第30話 この気持ちは何だろう

「蒼葉様! 鍋が!!」

「あっ!!」

 

 夏帆の声で我に返ると、卵焼きが炭になっている。それだけで済めば良かったが、四角形の鍋の底まで茶色い。

 

「夏帆さん、ごめんなさい……卵焼き鍋まで焦がしてしまいました……」

「そのくらいの焦げなら落とせます。貸してください」

 

 夏帆は鍋を受け取ると、水と魔法の粉だという何かを入れて沸騰させた。仕上げに木べらで擦ると茶色の焦げが綺麗に落ちる。

 

「すごい!! 流石です!!」

「優秀な使用人にかかればこんなものです」

 

 夏帆はおどけて片目をパチリと瞑った。

 お礼を言おうと蒼葉が口を開いた瞬間、急に夏帆の目つきが変わる。

 

 彼女は流しの上にあった包丁を掴むと、目にもとまらぬ速さでそれを投げた。

 蒼葉の髪を掠めるようにして飛んでいった鋭利な刃物は見事、台所の柱に突き刺さっている。

 

「チッ、外したか」

 

 その声を聞いて蒼葉は震えた。妖狩りの旦那様よりこの人の方が危険かもしれない、と本能が告げている。

 

「あの、夏帆さん……?」

「蒼葉様すみません! ネズミがいたのでつい」

 

 正気に戻った彼女は恥ずかしそうに刺さった包丁を抜きに行く。

 もしかしたら前世は忍者だったのだろうか。

 

(夏帆さんにだけは狸の姿で出くわさないようにしないと)

 

 蒼葉がそんなことを思っているとは露知らず、夏帆は何事もなかったかのように話しかけてくる。

 

「さっきは珍しくぼーっとしてましたけど、体調は大丈夫ですか?」

「はい、少し考え事をしてただけです」

「蒼葉様が考えごと……今日の夕飯は何だろうとか、そういうことでしょうか」

 

 この頃、夏帆の発言に遠慮がなくなってきた。丁寧な言葉に反して言っていることはそれなりに辛辣だが嫌な感じはしない。

 

「違いますってば! ただちょっと、旦那様のことを考えていただけです」

 

 蒼葉は夏帆に見守られながら慎重に卵を割り、箸で溶かすように混ぜ合わせる。

 先ほどは最後の最後でうっかりしてしまったが、今度こそ成功させ、旦那様に持っていくのだ。

 

「もしや何か進展が?」

「いえ、そういうわけでは」

 

 蒼葉は咄嗟に嘘をついてしまった。

 先日、宴会の帰りに手をつないだ時のことを考えていたのだが、口にするのは何故だか恥ずかしい。

 

 あの日、行雲の手は温かかった。


 狸姿の時にこれまで何度も撫でてもらっていたが、人の姿で手をつないでみると、自分よりも大きく頼もしい手であることがはっきり分かる。


 蒼葉は何故か緊張してしまい、ただ黙って行雲の少し後ろを歩いたのだった。

 

 

 

(で、できたぁっ!!)

 

 ついにふっくらきつね色の卵焼きが完成した。形は少し歪だが、焦げてはいないし生焼けでもない。


 味見をした夏帆からも、これを持って行雲の部屋を突撃するよう指示が出た。

 卵焼きだけを仰々しくもお重に詰め、蒼葉は意気揚々と和館に向かう。


 途中、お義母様の部屋の前を通りすぎることになり、思わず忍び足になるが、部屋の襖は一寸の隙間もなく閉められたままだ。

 

(お義母様……大丈夫かな)

 

 レイが倒れて以来、お義母様は元気をなくしてしまったようで、部屋に閉じこもったまま殆ど出てこない。

 心配だが、刺激をしない方が良いと夏帆に言われているため、蒼葉は近づかないようにしている。

 

 お義母様に怒られるのは怖かったが、日常に馴染みすぎて、元気な怒号が飛んでこないのもどこか寂しい。

 

「蒼葉か」

 

 行雲の部屋の前に立った時、中からがらりと襖が開き、不意をつかれた蒼葉はびくりと体を震わせた。


 どうやら部屋の主は丁度出かけるとこだったらしく、きっちり軍服を着こなしている。

 

 この頃、行雲は毎日屋敷に帰って来る。夕方頃まで部屋にいることが多いが、今日は早出の予定があるのだろう。

 

「旦那様、お出かけでしたか」

「ああ、何か用だったか」

「些細なことなので、また今度にします」

 

 仕事の邪魔をしてはいけないと、蒼葉はお重を体の後ろにさっと隠す。

 

「隠したものを見せてみろ」

「大して良いものではありませんよ」

 

 蒼葉は急に自信を失ってしまった。


 好物を作ったら喜んでもらえるだろうと思っていたが、行雲の都合などお構いなしだった。

 昼餉には遅く、夕餉には早い、出勤前の時間に卵焼きを持ってこられても困るだけではないか。

 

 行雲の顔色を窺いながら、恐る恐るお重と箸を差し出す。

 彼は無言でそれを手に取ると、立ったまま中身を口に詰め込んだ。


 お義母様が目にしたら、行儀が悪いと怒鳴り散らしそうな光景である。

 

「どうでしょう?」

「好きな味だ」

「良かったぁ」


 行雲の表情は変わらなかったが、彼はすぐに平らげ「美味かった」と言って空のお重を返してくれた。

 

 お世辞を言うような人ではないので、きっと本心なのだろう。嬉しくてつい顔が緩む。


「扇家には今週の金曜に行く約束をした。悪いが踊りの稽古を休むように」


 行雲は部屋の戸を閉め、洋館の方へ向かって歩き始める。

 蒼葉は見送りに出ようと小走りに後を追いかけた。


「分かりました。妖の調査ですね」

「建前は結婚の挨拶だ。俺は一度も顔を合わせていないからな」


 結婚――その言葉を聞いて、蒼葉の心はどんより重くなる。


 宴会からの帰り道、百鬼に留まりたいのならそうすれば良いと行雲は言っていた。それはつまり、本当に結婚してくれるということだろうか。


 これからも百鬼の家で暮らすことができるのは嬉しい。結婚してすろーらいふを送るため、立派なお嫁さんになろうと頑張っていた。

 けれど、今になって蒼葉は後ろめたさを感じている。

 

「旦那様、あの……」


 振り向いた行雲の曇った目が蒼葉を捉えた。

 

(私、実は化け狸なんですけど、それでも結婚してくれますか?)


 そんなこと、聞けるはずがない。

 聞かなくたって答えは想像できる。


「何でもないです。お気をつけて!」


 扇家の本当の娘でないだけでなく、人に化けた狸と誰が結婚しようと思うのか。

 蒼葉は無理やり笑顔を作り、見送った。

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