第29話 二人の夜
「今日は不思議なくらい楽しかったよ」
岸辺中将はカンカン帽を被ると「嫁さんを大事にな」と言い残し、迎えの車に乗って帰っていった。
「まったく、行雲の発言には肝が冷えた。蒼葉ちゃんに感謝するんだね」
惣田は行雲の横で体を伸ばしながら言う。
同じく店先まで見送りに出ていた大佐は、早速煙草に火をつけ煙を吐く。
「あの子の妖術がなければ地獄だったな。まぁ、お前は何かしら失言するとは思っていたが」
「申し訳ありません」
忖度が苦手だと分かっていて何故連れてきたと思いながらも行雲は謝る。
(それにしても、あれはやはり妖術の類だったか)
蒼葉の滑稽な踊りに皆、異様なほど陶酔していた。
大佐と惣田の反応からして妖の力が働いているのではないかと察していたが、妖気を感じられない行雲は妖術にも疎い。術にかかりにくいことだけは利点だ。
「あの子は何だ? 俺には狸の妖に見えたが、お前の見合い相手は取引先の娘じゃなかったか?」
「鬼神は良家のご令嬢より、素朴で可愛らしい狸娘がお気に入りなんですよ」
行雲の代わりに惣田が面白おかしく話を盛って勝手に答える。
「ほぉ~、行雲はおぼこい子が趣味か。俺は儚げな未亡人なんかが好きだけどな」
「確かに蒼葉ちゃん可愛いよね。正体がバレてないと思って、行雲のお嫁さんになろうと一生懸命頑張ってるみたいだし」
二人がこうして行雲を揶揄うのはいつものことだ。極力無視するように努めているが、いつか刀を抜いてしまいそうである。
衝動を堪えているところに、トトト、と誰かが勢いよく階段を降りてくる。
「旦那様!」
彼女は行雲に気づくと、ご馳走を前にした時と同じように目を輝かせた。
先生と若い娘も蒼葉に続いてゆっくりと降りてくる。大きな風呂敷包を手にしていることから、帰り支度が済んだのだろう。
「もう帰りか」
気の利いた言葉を思いつかない行雲は、見れば分かることを聞いてしまう。
「はい。旦那様はまだこれからお仕事ですか?」
「いや」
「じゃあ一緒に帰れますね」
彼女の背後でもふっとした尻尾が揺れているように見え、行雲は数度瞬きをした。幻覚が見えるなんて、思ったよりも酔っぱらっているのかもしれない。
軍の鍛錬場に寄ろうと思っていたが、嬉しそうな蒼葉を前に言い出せなくなる。
「行雲はその子を送ってやれ。これも仕事だ。惣田は娘さんたちを、俺は先生を送る」
大佐の命もあり、行雲はいよいよ鍛錬を諦めた。
「今日は余計な真似をして済みませんでした」
「いや、助かった」
蒼葉は謝りつつも、普通の娘なら怖がりそうな暗い夜道を軽い足取りで先導して歩く。
彼女はいつも楽しそうだ。
百鬼の家で使用人同等もしくはそれ以下の酷い扱いを受けている時ですら、細やかな喜びを見出しているようだった。
ころころ変わる表情を見ていると行雲まで愉快な気持ちになるから不思議だ。
冷酷、堅物、人でなし、鬼神――様々な言葉で普通ではないと形容される行雲だが、人ではない蒼葉の傍にいると自分も普通の人間である必要はないのかもしれないと思えてくる。
(化け狸であっても――いや化け狸だからこそか)
彼女はこれまで嫁として百鬼の家に来たどの娘よりも行雲の目には好ましく映る。
「踊りの稽古はどうだ?」
「居眠りしないように頑張っています」
「裁縫は?」
「夏帆さんに教えてもらって玉止めというのを覚えました」
恐らく自慢することではないことを、自慢げに話す蒼葉が愛らしい。
ポン太に抱いていた感情を、最近はどうやら蒼葉に対しても感じるようになってきた。
ポン太と蒼葉は同一の存在であるのだから、当たり前と言えば当たり前のことだが。
「旦那様、その傷……」
「仕事で少ししくじった」
かさぶたになった腕の傷に気づいた蒼葉は、この世の終わりを知らされたのかとでも思うほど悲壮な顔をする。
昨日、猫又につけられたかすり傷だ。軍に属する以上、このくらいの傷は怪我にも入らない。
「旦那様が強いのは知ってますけど、無理なさらないでくださいね」
「惣田が近々復帰する」
「えっ、もうですか!?」
この短期間で完全に治癒したとは思えないが、行雲としてはありがたいことだ。
惣田が戻れば逃げた猫又を追い回すような任務とはおさらばでき、山の巡視も再開できる。
「危険なことに巻き込みたくはないが、山の妖について扇の家に話を聞きに行く際には協力してくれるか」
「は、はい。でも……」
いつも元気な蒼葉が珍しく歯切れの悪い返事をする。理由なら察しがつく。
「扇家の実の娘ではないことは叔父から聞いた」
「耕雨さんが?」
蒼葉は不安そうに行雲を見上げる。
「俺から聞いたんだ。母には知らせていない。しかし何故、身代わりになった」
「扇家の本当の娘さんは怪我した私を助けて家に置いてくれた優しい人なんです! 体が弱くてお嫁に行くのも大変だと思ったので、私から身代わりを申し出ました」
扇家の人間は悪くないのだと蒼葉は力説した。
嘘をつくのが苦手な彼女のことだ。本当に体の弱い娘とやらを護りたかったのだろう。
百鬼家の評判が悪いことは行雲もなんとなく知っている。
蒼葉が納得して百鬼家にやって来たのなら、扇家のことを非難するつもりはない。
「旦那様、このことはどうかお義母様には内緒にしてもらえませんか? わっ」
彼女の姿が視界から消えた。どうやら躓いて転んだらしい。
いたた、と呻く彼女に行雲は手を差し伸べる。
「ありがとうございます」
「本当にそそっかしいな。それとよく食べる」
「お恥ずかしい限りです」
そういうところが良いのだと言えなかった。言葉の代わりに手をつないだまま歩き出す。
「旦那様?」
「百鬼に留まりたいなら留まれば良い」
飛び跳ねて喜ぶかと思いきや、蒼葉は静かに俯いた。
「……嬉しいです。私、故郷をなくしてから、どこへ行ってもすぐ追い出されていたので」
「そうか」
夜風が二人を撫でていく。
月が美しい夜だった。
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