第62話

 園川は朝の出勤の電車の中で、ある気になるできごとについて調べていた。


 昨夜に玲奈が呼びかけを行い、薄明の森で輪神教会の集会が行われたのだが、その内容が妙だった。


 何人かの参加者のSNSの投稿などを追っていくと、どうやら集会の後半に異常が起きていた。神殿前の広場において集会が中断された。そして、そこで起きたことをだれも記憶していないのだという。


 ただひとつ共通しているのは、神殿前の広場において、なにかが突如として現れた、という点だ。しかし奇妙なことに、おしなべてみな、記憶をうしなっているのだという。



 園川は会社についてから、正面の席の玲奈に話しかけた。


「昨日の集会は、どうでしたか?」

「え、ええ」

「ネットやSNSを見ると、なにか起きてますよね」


 玲奈はあまり話しかけてほしくなさそうで、視線を合わせなかった。


「そう。でも、わたしにも、よくわからない。なにかが起きたってのはわかるけれど……」


 その様子を見た園川は、それ以上尋ねることはやめた。少し時間を置けば、思い出すかもしれない、などと思った。

 



   *   *




 黒部は公園の隅でダンボールにくるまり、朝日を見ていた。


 その朝日の中でも、『光』は消えなかった。


 『光』をずっと感じていた。


 アジトにしていた工場を出たときから。


 いや、それよりもずっと前から。


 工場から連れ出してくれた信者の男は、いつの間にかいなくなっている。


 黒部は繰り返し、神経が擦り切れるほど、玲奈のことや、輪の神のことを考えた。


 しかし、思考がまとまらなかった。


 常に切迫し、世界や物事が流動し、あやふやだった。


 ただ、意識が混迷におちいるほどに、『光』だけがはっきりとしてくる。




 工場を出たときは、いくらかマシだったかも知れない。


 凍土から引き摺り出されたあのとき。


 見知らぬ女と、須崎がいた気がする。


 そして、信者の男に導かれ、警察どもを押しのけ、車に乗った。


 ひたすら高速道路を飛ばして東京に向かった。


 なぜ東京に向かったのだろう。


 そうだ、『光』が見えた。東京に。


 教団を拡大していった先に、あるいはかたわらに、いつもそれが輝いていた。


 あるいは子供のころから、いつも灯っていたのかも知れない。




 輪の神の導きを。


 なんどもその言葉を聞いたし、自分も言った。


 代表は偶像崇拝を禁じ、触れ得ない神秘と法則を神とした。


 輪の神。峻厳と人と神を分断する円。


 しかし代表の思想と反して、自分はAIの神を作りだし、教団拡大のために利用した。


 代表はたしかにこう言ったかも知れない。


「生き方が多様化し、科学が発展し、既存の神が人々の理性と倫理に押し潰された。神は死んだ。そんな時代だからこそ、世界を導く神が必要とされている。それは、ヘヴン・クラウドという空間だからこそ感得できるのだ」


 しかし、形を持たない法則みたいなものが自分にとって、『光』たり得ただろうか。


 朝日の中で黒部は、重たい体をのっそりと起こし、空腹と混乱でほとんどまとまらない意識の中で、朝日よりもなお明白な『光』に向かってよろよろと歩きだした。




 とおり過ぎる人々に肩をぶつけ、クラクションを鳴らされ、つまずきながら、ひたすら歩いていく。




 黒部はもはや真っ暗な暗闇の砂漠を歩いていた。


 生まれてからずっと、その暗い砂漠を歩いてきたようにすら感じる。


 遠くに見える一点の『光』を目指して。


 ふいに黒部は思ったよりも『光』に近づいていることを知った。


 砂漠のゆるやかな丘陵の上に、一息に駆ければ捕まえられそうな距離に、『光』が浮かんでいる感じがした。

 



 黒部はそのとき、瞬間的に明晰な意識を取り戻した。


 そこはクラカミクリエイティブが入るビルの近くの路地だった。あたりはすでに暗くなっており、街灯や車のライトが視界に映った。


 その中に、ビルの方から歩いてくる1人の女性の姿があった。


 もし黒部の人生に神がひとつだけ祝福を与えたのだとしたら、このときかも知れない。


 ――その女性は篠原玲奈だった。


 黒部は声にならない声を漏らし、母を求める子供のように両手を前にのばし、進んでいった。


 そのとき、黒部は背後に気配を感じた。


「ちょっと待て。黒部だな」


 振り向くと、そこには警察官が立っていた。


 黒部は弾かれたように走りだした。


 玲奈の姿を横目で見ながら、錯乱した状態で真っ直ぐ走る。歩道と車道とを隔てる植え込みを越え、そのまま車道へと飛びでた。


 激しいクラクションの音。


 太陽のようなヘッドライト。


 冷たい鋼鉄の衝撃。







 玲奈は背後で起きた事故の音に身をこわばらせた。


 振り返ると、車道の方から植え込みに乗り上げる格好で、仰向けになって血まみれの男が倒れていた。


 玲奈はしばし迷ったものの、近づいていった。自分が救急車を呼んだ方がいいかも知れない、と思ったのだ。


 それにどこかで、輪神教会の大主教として、模範にならなければならない気がしたからだ。


 そのとき、血まみれで倒れている男の姿を見て、玲奈は違和感を覚えた。


 なにか、得体の知れない悪寒が体を駆け巡った。


 そこでやっと男の正体に気づいた。その男は黒部のようだった。


 玲奈はおそるおそる近づき、再度黒部の顔を確かめたが、それは間違いようがなかった。


 また、いまにも気を失いそうな黒部の目が玲奈をとらえ、「玲奈様」と極めて小さな声で口走ったのがわかった。


 それから黒部はぼんやりと笑ったように見えた。口を半開きにして、視点は宙をさまよい、まるで正気を失っているようだった。


 道路には真っ赤な血液がとめどなく流れていた。


「なんのつもりなの?」


 そう玲奈は言ったが、黒部には聞こえていないようだった。


「なんのつもりなのよ!」


 するとやっと、黒部はかすれた、濁った声を出した。


「玲奈様……」

「なに?」


 黒部は叱られる子供のような、臆病な目をしていた。


 そこで黒部は口を動かし、なにかを言いさしたのだが、大きくむせて血を吐いた。


 もはや声を出す力も残されていないようだった。しかしおびえながらもどこか、安らいだ表情をしていた。


「あなただけが、満たされて死んでいくの? 黒部、答えなさい」


 そのとき、黒部の目から一筋の涙が流れた。




 背後から手が伸びてきて、玲奈の肩に乗った。


 園川の手だった。どうやら玲奈が会社を出てから、少し遅れてやってきたのだろう。園川は言った。


「やめましょう。もう」


 玲奈はそれを無視して、


「黒部。あなたは、そんなふうに死んでゆく資格があるの? ねえ? ねえってば!」


 黒部の口元が動いて、なにかを言おうとした。


 しかし、いつまで待っても声は聞こえてこなかった。


 そのときふいに黒部のことが、この赦しがたい男が、まるで弱々しい、迷い子のように見えた。


 それと同時に、呪わしいのだとしても、黒部もまた神の企図の一部なのではないかと思われた。


 だからこそなんの奇跡か、こんなところに現れたのではないか。


 玲奈は右手の指先で円を描いた。


「あなたに、輪の神の導きを」


 黒部は目を閉じた。


 そのとき救急車のサイレンの音が近づいてきた。

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