第63話
園川は救急車に運ばれていく黒部を見送った。近くにいた警察官は無線でだれかと会話しながら離れていった。
あたりには野次馬が集まってきていた。
玲奈は事故のあった付近の歩道に立って、ただ呆然と、救急車の放つ騒々しいサイレンの方に目を向けていた。園川は玲奈に対して、なにがどうなっているのか尋ねたかったが、ましな言葉が思いつかなかった。
それでも園川は、
「大丈夫ですか?」
すると、玲奈は視線だけを向けてきた。肯定も否定もせず、ただとても、寂しそうな表情をしていた。
それから数日間、園川は玲奈を注意深く見守った。玲奈は普段よりも明らかにふさぎこんでおり、仕事の質も落ちていたが、それ以上の変化は見られなかった。
その週の日曜日の夜に、園川はまた妙な投稿を見つけた。どうやら、また薄明の森で集会があったようだ。
『息子がきょう、ヘヴン・クラウドの中での集会に参加したあと、様子がおかしいのです。以前から妙な集まりに参加するようになったのです。きょう、なにかあったのか聞くと、ずいぶんぼんやりとした様子で、また大主教様がいらっしゃる森に行った、と言うのです。先週もたしか森に行ったようなのです。夕食もとらず、ぶつぶつと独りごとを言って、部屋に閉じこもってしまったのです。ほかにも、こういった状況の方、いらっしゃいませんか?』
そのほかにも、似たような投稿がいくつかあった。どうやらまた、薄明の森でなにかが起きたようだ。
園川はしばらく調べていると、ある動画に辿り着いた。それは輪神教会の信者がアップしたもので、薄明の森での、きょうのできごとを録画したもののようだった。その動画には、あるアバターの視点による一部始終が記録されていた。
* *
動画は、撮影者のアバターが薄明の森にダイブしたところからはじまっていた。
撮影者は他のアバターたちと共に森の中を抜けて、神殿前の広場にやってきた。広場にはすでに白い法衣を着た玲奈がいた。
人々に囲まれて玲奈が演説をしている。玲奈の言葉に対して人々は拍手と歓声を贈る。
そのときのことだ。
玲奈の背後の方の空間にゆがみが生じた。広場側から見た、神殿の手前の上空あたりだった。また、神殿の方から青い光が放たれているようにも見えた。
その空中に広がったゆがみは、奇妙な油膜のようだった。そのゆがみの中に赤い火花が見えはじめ、やがてそいつが現れた。
それは銀色の巨大な顔だった。
次の瞬間に映像が切り替わり、あたり一面の草原の光景になった。
ゆるやかな丘陵をおおうように、青々とした下草がどこまでも続いていた。太陽はあたたかく輝き、空は晴れ渡っている。
目の前には木製の真っ白なテーブルがあった。2脚の白い椅子がテーブルをはさんで向かい合う形で置かれていた。
いつの間にか、向こう側の椅子には女性が腰掛けていた。白い服を着た美しい女性だった。
その女性は柔和な笑顔で、右手を差し出して椅子をすすめてきた。撮影者は椅子の背を引いて座った。そこで女性は言った。
「また、きてくださいましたね。もうここがお嫌になってしまったのかと思いました」
女性のすらりとした手がのびてきて、撮影者の手をやさしく握った。
それに対して、撮影者の声がした。
「いや、とんでもない」
「ねえ、あなたは、わたしがお嫌いですか?」
「いやいや。そんなことはないよ。とても、愛しているよ。だからこうして、もう一度きたんだよ」
「ありがとう。わたしも、好きです。だから……」
「なんだろう?」
「ええ。わたしは、ずっと一緒にいたい」
「ああ。でも、この世界は、ヘヴン・クラウドのはずで……」
すると、女性は椅子の向こうで立ち上がった。白い羽毛が舞うように歩いてくると、撮影者の真横にやってきて、両手をとった。そしてそのまま撮影者を立たせて、抱擁した。
「あたたかい。あなたのことを、とても愛しています」
すると撮影者は戸惑うような声で、
「あ、ああ。僕もだよ」
「ずっといてくれる?」
「うん。そうだね……」
すると、女性は目をつむり、ぐいと顔を近づけてきた。
そこで映像が途切れた。おそらく撮影者がプライベートな体験をカットしたのだろう。
次に現れたのは女性の顔のアップだった。薄暗いベッドの上のようだった。
女性は白い枕の上で顔をかたむけ、撮影者の間近にいた。その女性が顔を近づけてきて、この上なく甘い口調で言った。
「次は、5月4日の午前1時に逢いましょう。また、あの草原で」
* *
この動画にはさまざまなコメントがついた。総じてこんな意見が集まっていた。
輪神教会はまた、以前と同じようにクリスタルを使った洗脳をはじめている。また、洗脳の過程は記憶から巧妙に隠され、潜在意識の中に残り続けるように仕組まれている。
教団の洗脳プログラムは3回に分けられて実施される。また、この感じでは2回目であると思われるし、前回に発生した森での事件から考えても、あともう1回の『セッション』で、決定的な状況になるだろう。
園川はそれらのコメントを見ながら思案した。
黒部がいなくなったというのに、まだこんなことを続けていたというのか。マスタークリスタルを破壊したというのに、まだ洗脳の手段が残されていたのか。だとしたら、いったいだれが、なんのために?
ここから金をどこかに振り込ませたり、
園川は不安になり、玲奈に電話をかけた。日曜日の夜ということもあり抵抗もあったが、そうせずにはいられなかった。
5コール目に、園川があきらめようと考えた矢先に、思いがけず玲奈は出た。
「はい……」
「夜分にすみません。園川です。あの」
「なんでしょう」
その声は古い機械音声のように、平坦で無機質だった。
「きょうも、森へ集まったんですね」
「――あなたは、だれ?」
その声を最後に、電話が切れてしまった。園川は体に汗が吹き出すのを感じた。電話番号は間違いなく玲奈のものだ。それに、声もどう考えても玲奈のようだった。
いったい玲奈は、どうしてしまったのだろう。
* *
玲奈はカーテンを閉ざした薄暗いビジネスホテルの一室で、ベッドに腰を降ろしていた。
かたわらには、ぼんやりと光るスマートフォンがあった。色々なところから連絡があるが、どれもなにを言っているのかわからない。
いつも頭の中には薄明の森の光景と、クリスタルの輝きで埋めつくされていて、思考がまとまらない。
また、輝きの中には、完全で無限かと思われるひとりの青年がいた。
そうだ、青年はこんなことを言ってくれた。
『あなたは、利用されている。父親から、黒部から、信者たちから』
玲奈はその言葉を否定できなかった。
『そうだ。玲奈様、玲奈様とおだて、きみを担ぎ上げ、アイコンにしたてて、みんな自分たちの利益だけを考えている。ちがうかい?』
『きみは、一番神に近い存在だ。それは、ほんとうだ。いままで、輪の神のことを一番多く考え、多くの人をささえてきた。そして、次は、きみが救われる番だよ』
『おいで、見えるだろう? 宇宙に渦巻く、命の、魂の流動が。すべてが満たされる。きみは、もう救われるべきだ』
気がつくと玲奈は口を半分開け、右手を宙にかざし、何者かの手を取るような姿勢になっていた。
――なぜわたしはこんなところにいるのだろう?
――そうだ、あの人に指示をされた。そのほうがいいって。
ぼんやりと考えるのだが、そんな想念すらホテルの室内に舞う細かなほこりと、空調の雑音の中に消えてゆく。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます