第7章 手にしたもの

第66話

 園川は岸中とともに明治神宮の林間の歩道を歩いていた。


 広大な明治神宮の敷地には、自然公園ともいえるほど、ゆたかな照葉樹林の景観が広がっていた。


 そんな緑の中をゆくというのに、園川の足どりは重かった。


 場所を指定してきたのは戸澤未由だった。


 それにしても、と岸中は言った。


「そろそろ教えてくれないかな? ブルーエッジの正体を」

「ええ。それなんですが。先に未由ちゃんに話をさせてもらえませんか? ……ささいなこだわりかもしれないですが」

「なんだよ、きみも、もったいぶるね」

「すみません」

「それにしても、いろいろ続くね。篠原さんの再度の失踪。黒部の突然の登場と事故。薄明の森での、神の再来。それに、いくつかの動画」

「ええ。かさねがさね、です」

「たしか、凍土っていうヘヴンで、マスタークリスタルを破壊したんだよね?」

「ええ」

「そこでは、ブルーエッジもいたんだよね?」

「そうですね」

「だとしたら、やはり、ブルーエッジって、かなり身近なところにいるんだろうね。もしかしたら、クラカミクリエイティブの、社員だとか……」

「その話は、あとで」

「わかったよ。……いずれにしても、凍土も大変だったみたいだね」

「はい。キャズムと、それからボーラっていうやつらが妨害してきました」

「キャズム? ボーラ?」

「彼らはどうやら、ヘヴンズシャドウのメンバーだったようです」

「へえ。教団は、かつてのヘヴンズシャドウのメンバーを手なづけてるってわけか……」

「ええ。どこまでかはわかりませんが」

「大丈夫だったの?」

「手ごわかったみたいですよ。キャズムは……ブルーエッジが倒したそうです。ボーラは松宮さんがやりました。松宮さんが身を挺して」

「なるほど。松宮くんも、なかなかやるもんだね」

「ボーラと相討ちになったみたいです」

「それにしたって、彼女だって強いんだろ? 松宮くんはああ見えて、すごいんだな」

「そんなことより、もうすぐ、着きますよ」


 目的地にしていた『夫婦楠めおとくす』が見えてきた。緑の巨大な雲に飲まれる気がするほど、広大な葉が空を彩っていた。


 大きなふたつの楠の木が寄り添って立ち、その周囲にベンチや社殿があった。


 その根元のかたわらにあるベンチに、ひとりの少女がいた。






 戸澤未由は、紺色のスカートに黒いジャケットを着ていた。かたわらには小ぶりのリュックが置いてあった。


 園川たちがベンチの前までいくと、未由は顔を上げたのだが、陰鬱な表情をしたまま黙っていた。岸中は言った。


「きたよ、未由ちゃん」


 すると、未由はやっと口をひらいた。


「ありがとうございます。わざわざ、ここまで」


 そこで園川は、


「いえ、これくらい、なんでもないよ。さっそくだけど、2人で話をさせてもらいたいんだ。大丈夫かな?」


「はい……」


 すると岸中は、


「僕は少し離れてるよ」


 そう言って歩いていった。


 園川はおそるおそる、


「それじゃ、となり、座らせてもらうね」


 未由はちいさくうなずいた。


 園川は未由のとなりに座ったのだが、なにもしゃべることができなかった。


 未由はずっとうつむいて、ときおり足を動かしていた。


 園川の胸の鼓動が早くなり、呼吸が浅くなっていった。


 両手に汗がにじんできた。体が岩のように重たくなった。


 園川はなんとか顔を上げて、口をこじあけた。


「僕は。……きょうはきみに、真実を、伝えにきたんだ」


 未由の視線を感じた。


 園川は腿の上に両手をつっぱり、全身をささえながら、震える声で言った。


「ブ、ブルーエッジは。……僕が。僕が使っているアバターだ。ブルーエッジの正体は、僕なんだ。……殺されてもかまわない。きみになら。ごめんよ。ほんとうに、ごめんよ。未由ちゃん。……僕がきみの、パパとママのかたきだ」


 小鳥の鳴き声がした。遠くで家族連れの笑い声がした。園川の視界の先にはひたすらに深く鮮やかな緑が続いていた。


 未由はあいかわらず黙っていたのだが、しばらくするとふいに、ベンチから立ち上がった。


 園川は体をこわばらせた。


 するとなぜか未由はベンチの裏に周り、園川の背後にきた。


 未由が近づいてくる気配――首すじに未由の息がかかった。すると、首や肩に腕が伸びてきた。


 まるでベンチの背中越しに、抱きつかれるような感じだった。


 体温が伝わってくる。どことなく、ミルクのような甘いにおいがした。


 園川はうわずる声で、


「……未由ちゃん、きみは、いったい」


 園川の首には未由の腕が巻き付いていた。そのとき、未由の腕の先から、硬質な音がした。




 カチカチカチカチカチ……




 園川の首に冷たい金属質の感触が触れた。


 ごくりとつばを飲むと、その喉の動きだけで首の皮が『ぷつり』と薄く切れた感じがした。おそらくカッターナイフのようだった。


 園川は側頭部と耳元に未由のぬるい息を感じながら、そのささやき声を聞いた。


「咳の音の中にいるんです」


 たしかに未由はそう言った。




   *   *




 パパとママがいなくなって、おじいちゃんと、おばあちゃんの家で暮らすようになってから、いつも咳の音がするんです。


 パパが使っていた部屋をくれましたが、いつもおじいちゃんの咳の音が聴こえる。


 わたしが宿題をやっているときも、動画を観てるときも。本を読んでいるときも。


 咳の音が、なんだか、おじいちゃんが、すり減っていくみたいなんです。


 それがこわくて。


 なくなっていくのが、パパからはじまって、ひとりずつ、広がっていくみたいで。




 それに立ち向かうつもりなのか、おじいちゃんは、ヘヴン・クラウドをはじめました。どういうわけか。


 おばあちゃんは、刺激が強いから、年寄りは止めた方がいいって言うけど。


 パパが、最期までなにを見ていたのか、興味が湧いたんだと思います。


 おじいちゃんはパパのことを、変な宗教にはまって、おかしくなったって言うけど、それと同時に、懐かしんでいるんです。


 パパに近づこうとしているみたいに。


 咳に追い立てられて、消えてしまうまえに。




 ある日、晩ごはんのときに、おじいちゃんは、「こんな年寄りじゃなくて、パパとママが生き残ってたらなァ。命の交換ができたらなァ」って言いました。


「じいじなァ、それができたら、そうしてたよ」


 そう言いました。


 ……ねえ、園川さん。


 命の交換なんてことが、できるんでしょうか?


 園川さん。


 ずっとわたしは、考えていました。


 パパとママをうばったやつに、どう償ってもらうのかを。


 ……園川さん。


 ずっとわたしは、考えたんです。どうやって償わせるか。




   *   *




 未由の声が園川の首すじの産毛を震わせていた。苦しみや戸惑いが痛いほど伝わってきた。園川は目を閉じた。目から涙があふれた。首にはまだ冷たい金属の感触がある。


「わたしは、このために、生きようと思いました」


 と、未由の声がした。


 園川の首すじに痛みが走った。


 未由の荒く熱い呼吸が首にかかる。


 ぐいと金属が首を押す。血が冷たく胸につたう。


 そのとき、園川はかつての情景を思い出していた。






 薄明の森の、深い霧に覆われた木々。


 逃げてゆく黒髪の女性。


 体に突き立てた電磁ナイフの振動。


 絶望の視線。憎しみの視線。


 ああ、僕は、いろいろとうばってきたんだ。


 あまりに、うばいすぎた。


 だからこそ償うべきだ。


 いまこそ。






 園川はかすれる声で言った。


「僕なんかの命では、とうてい、つりあわないだろう、けれど」


 小鳥が甲高い声で鳴いた。


 未由は「どうして?」と言った。


「どうして抵抗しないの? 懇願しないの? やめてくれって。そうしたら、ためらわずに、やれるのに。命ごいしなさいよ! ママみたいに! ねえッ!」


 未由の激しい呼吸が園川の首すじにかかる。




 ――そのとき、もういいだろ、と岸中の声がした。岸中が近くまできていた。


「きみが殺人の罪を背負ったら、パパとママは、悲しむだろう」

「うるさい! こうするしかないのよ!」

「やめよう。未由ちゃん。わかっているだろう? いま、パパが、本当に求めていることを……。なにをすべきか」

「岸中さん! あなたになにがわかるんですか?」

「……わかるよ。だから」


 すると、園川の首すじから金属の感触が消えた。


 園川が振り向くと、未由は顔を紅潮させ、唇をふるわせていた。カッターナイフを落とすと、「どうして」とつぶやいた。


 それから両手を口元に当て、感情を口に強く押しこめるようにして、肩を震わせてすすり泣いていた。


 まるでいつも、毎日そうしているように。


 足元には血のついたカッターナイフが落ちていた。








 岸中は未由の体をささえ、園川から右の方にある、少し離れたベンチに座らせた。園川はうつむきながら未由を見ていた。


 すこし呼吸が落ち着いた様子の未由は、岸中に言った。


「おじいちゃんの様子が、おかしいんです。あの、薄明の森に行ってから」

「まさか……」

「はい。暗示を受けたみたいです。あの動画みたいに。5月4日に、最後の儀式があるってことですよね」

「なんだって?!」

「おばあちゃんとわたしでは、止められるかわかりません。おじいちゃんをとめても、家の外に行って、漫画喫茶とかよそのブースから、薄明の森に行くと思う。そして、おじいちゃんは、あさって、亡くなるかもしれない……」

「なんてことだ……。きみの、おじいさんまで。そうか。――でも。だからこそ、きみに協力してほしいんだ」

「協力?」

「ああ。きみのパパ。篠原研悟さんから、なにかを、預かっているんじゃないかな」

「……パパから」

「そうだ。それがあれば、おじいちゃんや、パパの仲間の人たちを、救えるかもしれない。パパは、黒部が作ったあの神を打ち破る方法を、遺していたはずなんだ。未由ちゃん。きみは、言っていたね? ブルーエッジの正体と引き替えに、研悟さんから引き継いだものを、渡してくれるって」


 未由は下を向いてじっと考えこんだ。


 それから未由はふいに顔を上げて、刃のような鋭い視線を園川に向けてきて、こう言った。


「あなたを、赦さない。……あなたを、赦したわけじゃない」


 未由はしばらく園川を見ていたが、やがてベンチから立ち上がると、よろめきながら歩きだした。


 岸中がすぐに追いかけて、未由に付き添った。





 その日の夜、園川が自室にいるときに、篠原未由からメッセージが届いた。


 園川はおどろき、震える手でメッセージを開いた。


 『明日、岸中さんと会う予定です。そこで、すべてを渡そうと思っています』


 メッセージはそれだけだった。


 そのときはまだ、園川の心には、妙な違和感があっただけだった。なにか、重大なことを見逃している感じだけがわだかまっていた。




 それから深夜の12時前に、岸中からメッセージがきた。


 『未由ちゃんに聞いたよ。ブルーエッジの正体を。僕はそれについて、うすうす気づいていた気がする。でも、きみの口から聞きたかった』


 それに対して園川は、『隠していて、本当に申し訳ありませんでした』とだけ返した。

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