『それ』が、父に所望した護衛の生き物だった。

 『それ』は今、雫状に垂れ下がっており、ぴくりとも動かない。

「見れば見るほど、可愛らしい・・・・・ですけれど……どうすれば意思疎通出来るのかしら?」

 母は『ウニョウニョしてて気持ち悪い』と言っていたけれど、アーシャにとっては色合いも美しいし、どことなく愛嬌がある気がする。

 目も耳も口もないし、喜怒哀楽すら分からないけれど。

 腹に一物どころか二物も三物も抱えている人間を相手にするより、楽しいのは間違いない。

「ほーら、エサですわよ〜」

 アーシャは、用意した向日葵の種を柵の隙間から差し込んだ。

 すると、どうやって認識しているのか分からないけれど、ぴくん、と反応した球体が、敷きつめた草の上に静かに落ちる。

 そしてゆっくりと這ってくると、落ちた向日葵の種を、ぷにゅん、と取り込んだ。

 アーシャが見つめる前で、まるで咀嚼するように種がパキパキと割れていき、ごくん、と飲み込むような音と共に、半透明の体に溶け消えた。

「何度見ても、不思議ですわねぇ」

「……【擬態粘生物スライムボガード】か。これはまた、珍しいものだな」

「そうなんですのよ。お父様にお願いして手に入れて貰ったのですけれど……って陛むぐッ!?」

「静かに、アーシャ」

 いつの間にか、横から檻を覗き込んでおられた陛下に驚きの声を上げかけて、アーシャは口を、その大きく冷んやりとした手で塞がれた。


 いつの間に現れたのか。


 今日の陛下は、最初に出会った時のような飾り気のない服装をしている。

 いた腰の剣には呪玉が埋まっていて、煌びやかではないが精緻な細工が全体に施されていた。

 しかし、そんなことより何より。


 ―――ああ……陛下の御手の感触が、香りが、わたくしの口元に……ッ!


 思わず、アーシャは恍惚としてしまった。

 しかし陛下を前にして、ずっとそれに酔っているわけにもいかない。

 声を上げません、とアーシャが仕草で示すと、そっと口元から手が外された。

 大変名残惜しい気持ちを感じつつ、アーシャは淑女の礼カーテシーの姿勢を取る。

「皇国をあまねく照らす漆黒の太陽、アウゴ・ミドラ=バルア皇帝陛下に、リボルヴァ公爵家令嬢アーシャがご挨拶申し上げます……!」

「良い」

「このようなところまで足をお運びいただき、誠にありがとうございます……っ!」

 はしゃぐ気持ちを抑え切れず、弾んだ小声で言いながら、アーシャがうっとりとそのご尊顔を見上げると、陛下は少しだけ口元を緩められた。

「ですが、このような場所にお忍びで来られて、宜しかったのですか?」

「城は息が詰まる。化けの皮を被った獣ばかりで、そなたのように心地よき『人』は少ない故に」

「わ、わたくしの側が心地よいだなんて、そんな……光栄ですわ……!」

 嬉しいお言葉にモジモジするアーシャに、陛下は軽く目を細めてられてから、檻の魔物……スライムボガードを指差した。

「それを、手元に」

「え? 分かりましたわ!」

 命じられて、アーシャは疑問も挟まずに檻を開けた。

 エサを食べてノロノロと枝に戻ろうとしていた柔らかい体をそっと掴むと、陛下の前に差し出す。

「これを、どうなさいますの?」

「扱い方を、心得ていないのだろう?」

「それは、はい。恥ずかしながら……」

 この魔物は、意思疎通出来れば、使い魔としては最上級の存在だと言われている。

 魔女や吸血鬼の従えるコウモリや黒猫以上に、変幻に長けるらしい……のだけれど。

「どのように言葉を伝えたらいいのか、知り及ぶ人がいないと……」

 スライムボガード自体は、昔から存在する生き物であり、記録上では魔術士も使役出来るとされている。

 しかし現存する使い手は、その方法を秘匿としていたり、あるいは元々魔物使いの才覚を備えた者だったりと、アーシャが参考に出来る相手がいなかったのだ。

 もし、術師側に膨大な魔力が必要だったりすれば、アーシャには扱い切れない可能性もあった。

 けれど陛下は、いつもより心なしか楽しそうな様子で、饒舌に語り始めた。

「スライムボガードを従えるに、膨大な魔力は必要ない。まずは、吊り触腕を指に巻く。この生き物が最も落ち着く状態だ」

「こ、こうですの?」

 球体の一部を掴むと触腕が伸びたので、くるりと指に巻くと、まるで抵抗なく魔物は巻き付いてそこにぶら下がった。

「ボガードが安らげば、赤子をあやすが如く、緩やかに揺る」

「……ねーんねーん、ころりよー♪」

 すると、スライムボガードは、心地良さそうに体を震わせ、様子が変わった。

「あ。う、薄く光りましたわ!」

「光を、直視せぬことだ。発光は安らいだ証であり、微睡まどろみや幻惑の効果を持つ。眠る間に、敵に襲われぬための備えだ」

「はー……興味深いですわ!」

「我も同様に思う」

 陛下にとっても、興味深いらしい。

 先ほどの陛下のお言葉から察するに、このスライムボガードという生き物は、眠っている間は催眠や幻惑の魔術を常に行使している状態になる、ということなのだろう。

 直視しないように気をつけながら、アーシャは尋ねた。

「ここから、どのようにすれば宜しいのでしょうか」

「この状態で、指先から少量の魔力を垂らし込む。スライムボガードが安らぎに心を開いていれば、そなたと意志が繋がる」

 言われて、アーシャは慎重に、魔力を流した。


 ―――あなた、初めまして。わたくしのことが分かって?


 そう問いかけると、ふるる、と再び震えたボガードから、意志の響きが還ってきた。


 ―――タネ、オイシイ。


 そういう意思が伝わってくる。

 少なくとも、アーシャに対して好意を持ってくれているようだ。

「つ、伝わりましたわ……!」

「では、何かに変化するよう、魔力に託して伝えよ。そなたの想像ヴィジョンが明確であるほど、変化は顕著となる」

「ヴィジョン、ですの?」

 言われて、アーシャは少し悩んだ。

 使い魔として、スライムボガードが変化する『何か』。

 一番よく、覚えているのは。

「……!」

「ほう」

 アーシャがイメージしたものとは少し違ったが、ボガードは、にゅるりと姿を変えた。

 手のひらに乗るくらいの、黒い小鳥へと。

「これは、我が使い魔か?」

「さ、左様でございますわ!」

 一番よく見ているのが、たまに来る陛下の使い魔だったからだ。

 ボガードの変化した姿は、サイズこそ小鳥で幼い印象だが、力強い大鷲の面影がある。

「上出来だ、アーシャ。才がある」

「お褒めに預かり、光栄ですわ!」

 陛下に褒められた、と舞い上がったアーシャだが、そこでふと、思い出した。

「は! 陛下、陛下。わたくし不敬にも、最初にお聞きするのを忘れていたのですけれど!!」

「述べよ」

「あの……」

 元に戻ったボガードを軽く握り、アーシャは上目遣いで人差し指をこすり合わせる。

「何故、今日はわたくし、謁見の栄誉を賜ったのでしょう……?」

 そう。

 何故今日、陛下がわざわざ約束を取り付けてまで、この場に現れたのか。


 それを聞くのを、アーシャはすっかり忘れていたのだ。


 すると陛下は少し口元を緩めて、スッとこちらの頬に手を添える。

「そなたの顔を、見に来た」

「ふぇ!?」

 思いがけない言葉に、変な声を上げてしまった。


 ―――そそ、それが目的でしたの!? そんな、嬉しくて天に召されてしまいますわッ!


 ふぅ、と意識が遠のきかけるアーシャに、陛下がお言葉を重ねる。

「それと、妹に関して、一つ伝えるべきことが」

「ミリィの?」

 そちらが本題なのだろうか、と内心少しがっかりしながらも、アーシャは現実に戻る。

 ミリィに関わることなら、ことさら真剣に聞かねば。

「どんなことですの?」

「『目的を果たすことを望むならば、皇宮に参ぜよ』と」

「皇宮? ……側室として、お召し上げになられるのでしょうか?」

 アーシャは目を丸くした。

 ミリィはそろそろデビュタントなので、そちらの話かと一瞬思った。

 しかし、陛下自ら妹を招く理由としては弱い気がしたので、もしかしたら『デビューよりも前に側妃に』とお望みなのかと、思ったのだけれど。。

 陛下はそれを、首を横に振って否定した。

「いや。宮廷治癒師の教えを望むのなら、だ」

「……ますます、よく分からないのですけれど」

「そなたの妹は、足繁あししげく図書館に通い、借り出しを行なっている故に」

 アーシャは頬に手を当てて小首をかしげるが、続く陛下の御言葉も、いまいち要領を得なかった。

 要は、『ミリィが図書館でよく本を借りているから、皇宮の治癒師に学ぶ気があるのなら、学徒として招く準備がある』と陛下は仰りたいご様子。

 アーシャには、よく分からなかったけれど。

「陛下がそう仰るのでしたら、きちんと伝えさせていただきますわ!」

 矮小なアーシャと偉大な陛下では、見えている景色がそもそも違うのである。

 それに、特に危険なことでもなさそうなので、それ以上疑問を挟まずに了承した。

 すると、陛下は笑みのまま、さらにご尊顔をこちらに寄せる。

「へへ、陛下……!?」

 あまりの嬉しさにまたしても昇天してしまいそうだったが、陛下はその後すぐに表情を真剣なものに変えて、腰の剣を鞘ごと引き抜く。

 

 ―――ああ、凛々しい陛下のお顔が、めめめ、目の前にぃ……!


 アーシャがあたふたしていると、陛下は真剣な表情のまま、こう命じられた。

「目を閉じよ、アーシャ」

「は、はい!」

 即座にパチン! と目を閉じると、全身が心臓になったように、高鳴りが体を支配する。

 陛下が小さく何かをつぶやくのが聞こえた、と思った、次の瞬間。


 アーシャは強烈な魔力の圧を感じ―――右目の義眼が、燃えるようにズグン、と疼いた。


 突然襲い掛かった衝撃に、全身をこわばらせる。

「―――ッ!?」

「耐えよ、アーシャ」

 陛下に鋭い声音と共に頬を撫でられたので、声を押し殺して奥歯を噛み締め、言われた通りに右目の疼きに耐える。

 しばらくして、また唐突に疼きが治まり、アーシャは思わず、ほぉ、と安堵の息を吐いた。

「終わった。目を開けよ」

 恐る恐る目を開くと、最初は刺すような痛みが走る。

 小刻みに瞬きをしながら徐々に慣らして・・・・行くと、右の目尻に涙が浮かんできて、微かな違和感を覚えた。

「焦らず、緩やかに慣らせ。息を、深く、深く、ゆっくりと吸い、そして緩やかに、細く吐け」

 陛下の言葉は、心地よい。

 何度か呼吸し、瞬きをしていると段々痛みが薄れ。

 ようやく目を開くと、剣の呪玉が目の前にあって……アーシャは信じ難い思いで、右目に触れた。


「目が……見えますわ……!」


 思わず陛下のご尊顔を振り仰ぐと、また少し違和感を覚える。

 思わずまじまじと見つめてしまってから、アーシャは気がついた。


 ―――陛下の右目が、光を失って……っ!?


「へ、陛下……!?」

「我の右目を、そなたに」

 いつもと変わらぬ調子で言われて、アーシャは絶句した後、大きく首を横に振った。

「い、いただけません! お戻し下さい! 陛下の玉体を、わたくしの為に傷つけるなど……ッ!」

「静かに」

 恐慌をきたし、思わず声を張り上げるアーシャの唇に、陛下の指先が添えられた。

 落ち着かせるように逆の手で肩を緩く掴まれ、顔を覗き込まれる。


「そなたの右目に、我の『見る力』を預けたに過ぎぬ。我にも見えている。そなたの見る、景色が」


 その言葉には、幾重もの意味が込められているように感じた。

「これより先、あまねく時。そなたの道行きの全てを、我は見守る」

「へ、いか……?」

 アーシャは、その言葉に唇を震わせる。

 視界を共有するということは、ただ同じものを見るだけではない。

 アーシャの進む未来に、これから歩む困難な道のりで何を成し遂げるのかを、見守っていると……その間、いつでも共に在る、と、陛下はそう仰って下さった。

 『期待している』、と、アーシャが革命軍の結成を宣言した、あの謁見の間での御言葉の通りに。


 ―――ああ。


 アーシャは、胸に満ち溢れる想いに、再び目を閉じる。

 それが、陛下が示してくれた、ご自身のお気持ちなのだ。

 これほどの栄誉が、他にあるだろうか。

 ポロポロと、先ほどの痛みとは違う理由で、頬を涙が伝う。

 陛下の指先が頬に触れる感触がして、優しく拭われた。

『人は舌で嘘を吐く。しかし、行動は嘘を吐かぬ』

 いつかの、陛下の御言葉。

 そう聞いてから、アーシャはつぶさに他人の動きを見るようになった。

 すると陛下ご自身こそが、言葉以上に行動で己の想いを体現なさっていたことに、アーシャは気づいた。

 この皇国を、より良くせんと挑む陛下の行動の意味を、一体、何人が理解しているだろうか。

 己の先祖が支配者であった、前時代の感覚そのままの貴族達の、何人が。

 そして、不意に。

 ふわりと抱き寄せられたアーシャは、思わず目を見開く。

 剣を握った陛下の腕が背に回されて、その見た目よりも逞しい胸元に、包み込まれて。

 陛下は、謁見の間では決して見せたことがないような、とても優しい微笑みを浮かべられていた。

「へい、か……?」

 頬を染めながら、思わず見惚れていると。

「そなたが再び、我が腕の中に戻る、その時まで。そなたの想うままに、恐れず、惑わず、進むことを望む」

 アーシャ、と柔らかく呼びかけられて。

 小さく掠れた声で、はい、と答えると。


「―――そなたは、出会った時から、変わらず美しい」


 そうした御言葉を、いただいて。

「身に余る……光栄にございます……!」

 アーシャはするりと陛下の腕を抜け出し、膝からくず折れるように平伏した。

 止めどなく溢れる涙を堪えることすら出来ないまま、震えかける声を抑えながら、言葉を紡ぐ。

「必ずや……ご期待に応え……御許に戻ることを……お約束いたします……ッ!!」

「赦す。立て、アーシャ。我に並び立つを目指す者に、平伏は似合わぬ」

「はぃ……!」

 そう告げられて、目元と頬をそっと拭う。

 少しの間、肩を震わせながら涙を止めたアーシャは、立ち上がって、自分に作れる最上の微笑みを浮かべた。

「どうぞ、ご覧下さい、わたくしの覇道を。陛下の御前に戻る時にアーシャが背負うのは、己で全てを勝ち取る気骨を持つ、幾万の軍勢にございますわ!」

 陛下は、アーシャの宣誓に満足げに頷くと。


 トン、と床を剣で突いて、霞のように姿を消した。

 

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