第2話

「ヘヴン・クラウドは、経験ある?」


 と、玲奈は言った。園川はその声に冷たい感じを受けたが、表情には出さずにうなずいた。


「はい、いちおう」

「そう、よかった。うちは知ってのとおり、ヘヴン・クラウド関連の制作会社だから。経験なしだと、さすがにね」

「ですよね」

「それじゃまず、うちの事業の概略などを説明します」


 すると、玲奈は会社のパンフレットをひらき、30分ほど語ったあと、「あとはよく読んでおいて」と、パンフレットを差し出した。それから玲奈は部屋の奥にある、黒幕に覆われたブースに向かった。


 園川はパンフレットをあらためて眺めた。


 ――ヘヴン・クラウドは国際的な共通仕様に基づいた、メタバースのプラットフォームとして活用されています。弊社はヘヴン・クラウド共通仕様に対応した、様々なコンテンツをご提供しております。


 ――アバター、ヘヴン空間、マテリアルなど、あらゆる3Dアイテムのデザインやモデリングはもちろん、高度な動作の設計やプログラミングにも対応可能です。



 園川はパンフレットを置いて、ため息をつく。わざわざ、ヘヴン・クラウドを扱う会社に入ってしまってよかったのか。


 いっときはヘヴン・クラウドから離れようとも思ったが、どうもそれができなかった。まだ、やり残したことがある気がして……。


 ともかく、玲奈がメンターについてくれたのは幸運だった。


 そんなことを考えているとき、玲奈が向こうからやってきて、「潜るから、こっちにおいで」と言った。


 その視線の先に、部屋の奥の黒いブースが見えた。




 園川はアバターの姿となり、ヘヴンの中を走っていた。


 そのアバターはシステムで自動生成されたそっけないものだったが、街中を跳び回るくらいのことはなんでもない。


 ビルのはざまをすり抜け、段差を跳び、壁を走り、玲奈にせまっていった。


 また、途中でトラップが連なる場所もあった。道路の両脇から矢が飛来してきたときは、反射的にそれらをかわし、弾き、ひたすら走った。


 玲奈が使っているアバターは、玲奈本人とほぼ同じ顔と体型で、黒いスパッツとTシャツを身に着けていた。そのいかにもなトレーニングウェア然とした姿は、彼女の奇妙な律儀さを感じさせた。


 また、玲奈の右手の人差し指に青い指輪が見え、それが妙な存在感をはなっていた。



 園川は玲奈と併走し、やがて目的地にしていたビルの屋上にたどり着く。すると、玲奈は振り返った。


「ずいぶん素早いのね。まさか、ここまで喰らいついてくるなんて……」


 玲奈の話を聞くと、どうやらこのヘヴンは、社員向けの研修に使う場所のようだった。


 たしかに初心者用のコースにしては複雑だが、園川にとっては散歩に等しい。


 園川は答えた。


「多少は、経験がありまして……」

「多少は、ね。よく言うわね。デフォのアバターでそれだけ動けて。からかってるつもり?」

「いや、そういうつもりじゃ……」

「いえ、おかしいわ。さっきのトラップゾーンだって、はじめてであんな風にかわすなんて。……慣れてるなら、最初から教えてくれればいいのに」

「すみません」

「とはいえ、わたしたちは別に、アスリートじゃない。――肝心なのは、なにを創るか」

「ええ、わかってます」

「なら、いいけど」


 すると玲奈は向き直り、ビルの屋上から周囲を眺めはじめた。園川もそれにつられて眺望に目をやる。


 ビルなどの建造物が所せましと並び、かなたまで続いていた。


 一見どこまでも続くような大地と空は、仮想的な見た目の映像にすぎない。


 ヘヴンは通常、半径3キロメートル前後の球形をしており、球を横に割るラインに地面があり、そこより下が地下、上が地上とされる。課金をしていくとさらに広大な世界が手に入り、ヘヴン自体を複数所有することもできる。


 今回のヘヴンは並の大きさのものだった。


 しかし園川から見て、研修用のヘヴンにしては細部まで精密で、さすがにプロの力を感じさせた。


「すごいですね。やっぱり。こんなものを人間が作れるなんて」

「そう?」

「はい。まるで、神様の仕事ですね。世界や、生命を産み出すという……」


 すると玲奈は割り込むように、ちがう、と言った。


「ここには……。ヘヴンには神様なんて、いない。いてはいけない」


 そうして玲奈は口を閉ざした。


 園川は玲奈の表情に、重たい宿命めいたものを感じた。


「すみません。よけいなこと、言っちゃいましたか」

「いえ。こっちこそ、ごめん。……それじゃ、次のカリキュラムにいきましょうか」

「まだあるんですか?」

「ええ、もちろん」

「わ、わかりました」

「それじゃ、いちおう先にコレ見といて」


 すると、園川の視界の上部に新着メッセージの通知が出た。玲奈からメッセージが届き、『パブリック・ヘヴンについて』というドキュメントが添付されていた。


 玲奈は続けた。


「後半のカリキュラムは、たんに適当なパブリック・ヘヴンをぶらつくだけなんだけどね。……きみに説明するまでもないけど、ここはプライベート・ヘヴン。で、これからパブリック・ヘヴンの体験をするってこと。いちおう、気をつけてね」


 園川はドキュメントを開く。




《研修資料 パブリック・ヘヴンについて》


■パブリック・ヘヴンの概要


・パブリック・ヘヴンは不特定多数のプレイヤーが接続できるヘヴンです


・プレイヤーは他のプレイヤーとコミュニケーションをとったり、ヘヴンごとの特徴を利用したスポーツやイベントに参加することができます


■パブリック・ヘヴンでの注意


・パブリック・ヘヴンは個別に招待されたプレイヤー以外であっても誰でも接続できます


・パブリック・ヘヴン内のオブジェクトを持ち出すと盗難としてあつかわれます(プライベート・ヘヴンでは一定条件で全てのオブジェクトがリセットされます、パブリック・ヘヴンでは元に戻ることはありません)


・パブリック・ヘヴンでは戦闘などが発生することがあります。特に業務中は特別な目的がない限り不用意な行動は控えてください


・パブリック・ヘヴンからの即時の離脱はエントリーゾーンでしかできません。エントリーゾーン以外からの離脱はペナルティを受けます(詳細は別途)


・パブリック・ヘヴンでは信教や思想の自由、表現の自由が認められています。弊社もそれを妨げるものではありませんが、責任ある言動と思考を心がけてください

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