第20話

 玲奈は暗闇の中で気がついた。


 畳のにおいがする。


 とても静かだ。


 ときおり風の音がするばかり。


 ヘッドマウントディスプレイを外し、右脇の電話台にのせる。


 和風の装飾のほどこされた漆塗りの電話台を、ここに置こうと提案したのは、世話係の葉仲だった。


 その日も、夕方まで『サニーデイパーク』のイベントに参加した。


 大主教の仕事として、パブリック・ヘヴンでの公開説話をしたのだ。


 しかし、あの後半になだれ込んできた、『彼ら』のせいなのか、記憶が混乱している。


 知り合い?


 知っている者たちかも知れない。


 ……そうか。


 わたしの心が、記憶が、かなりのところまで書き換わっている。


 そう思い出して、玲奈は悔しくなった。


「終わったのですね」


 と、ふすまのすべる音。葉仲が部屋に入ってきて、雨戸をあける。


 さまざまな音がすこしずつ、現実世界に導いてくれる。


 夕刻のオレンジ色の陽ざしが部屋に入る。


 世界に色が加わった。


「すこし休まれたら、夕餉にいたしますので」


 と、葉仲が言った。


 葉仲はもうだいぶできあがっているわね、と、玲奈は心の中で思う。


 そして自分もそうなるに違いない、と。


 最初は黒部に脅迫され、森の奥にあるクリスタルの前で、あれとつながったところからはじまった。


 ほかの信者へするのと同じように、あれは、映像と音を送りこんできた。


 あのクリスタルから送られてくる体験は、麻薬のように人を飲みこむ。


 ときおり黒部も、プライムクリスタルを模倣して作られたちいさなクリスタルで神を喚びだす。とはいえ、プライムクリスタルから送られてくる体験とは比較にならない。


 プライムクリスタルはヘヴン・クラウドの中において、さらに深い天国を見せてくる。


 いつまで自分は、あれにあらがうことができるだろうか。


 現実世界の中でさえ、ときおり強く、あれを求めてしまう。


 まさに麻薬性のある体験に違いない。


 そのとき玲奈は、はじめて『神』に触れたときのことを思い返した。




 森の奥にある神殿前の広場で、瞑想をはじめる。


 すると、神殿の方から不思議な音が聴こえてくる。


 ブーン……と、うなるような耳鳴りに似た音だが、妙に心地よいのだ。


 やがて気がつくと真っ白な神殿にいる。


 目の前には、巨大な銀色の神の顔がそびえている。


 次に神は、恐ろしい体験をさせてくる。


 玲奈を求める信者たちの声。


 父親が教団を継ぐように迫ってくる。


 世界には戦争と貧困と誤謬がはびこり、人々は嘆いている。


 そんな映像と声の嵐だった。


 玲奈の精神が限界になったとき、青年が立っている。


 ウェーブのかかった黒髪に半裸の、見たこともないような美青年だった。神は見る者によって姿を変えるのだ。


 青年は手を差し伸べてくる。


「さあ、この手をとって、彼らを救いましょう。輪の神の導きを」


 その手をとったら、もう自分を取り戻すことはできないことはわかっている。


 玲奈はその手を払い、真っ白な空間から逃げ出す。




 ――もっとも恐ろしいのは、その一連の記憶が、このうえなく心地よく、懐かしく思われる点だった。


 しばらく自室で休んでいた玲奈は、外で車の音がするのを聴いた。


 だれかがきた。


 見張りの者ではなければ、来訪者はひとりくらいのものだった。


 玲奈が居間の方へ向かうと、黒部と鉢合わせた。


 黒い壁が立っているようだった。


「夕刻に失礼します。玲奈様の様子を見に、このとおりまいった次第です」


「そうですか。ありがとうございます」


「きょうの説話、すばらしいものでした。祝福を受けた信者たちは、よろこびいさみ、より信心を固めるものでしょう」


「それはよかった」


 と、口を連ねて出る言葉は、まるで自分の表面に張り付いたスピーカーから流れてくるようだった。


 『自分』が埋もれ、隠されようとしているように。


「まもなく、『輪の神の日』ですな。そこで、私たちは信者たちの前で、誓いをたてるのです。夫婦として、永劫に結ばれることを、誓うのです」


 玲奈は、自分の首がうなずいたのを感じた。


 黒部は満足そうに右手をのばして頬に触れてくる。


 そこで、玲奈は光のように我に返り、その手を払った。


「やめてッ!」


 すると、黒部の反対の手が飛んできて顔を叩かれた。玲奈は吹き飛ばされた。


 口に血の味が広がる。


「まだか。まだ、神を与えてやらんとダメか。あと、ひと押しだろうが……」


「裏切り者! おまえはクズよ!」


「おやおや。そんなことを言うと、代表……お父様が、もっと不幸な目にあいますよ。それに、ここにはだれも来やしません。私めと、うまくやる方が、御身のため、ですよ」


 玲奈は思わず口をつぐんだ。


「そう。それでよろしいのです。大主教、玲奈様」

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