第15話 裏山の不審な気配
「もしかしてポン太なの?」
月明かりの下、よたよた歩く狸を見つけた黒髪の女性は
まるで初めて彼女と出会った日のようだとポン太――蒼葉は思う。
(はい、姫様。お久しぶりです)
姫花はきっと自室の硝子戸の前に置かれた椅子に座り、夜の静かな景色を眺めていたのだろう。眠れない日があると彼女はよくそうしていた。
「おいで、何かご飯を……ごほっ、ごほ、ごほっ」
姫花は突然、胸のあたりを押さえて苦しそうに咳き込んだ。
蒼葉はもう一歩も歩けないと思うほど疲れていたが、急にどこからか力が湧いてきて姫花のもとへと駆け寄る。
(大丈夫ですか?)
「最近悪い咳が出るの。でもお医者様にも診てもらっているし、きっと良くなるわ」
狸姿の蒼葉の声は届いていないはずなのに、彼女は顔にかかった長い黒髪を耳にかけながら、困ったように笑って答える。
「ちょっと待ってね」
姫花はゆっくり部屋の中に戻るが、少しの移動すら辛そうだ。
以前から病弱な姫花だが、水音を含んだ咳をするところを見るのは初めてだ。もしかしたら重い病気を患っているのかもしれない。
蒼葉は近くに落ちていた枯葉を乗せ、ぽんと変化する。疲れているせいで耳と尻尾が残ってしまったが、姫花になら見られても問題ない。
「姫様、支えましょうか?」
部屋に上がり込んだ人間姿の蒼葉に姫花は少し驚いたようだが、差し出した手にそっと手を重ねてくれた。
蒼葉は彼女が布団に横たわるのを手伝うと、枕元に置かれた器が目に入る。
物欲しそうな視線に気づいたのか姫花はふふ、と笑う。
「その苺、良かったら食べて。食べられそうな時に少しでも食べるようにって言われたけど、あまり食欲がないみたい」
「いえ、これは姫様のですから……」
そう言った瞬間、腹からぐううううと大きな音が鳴る。体は正直だ。
姫花が「このまま置いておいたら傷んでしまう」と言うので、蒼葉はありがたくいただくことにした。
(ああ、甘酸っぱくて美味しい~)
苺を頬張りうっとりする蒼葉を姫花は心配そうに見つめている。
「急に帰ってきてどうしたの? もしかして恐ろしい目に遭って逃げてきた? 私ずっと心配してたのよ」
「……違うんです。私が不甲斐ないばかりに色々あって追い出されてしまいました」
久しぶりにかけられた温かい言葉に思わず泣きそうになりながら、蒼葉はこれまでの出来事を掻い摘んで姫花に聞かせた。
彼女は蒼葉の下手くそな説明を最後まで黙って聞き、それから優しい眼差しを向けてくれる。
「ポン太――蒼葉ちゃんは一生懸命頑張ったわ。貴女は何も悪くない」
「ポン太で良いです。気に入ってるので」
「きっと百鬼も結納金を返せなんて体裁の悪いことは言わないでしょうし、またここのお庭に住んだら?」
蒼葉は一瞬頷きそうになったが、思い直して首を横に振る。
一度引き受けたことは最後まで責任を持つべきだと化け狸なりに思う。
そして、蒼葉が姫花の身代わりだと知っている耕雨がそのことをぽろっとお義母様に話してしまわないか心配だ。
百鬼家から去る時は、扇家に迷惑をかけないことを確認できてからでないといけない。
「今日は外に出れたついでに、姫様に会いに来ただけなんです。このままでは扇家のお父さんお母さんに合わせる顔がないので、ほとぼりが冷めた頃に百鬼のお屋敷に戻って誠心誠意謝りたいと思います」
「そう……無理しないでね」
「はい。旦那様は意外と動物好きで優しいんですよ」
むっとした怖そうな顔で狸をもふもふ撫でまわす行雲を思い浮かべ、蒼葉は笑う。
その様子を見て姫花も口元を緩めた。
「ポン太は旦那様が好きなのね」
「好き……そうですね。美味しい物をくれるので大好きです」
「ふふ、そういうことじゃないのよ」
姫花はそう言った後、また激しく咳込んだ。
ごぼっ、ごぼっ、という濁った咳の音に心がざわつくが、蒼葉には布団をかけ直してあげることくらいしかできない。
「姫様、温かくして早く眠った方が良いと思います。名残惜しいですが私は帰りますね。苺、ごちそうさまでした」
「ええ、そうね。会えて嬉しかったわ。また遊びに来て」
「はい。また追い出されたら遊びに来ます」
蒼葉は外に出て硝子戸を閉める。変化を解いて狸姿に戻り、部屋の中に向かってぺこりと頭を下げてから走り出す。
(何やら酒蔵の方が騒がしいな)
姫花の父親らしき怒鳴り声が聞こえてくる。きっと雇われ従業員が粗相をしたのだろう。蒼葉は大して気に留めず、門の下を潜って外に出た。
道中こっそり人力車に乗せてもらったりはしたが、ここまで自分の足で来るのに疲れてしまったので食料と、どこか眠れる場所を探したい。
食事処に行ってみようとこそこそ暗闇を移動する蒼葉は道中、
(旦那様!? と、誰……?)
思いがけない人物が目に入り、狸姿の蒼葉は歩みを止めて振り返る。あのつんとした顔は確かに行雲だ。
もう一人は軍服を着て帯刀していることから、行雲の同僚だろうか。そんなことを考えていると、振り返った見知らぬ同行者と視線が交わる。
行雲よりも軽薄そうな顔をしたその男からは何の気配もしなかった。
何となく近づかない方が良い気がした蒼葉は彼らと反対方向に歩き出すが、ふかふかの体毛が急にぞわりと逆立った。
(この気配……)
敵意をむき出しにした妖の気配だ。それもこの前、百鬼の屋敷で出くわしたやつよりも巨大で禍々しい。
行雲と並んで歩く男からは相変わらず何も感じられず、この薄気味悪い気配は扇家の北側に位置する山の方から風に乗って流れてきているようだった。
軍服の男二人は山に向かって歩いていく。もしかすると妖狩りの仕事のために来たのかもしれないが、果たして行雲は強そうな妖がいることに気づいているのだろうか。
心配になった蒼葉は密かに行雲の後を追った。
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