第30話 別れ

 3月31日、宝会計事務所を隈川理事長が訪れていた。その日が会計上の年度末で、人魚の鱗があるのか、紛失したのか、はっきりさせる必要がある日だった。学園長が他界するという悲劇があっても、会計制度も税務署も手心を加えてくれない。その日までの1年間の状況を決算書にまとめ、2カ月以内に申告しなければならないのだ。


「この度はどうも……」


 玉麗は語尾をあいまいにし、学園長の死をいたんだ。


「はい。私どもには大変な痛手です。正直のところ、私には何がどうなっているのか、全くわかりません」


 憔悴しょうすいしきった隈川が大きなため息をつき、それから己を鼓舞こぶするように拳を握った。


 彼は、おもむろに銀色のアタッシュケースを開けた。


「これらは、鳴門さんが手に入れた人魚の鱗とトヨタマヒメ神の宝玉です」


 言いながら、本来なら指輪を入れるための赤い小箱を3個、テーブルに並べた。その中の一つを開けると、金色に輝く大きな鱗があった。小箱の内側には無粋な鉛色の金属の板が張られていて、鱗の美しさを引き立たせている。


「この鱗が、人の寿命を奪うというのは本当のことなのですか?」


 玉麗は触れたい衝動を押さえ、顔を近づけて観察した。


「ええ。間違いありません。所有者は日々生命エネルギーを吸い取られます。学園長はその性質を逆に利用し、大量のエネルギーを送り込んで前の鱗を焼いたのです」


「これを使うと不老不死の肉体を得られるというのは?」


「それについては、方法がわかりません」


「お宅の福島七恵さんが不老不死なのでは?」


「ええ。しかし、彼女の場合は人魚による呪いの結果なのです。鱗とは関係がありません。もしかしたら鱗は、負の側面しか持っていないのかもしれません」


「すると……」


「自殺志願者なら別ですが、鱗を手元に置く意味はないということになります」


「こんなに美しいのに、……怖いものですね」


 玉麗は再度鱗に眼をやって、綺麗なものにはとげがある、といった陳腐な格言を思い出していた。


「人は見た目にだまされやすいものです」


 隈川は、吸い寄せられるように玉麗を窺ったが、すぐに姿勢を正した。


「帳簿に計上されていた鱗は学園長が焼きました。その痕跡は警察も確認していますので、帳簿からは除却処理をお願いします」


「その件は承知しました。ところで、この鱗の所有者は、誰になっているのでしょう?」


「おそらく鳴門あゆみさんです。気の毒ですが……」


 どこまでも運のない奴だ。……玉麗はあゆむの白い顔を思い出した。とはいえ、思い出しただけで、隈川ほどには同情しなかった。元々この事件を解決するために採用したワンポイントリリーフだ。


「なるほど。そちらの二つのケースは?」


 玉麗は興味の確信に入る。目の前にある物が本物の宝玉ならば、ひと目なりとも見ておきたい。ふたの閉じた小箱を指した。


「これはトヨタマヒメ神の玉だそうです」


 隈川が小箱を開けた。飴玉のような二つの玉が、ほんのりと淡い光を発している。


「赤玉と白玉は、どういった効果があるものですか?」


「手紙では、白玉は不老不死から人を救い出すのに使うものです。命を閉じようと決意したとき、その玉が行先を示すとありました」


 自死のことか?……玉麗は一瞬で関心を失った。思い直したのは、自死に使う玉ならば、殺害にも使えるのではないか、と思い至ったからだ。〝完全犯罪〟が可能なら、高額で取引されるかもしれない。そういった目的なら、人魚の鱗にも価値があるだろう。


「で、こちらの赤い玉は」


 込み上げる笑みを圧して、もう一つの玉を指す。


「赤玉は、白玉を持つものと対の者の印だと言うことです。手紙には赤玉を持つべき人魚を探してほしいと書いてありましたが、何の事だか……。私にはさっぱり見当がつきません」


 隈川が再びため息をついた。


 なるほど。……玉麗は心中うなった。白玉に〝完全犯罪〟を成す可能性があるとしても、赤玉とセットで使わなければならないとしたら、否応なしに関係者が1人増えてしまう。その手続きが複雑になる分、道具としての価値は下がってしまうだろう。


 玉麗の思考を、隈川の声が遮った。


「もちろん、これらの玉に実際的な効能があるのかどうか、現時点では定かでありません。すべて、亡き学園長の手紙にあったことです。もしかしたら鱗と同じように、負の効果しか持たないのかもしれない。それで鉛を張った箱に入れてみました」


「鉛板に何の効果が?」


「放射線を遮るので、もしかしたら負の効果も遮ってくれるのではないかと。まぁ、科学的な裏付けのない気休めです」


「なるほど。それでこれらはどうなるのです?」


 効能はともかく、世界にひとつしかない〝ザ、お宝〟だ。その行方に興味があった。


「人魚といい、玉といい、世の中には人間の知らないことが多いということです。この玉も鳴門さんの身体から出てきたものなので、彼女にお渡しいたします。今後の処置に関しては所有者である鳴門さんの判断に従いましょう。……決算書が出来上がりましたら約束通りの金額をお支払いしますので、請求書を送ってください」


 隈川は三つの小箱を置いて立ち上がった。


「ご丁寧にどうも」


 玉麗は魅力満載の笑みをつくり、エレベーターまで見送った。その扉が閉まったあと、上半身を折るようにして、フー、と長い息を吐いた。腹の底から喜びがわき上がるのを、彼に悟られないように必死でこらえていたのだ。


「お宝ゲットだぜ!」


 右手でガッツポーズを作った。


「これがお宝なんだね。綺麗だね」


 玉麗が打ち合わせ室に戻ると、梅世と栄花が小箱を開けて覗きこんでいた。


「触るな! 死ぬぞ」


 玉麗は叫んだ。傷でもつけられたら価値が下がる。


「ひぇー」


 玉麗の意図など知らない2人は、恐れおののき飛びのいた。


 声を聞きつけ、阿久と好子がやってくる。


「玉ちゃんが大声を出すとは珍しい」


 阿久も人魚の鱗のケースを覗き込んだ。


「触れたら、本当に死んじゃうの?」


 好子が訊いた。


「どうやら冗談ではなかったらしい」


 玉麗は、人魚の鱗の呪いを語って聞かせた。そして今、それの所有者が歩だということも。


「今のままだと、歩は近いうちに昇天するのか?」


 阿久が、生命保険のパンフレットを持ち出す。


「阿久さん、止めて。お金は好きだけれど、所員の命を事務所の収益にしようとは思わないわ」


 玉麗が珍しく良心的な話をするので、好子や梅世が目を丸くした。


「いや、受取人は俺にするつもりだ。無審査、死亡保険金1000万ぐらいなら妥当なところだろう」


「そういうことなら、好きにして」


 玉麗はわずかな生命保険など歯牙しがに掛けない。宝玉の売却方法に意識が向かっていた。世界にひとつのお宝が三つもあるのだ。ひとつ1億、いや10億か、と皮算用に忙しい。隈川が言うには、それらは歩の所有物だが、業務上入手した成果物は勤務先のものと考えるのがビジネスでは常識だ。。途中から、論理が飛躍していた。


「それじゃ私も一口、かませて」


 好子が阿久に向かって手を上げた。


「まったく現金ね」


 玉麗は苦笑した。


「現金、最高!」


 良子が万歳する。


「こっちの玉は、触っても大丈夫?」


 栄花が訊いた。


「ダメよ」


 玉麗は制した。傷がついたら売却価格が下がりかねない。


 ふと気づいた。後から呪いがかかっているとわかり、責任を追及されたら面倒ではないか、と。……いや、その時は歩に責任を取らせればいいか……。強欲と悪意がDNA状のらせん構造を織りなす。


 ――ゴツン……、玉を覗き込んでいた好子と頭がぶつかり、妄想から解き放たれる。


「それじゃぁ、好子。聖オーヴァル学園の人魚の鱗は除却処分にしてちょうだい。その他の資産の評価に手心を加えて赤字にしないようにするのよ」


「了解。まかせて」


「私は、歩を迎えに行ってくる」


 玉麗は三つのケースを金庫に入れると、梅世を連れて事務所を出た。


「まったく歩も、この忙しい時期に気絶しているなんて、いい身分よね」


 助手席に掛けた玉麗は、ハンドルを握る梅世に向かって愚痴を言った。


「でも、無事でよかったじゃないですか」


「まあね」


 その言葉に噓はなかった。とはいえ彼は、人魚の鱗に命を吸い取られて死んでしまうのだけれど……。アーメン……。いや、南無阿弥陀仏かぁ……。


 2人が聖オーヴァル学園の事務室を訪ねると、紅子が保健室に案内してくれた。壁はピンク色で遊園地のようなキュートな装飾が施された部屋だった。玉麗の知っている昔の保健室とはずいぶん様子が違っているが、ベッドを仕切るカーテンとわずかな消毒液の匂いは昔と変わらなかった。


 カーテンに囲われたベッドに歩が寝かされていて、その顔がテーブルの上で踊った時よりもやつれたように見えた。面白半分に新人を調査に投入したが、やりすぎだったかもしれない、と形ばかり反省した。


「そろそろ目覚めるとお医者様は言っていましたが。そうそう、衣類は濡れていたので着替えさせました。そちらも乾いた頃です。取りに行っていただけますか?」


 紅子が言う。


「え!」


 歩が男性だということは理事長さえ知らない。もし、女子寮に男性をおくり込んだと分かったら……。玉麗はテレビで謝罪会見を開く自分を想像した。


「着替えは誰が?」


 気をきかせ、梅世が訊いた。


「同室の生徒です」


「良かった……」


 玉麗は胸をなでおろした。同室の生徒は、歩を男性だと知っているはずだ。


「何が良かったのです?」


 紅子がけげんそうな表情を浮かべる。


「いえ、こちらのことです」


 紅子がコホンと咳払いをし、刺すような視線を玉麗に向けた。


「差し出がましいとは思いますが、あの下着は少し派手すぎます。まだお若いですし素人なのですから、上司としても注意された方がいいと思いますよ」


 何を言うのかと思ったら、そんなことか。……玉麗は阿久が並べた下着の数々を思い出し、確かに派手なものが多かった、と納得した。


「そうします」


 恐縮してみせてから、紅子の下着を想像した。他人の下着の趣味に口をはさむからには、さぞステキな下着を身に着けているに違いない。


「では、寮へご案内します。荷物をまとめていただきませんと……」


 紅子に促されて梅世が立ち上がった。玉麗は残ることにした。また小言を言われるのはたまらない。


 紅子たちが保健室を出てから、歩の身体の出っ張った部分をつまんだ。


「歩、起きろ!」


 耳元で大声をあげる。彼の全身がビクンと脈動した。


※   ※   ※


 歩のぼんやりした意識は、先の見えない濃い霧の中を歩いていた。すると、「歩!」と、どこからともなく聞き覚えのある声がした。それから、身体の一部を強い力で引っ張られた。


「ウーンー」


 歩は息苦しさを覚えて頭を左右に振った。誰かに鼻をつままれていた。


「気づいた?」


「ここは……」


 歩の呼吸は乱れていて、目の前にはピンク色の天井があった。


「保健室よ」


「僕はおぼれて……」


 冷たい水の感触が蘇る。


「自分の部屋でおぼれたなんて変わり者ね。何があったの?」


 その時初めて、枕元に座っているのが玉麗だと気づいた。


 水の中から引き上げてくれたのは玉麗だったのだろうか?……記憶をまさぐった。自分を呼んだ声が男か女かも定かではない。ただ、聞いたことのある声だということだけは確かで、玉麗だと言われればそんな気もする。


「話せば長い話です」


 人魚の詩織の肩につかまって、冷たい逢隈川に潜った記憶……。川岸に立っていた七恵ともうひとりのアユムの姿……。囲炉裏から立ち上る煙……。そうしたものが脳の中で錯綜した。


「そうだ……」七恵が人魚を殺さずに済んだ。彼女は人魚の呪いを受けず、不老不死にはならなかった。この世界には七恵はいないのだ。……考えが及ぶと、むなしさのようなものがこみ上げ、涙がこぼれた。


「何を泣いているのよ」


 玉麗が小首を傾げる。


 七恵がいないということは理屈上、七恵を恨む詩織もいないはずだ。……歩は彼女に会ってみたいと思った。性格の良い詩織なら……。卑猥な欲望がムズムズする。


 とはいえ、すべて丸く収まった。これで良かったのだ。……笑みがこぼれた。


「泣いたり笑ったり、おかしなやつね。女子寮の刺激が強すぎて、いかれてしまったのかしら?」


 玉麗の冷たい声で、現実に引き戻された。


「詩織さんは?」


「詩織……。誰だそれは?」


 玉麗が首をひねるのを見て、やはり歴史は変わったのだ。


「いえ……。夢の話です」


 以前の世界を知らない玉麗に、詩織や七恵の話を持ち出して混乱させてはいけないだろう。突き詰めたら、どんな仕打ちを受けるか……。想像するのも恐ろしい。


「今、梅世さんが荷物を車に積み込んでいる。それがすんだら帰るわよ」


 玉麗の言葉を聞きながら、七恵と詩織を思った。辛いことも多かったが、終わってみれば何もかも懐かしい。もう会えないと思うと泣けてくる。


「泣くな」


 玉麗にハンカチを押し付けられた。甘い香りがした。


 身体を起こすと背筋がギシギシ痛む。詩織にしがみつくのに必死だったのだ。水中での出来事を思った。


「アユミちゃん、気が付いたのね」


 聞き覚えのある声。……カーテンの陰から梅世が顔を見せた。その顔にも懐かしさを覚えた。


「アユミちゃんが派手な下着を身に着けていたから、玉麗さんが事務長さんに叱られたのよ」


 梅世が笑った。玉麗はぷいっと横を向いた。


「それは、阿久さんのせいです」


「うんうん、わかっているわよ。後で、いろいろ聞かせてね」


 梅世がウインクを投げる。彼女が栄花の父親を探しているのを思い出し、身の危険を覚えた。


「帰るわよ」


 玉麗が立った。


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