第67話
その日の夜、園川はほとんど眠れなかった。
なにせ、例の動画によると、次の3回目の儀式が2日後に迫っていたのだ。
5月4日の午前1時。
その日時に薄明の森で、最後の儀式が行われる。これまでの前例では、それを最期に現実世界に戻ってこれなくなる可能性がある。
また、その暗示が、玲奈をはじめ未由の祖父、それに100名を超える輪神教会の信者たちに、植え付けられているはずだ。
そのことを考えると、園川は不安と恐怖に押しつぶされそうになった。
それでもときおり意識を失うと、とたんに悪夢を見た。そこには濃霧に包まれた薄暗い森があった。
常に少女が背後におり、ぼそぼそとしゃべりかけてきた。声ははっきりと聞き取れないが、ずっと、なにか恨みの言葉を語っていた。園川は懸命に、なんども懺悔の言葉を絞り出すが、聞き入れてはもらえない。
そこから逃げ出そうと走り回るうちに、真っ暗な沼の中に落ちる。その沼には大勢の人々がおり、その中に無表情の玲奈や、篠原香澄がいる。彼女たちは手をのばし、すがりついてくる。
そんな夢だった。
やっと朝がくると、こんどは昨日から感じている、妙な違和感が大きくなってきた。その違和感の中心には、なぜか岸中がいた。
そこで園川は、昨日の岸中とのやりとりを思い返した。
――たしか明治神宮の木々に囲まれた歩道で、いくらか話をしたはずだ。
玲奈先輩が失踪したことや、薄明の森での洗脳のこと。凍土のことも。
僕がキャズムと戦って、玲奈先輩と松宮さんがボーラと戦った。そして松宮さんが、ボーラと相討ちになりつつも倒した。
そんなところだ。
そこで岸中さんは言った。そうだ、なんと言った?
「それにしたって、彼女だって強いんだろ? 松宮くんはああ見えて、すごいんだな」
そんなふうに言ったはずだ。
園川はそこまで考えて寒気を覚えた。なぜ岸中は、ボーラのことを『彼女だって強いんだろ?』などと言ったのだろう。なぜボーラが、女性だと知っていたのだろうか。
松宮かだれかに聞いたのだろうか。ボーラはかつて目立っていたから、岸中はどこかで、ボーラのことを聞いたのだろうか。
ささいな違和感だったが、小さな波紋が次第に大きくなるように、岸中への疑問は園川の心に広がっていった。
そこで朝日が昇ってから、松宮と愛野にメッセージを送って尋ねた。
『妙なことをお聞きしますが、岸中さんに、ボーラのことを話したりしましたか?』
それに対して2人とも、まるで心当たりがないようだった。
* *
戸澤未由は家の近くの喫茶店にいた。
目の前の席には岸中がいた。
コーヒーのにおいが満ちる店内はレトロな内装で、壁や棚にはたくさんのレコードが飾ってあった。
軽快なジャズがかかっている。ビーズをばらまくようなシンバルのシャッフルビートの上に、トランペットの高音が踊っていた。
そのとき未由は、ポーチの中でスマートフォンが振動している気がした。見ると、園川からだった。その名を見たとき、怒りと困惑の感情が同時にやってきて、そのまま電話を切った。それから未由は言った。
「持ってきました」
岸中はうなずいて、
「ありがとう。例の、お父さんにもらったもの、だね」
「はい。パパは言ったんです。もしパパになにかがあったら、これを、信頼できる人に渡すんだよ、って」
「なるほど」
未由はポーチを開けて、折りたたまれた茶封筒を取り出した。その茶封筒を手のひらの上で逆さにすると、中からマイクロメモリーが落ちてきた。指先くらいの小さなチップ状のものだった。
「これです」
未由はそのマイクロメモリーを茶封筒に戻して、岸中に差し出そうとした。
そこでまた、スマートフォンが振動した。ふと見ると園川からメッセージがきていた。未由はスマートフォンを投げ捨てるようにポーチにしまおうとした。
――しかし、少し気になり、そのメッセージを開いた。
『園川です。すみません。もし岸中さんと会っているのだとしたら注意してください。岸中さんは、味方なのか、わからなくなりました。いま、どこですか? お願いですからすぐに教えてください』
未由はスマートフォンのディスプレイをオフにし、今度こそ忘れてしまおうとした。しかし、次は再び電話がかかってきた。すると岸中は言った。
「だれからだい? 大丈夫なの?」
未由はしばらく迷ったのち、園川へ店の名前を送った。それから未由は言った。
「岸中さん……」
「え?」
「あの。岸中さんは、どうしてそこまで、これにこだわるんですか?」
「え? いや。警察として。僕個人として。あの輪神教会の蛮行をゆるすわけにはいかないからね。きみのお父さんは、あのAIの神を破壊することを考えていたはずなんだ。だから、警察としてはその情報を手に入れたい。当然のことだよ」
未由はじっと岸中の顔を見た。
まっすぐな眼差しと引き締まった唇。まさに正義の代弁者然とした表情をしている。――それがかえって気になった。
「信じて、いいんです、よね?」
「もちろんだよ。さあ、その封筒を預からせてもらえないかな?」
そこで未由は封筒を差し出した。岸中はそれをジャケットのポケットに入れた。
「ありがとう。これは、警察で責任を持って預かろう。それに、専門家……クラカミクリエイティブの方にも見てもらうと思う」
その後、岸中は残りのコーヒーをゆっくりと飲みながら、学校のことや友人のことを聞いてきた。ひとしきり話したあと、「そろそろ、行こうか」と岸中は言った。
* *
園川は愛野とともにタクシーに乗っていた。園川は運転手に向かって、
「お願いです。急いでください!」
それに対して運転手は非難がましく言った。
「十分急いでますよ、これでも。案外、混むんですよこの時間は」
すると今度は愛野が、
「たのむで、おっちゃん。人の命がかかっとるんや」
「いや、そんなこと言われましてもねえ。警察とかに言ったらどうです?」
「その警察があかんねん」
「なんですかそれ」
「とにかく、はよう!」
「わかってますって……」
それでもやがてタクシーは店の近くまできて、赤信号で止まった。そこで園川は、
「ここでいいです! 降ろしてください!」
「ええ? わ、わかりましたよ」
「すみません」
園川は千円札を3枚置いて、釣り銭も取らずにタクシーを飛び出した。愛野も追いかけてくる。
「岸中さんは、たぶん車なので、近くの駐車場です」
園川はそう言って、店の通りをはさんだ場所にあるコインパーキングを見た。ビルの地下にコインパーキングがあるらしく、そこへもぐってゆく岸中の後ろ姿が見えた。
園川は道路に飛びだして走った。クラクションと罵声が飛んでくる。そのまま地下の駐車場へと進んでいく。
やがて岸中と、彼がいつも乗っているセダン車を見つけた。園川は岸中を通り越して、車のドアの前に立ちはだかった。
岸中は驚いたように、
「え、ちょっと、どうしたんだい? 園川くん」
愛野も追いついてきて、園川の横にならんだ。
園川は息を切らせながら、
「すみません。待ってください。ちょっと、確認したいんです」
「いったいなんだい? びっくりするだろ、もう……」
「すみません。教えてください。岸中さん。先日、明治神宮にいったとき。キャズムとボーラの話をしましたよね?」
「ん、ああ、そうだっけ?」
「そのとき、岸中さん。あなたは、ボーラのことを、彼女、って言いました。玲奈先輩と松宮さんが、ボーラを倒したことについて、彼女も強かったんだろ、みたいに」
「そうかなぁ、記憶力に自信がなくてさ」
「それがずっと、引っかかっていたんです。どうして、岸中さんは、ボーラが女性のアバターだって、知っていたんですか?」
岸中は考えるそぶりを見せ、
「それは、僕もわからないな。申しわけない。だれかに教えてもらったのか、たんにたまたま、思いこんでいたのかも」
「そうですか。そんなことってありますか?」
「ごめんよ。なんの話かわからないけど……」
「わかりました。それじゃ、ひとつだけ協力してください。そうしたら、僕は岸中さんを信用します。いいですか?」
「おおげさだね。ハハ。できることならするけど。どうしたっていうんだよ」
「お願いです。未由ちゃんから受け取った、『例のもの』を見せてください。たぶん、データみたいなものを受け取ったはずです」
「え? それをどうするの?」
「僕らに渡してほしい。あるいはそれがダメなら、一緒に会社に来てください。そこで、一緒に中身を見させてください」
「どうして? これでも、僕は警察の人間だからね……。預かった証拠品を、安易に民間の人に渡すわけには」
「いまさら真面目ぶるんですか? 岸中さん」
「なにを言いたいんだい?」
「あなたは、なにかを隠している。そんな気がするんです」
「ごめん。何の話なんだろう」
そのとき、いつの間にか未由が岸中の背後にせまっていた。
未由は岸中にすべるように近づくと、岸中のジャケットのポケットに手を入れて、茶封筒を抜きとった。
「おいおい、ちょっと、なにをするんだい?」
未由は岸中を見上げて、
「先に、クラカミクリエイティブの人に、見てもらいたいんです」
そうして未由は岸中から距離をとる。
岸中は言った。
「やだな。警察として、責任を持って中身を確認するつもりだよ。必要があれば、園川くんたちにも情報を共有する。それじゃだめかな?」
未由は駐車場の出口に、じりじりと移動しはじめた。園川もそれを追う。
「待ってくれよ、ちょっと。傷つくなァ」
「岸中さん、あとで連絡します」
未由はそう言って背中を向ける。すると岸中は低い声で、
「待ちなって」
見ると、岸中は拳銃を構えていた。
園川は足をとめた。銃口は未由に向いていた。
「あとすこしなんだ。これまで、それを手に入れるために、積み上げてきた! それを、みすみす逃がすかよッ! さあ、封筒を渡せ!」
未由はしばらく固まっていたが、やがて悲痛な声で言った。
「どうして? 岸中さん。どうして?」
「きみに言ってもわからない。さあ、封筒をよこすんだ! それだけだ。早く!」
岸中は撃鉄を起こした。未由は言った。
「岸中さん。それが、あなたの本当の顔なんですか?」
「それがどうした? 死にたくなければ、早くそれを渡すんだ。これでも、射撃の練習はおこたっていない。容易にきみを撃ち抜ける」
未由は悔しそうにうつむいた。
しかし、その瞳は何者にも恭順してはいなかった。
「動くんじゃない!」
と、岸中は言った。
未由は横目で岸中の隙をうかがっているようだ。さながらに放たれる直前の矢のようだった。
動いちゃだめだ。と園川は言った。そのとき、未由は出口に向かって駆けだす。
園川は未由に向かって飛び出す。
地下に響くこもった銃声。
愛野の悲鳴。
「なんの音だ! なにやってる!」
と、出口の方から声がした。警備員が駆け寄ってきた。
岸中は「くそッ」と吐き捨て、ひるがえって車に駆けこんだ。車のエンジンがかかり、タイヤを軋ませて猛スピードで出口へ向かっていった。
園川は未由に覆いかぶさるようにして、倒れ込んでいた。園川は体を起こしながら、
「大丈夫かい?」
仰向けの未由は半ば放心だったが、やがてゆっくりと体を起こすと、
「う、うん」
「よかったよ。未由ちゃんが、無事で」
すると、未由は園川をじっと見てきた。
「園川さん。あなたは……」
「え?」
「いえ。あなたに、これを、渡します」
そう言って、未由は茶封筒を差し出してきた。
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