第29話 タイムスリップ

「どういうこと……」


 歩は、詩織が流した大量の涙が、床でグルグルと渦を巻いて巨大化する様を呆然と見守った。それは1500年前に逢隈川で見たものと同じものに見えた。


「彼女の中の人魚の力だ」


 七恵が渦に巻き込まれないように、ベッドに飛び乗る。


「水神よ、私に力を……」


 詩織の唇から人魚の声が漏れた。


 渦は成長し、あっという間に小さな部屋の床を呑みこんだ。ベッドが池に浮かぶ船のようだ。


「詩織さん、しっかりして」


 歩の声が詩織の意識を目覚めさせることはなかった。彼女の身体は、すっかり人魚の魂に乗っ取られたのだろう。その瞳は黒々とした穴のままで、本来、瞳が持つ輝きはなかった。


「詩織さん!」


 彼女の肩をゆすった。


「触れるな、下郎」


 詩織が立ち上がり、ベッドを下りる。渦の上に立つと幸福そうに口角を上げた。


「水神がいるのか?」


 七恵が四つん這いになって渦巻く池を覗き込んだ。歩も覗いた。が、水の底はただの碧い闇だ。


「水神様……」


 詩織が念じるように両手を合わせると、その脚がズルリと池に引き込まれた。まるで水を溜めた龍の口が、彼女を飲み込もうとしているようだった。


 一瞬、詩織の表情が歪む。人間の詩織が恐怖を感じたのに違いなかった。それが合図のように、身体は一気に胸元まで沈んだ。


 助けを求めるように、詩織の手が歩に向かって伸びる。歩は、反射的にそれを握っていた。


「ありがとう……」


 詩織本来の声がした。その瞳に光も宿っている。彼女はもがき、池から脱しようとしていた。


 しかし、彼女がどんなにあがいても、その身体が自由になることはなかった。表情に疲労と諦念の色が浮かぶ。


「詩織さん、負けないで……」


 歩がどれだけ踏ん張ろうと、彼女はズブズブと沈んでいく。水神の力に人間など抗いようがなかった。


 顔まで池に沈んだ詩織は首を伸ばし、かろうじて呼吸をしていた。顔を真っ赤にして、その目は自分を引き上げようとする歩を見ていた。


「手を離して……、ありがとう……」


 言葉と同時に、彼女は自ら手を離した。


 しかし、歩は離さなかった。詩織の姿が水に没しても、歩は彼女の手を握っていた。


 歩の腕が肘まで水に浸かった時だった。ついに詩織の手が離れた。


「エッ!」


 声が漏れた。歩の腕が詩織ではない何モノかに強く引かれた。水神が、彼をも引き込もうとしているのに違いない。


 歩は左手でベッドを握って抵抗したが、すでに右腕は肩まで水に没していた。


 七恵が歩を助けようと動く。


 小さな彼女に何ができるだろう。


「止めろ!」


 無駄だと思うから、そう叫んだ。


 刹那、歩は頭から池に飲みこまれた。そこにあるのは水ではなく、暗黒だった。また、別の世界に行くのだ、そんな予感がした。


「アユム!」


 七恵の叫びが小さな部屋に虚しく響く。


「アユム、アユム、アユム……」


 七恵が渦を覗きこむようにして、名前を呼び続けた。


※   ※   ※


 歩の鼻腔を煙がくすぐった。


「また、だ……」


 全てを理解して眼を開けた。そこにはいつもの茅葺屋根がある。


 起き上がり、いつもと違うことに気づいた。以前は当時のアユムの中に魂が滑り込んだようになっていたのに、今度はパジャマを身に着けていた。下着も確認した。阿久にもらったレース地のショーツだ。


「誰かの過去を追体験しているのではなく、タイムスリップしたということか……」


 それならここで死ぬこともあるということだ。……リスクに気づき恐怖した。スマホも水洗トイレもない世界だ。とても生きていけそうにない。


 七恵、助けてくれ!……無意味だとわかっていても、叫びたい衝動にかられた。それを必死にこらえた。誰かに見つかったら、無事にはすまないだろう。


 脳裏に浮かんだのは人魚だった。詩織だ。彼女なら、何とかしてくれるかもしれない。


 幸いなのは、ここが以前も訪れた場所で、いわゆる土地勘があることだった。


 歩は出入り口から外の様子をうかがう。太陽はまだ高く、集落の住人たちは共同作業に出ている時間帯だった。もし、以前のように人魚が現れるなら、その時刻にはまだまだ余裕がある。誰にも見つからないように注意深く外に出た。


 空腹を感じたが口にできるようなものは見当たらない。自然は豊かでも、能力がない者には厳しい時代なのだ。余分なものなど滅多にない。河原に下りて澄んだ水で腹を満たそうと思った。


 逢隈川に出ると、河原に半裸の男の姿があった。七恵の夫のアユムで、顔の向いた先には細い手を上げる人魚の姿もあった。


 以前より早いじゃないか!……歴史が変わっているのかもしれないと思った。


 当然だ。自分がここに存在しているのだから。そう結論すると同時に、2人を関係させてはならないと思った。アユムが人魚を抱かなければ、七恵が人魚を殺すこともない。……歩は走りだした。


 裸足で走ると、小石や木の枝を踏んで痛みを覚えた。が、止まることはなかった。目の前では、今にもアユムと人魚が交わろうとしている。


「シオリー!」


 歩は叫んだ。


 アユムが振り返る。日に焼けて髭が伸びているものの、歩とよく似た顔をしていた。


「詩織!」


 歩はザブンと流れに飛び込み、もうひとりの自分を押しのけて人魚を抱きしめた。


「歩!」


 人魚が歩の名を呼んだ。


 間違いない。人魚は水神に連れ去られた詩織だ。……人魚を抱く腕に力がこもる。


 髭面のアユムは、狐に鼻をつままれたような顔で流れから上がった。


「詩織は誰にも渡さない。たとえ水神であっても……」


 気付くと、詩織が身体の真ん中の鱗をはがそうとしていた。


「そんなことはしなくてもいいんだ」


 言った時には遅かった。鱗はがれ、桃色の亀裂が露出していた。そこから漂う香りに、歩は正気を失った。


 2人は抱き合い、ひとつになった。ところが、うっかりバランスを崩した。歩は踏ん張ろうとしたが、川は深く支える地面がない。


 2人は絡まりあったまま急流にのまれた。


 滔々とうとうたる水流にもまれて浮き沈みして顔が川面に浮いたとき、アユムと共に岸辺に立つ七恵の姿が目に留まった。2人は、おかしな姿の人間と人魚が溺れているのを見物しているようだ。


 もし、現代に戻ることができたなら、人魚に呪われずに済んだ七恵は存在しないだろう。激しい流れに翻弄ほんろうされながら、頭の隅でそんなことを考えた。それは一方で、哀しい想像だった。しかし、それで七恵が不老不死という呪いから解放されるなら喜ぶべきなのだろう。


 あっという間に七恵の姿は見えなくなっていた。


「詩織、僕らの時代に帰ろう」


 言うと身が沈み、ゴボゴボと大量の水を飲んだ。実際、そうできるかどうか見当がつかない。ただ、時の流れに身を任せたまま死にたくなかった。結果がどうなろうと全力を尽くして抗いたい。


「行きましょう。私たちの世界へ」


 詩織の黒々とした瞳に希望を見た。


「振り落とされないように、しっかりつかまって」


 詩織が腰を振った。尾鰭が強く水を打つと、2人は激しい勢いで水を切って進んだ。どうやら水底へ向かっているらしい。


 歩は振り落とされないよう、詩織の身体に必死でしがみついた。彼女の胸のふくらみを堪能する余裕もなく……。


 水中の旅は、想像していたよりも長く苦しいものだった。


 どこまで潜るんだ?……呼吸を止めた問いは音にならない。ただ、詩織を信じるしかなかった。


 息を止めているのに限界を覚える。酸素不足で頭がくらくらする。薄れる意識が生きたい、と願った。そうして自分を見失いかけた時、前方に光の渦を認めた。


 出口に違いない。……歩は、眩い光に向かって左腕を伸ばし、自分の世界をつかもうとあがいた。すると、それに応えるように腕を握る強い手があった。


「歩!」


 聞き覚えのある声がした。


 水からはい出た詩織が、マラソンを終えたランナーのように床に倒れ込んで肩で息をした。水神の力はなりを潜め、室内にあった渦は小さな水溜りに変わっていた。それも、歩が這い上がると元のフローリングに戻った。


 大量の水を飲んだ歩の状態は悪かった。全身から水の圧力が去ると、胸と腹の中に溜まった水がのどをついて溢れた。ゲー、ゲー、というヒキガエルの声のような音と一緒に水を吐いた。喉から溢れだす水に溶けて胃や腸や膀胱までも流れ出してしまいそうだった。


 喉に何かが張り付いたような違和感があって、吐き気が収まることはなかった。体内の水がなくなると、今度は、ゲホゲホ、と空気ばかりを吐いた。水中から脱したというのに、酸欠で意識が飛びそうだ。


 一瞬、のどをふさぐ物があった。グェー、という嫌な音と共に硬い物を吐いた。それはコロコロと床を転がった。赤玉と白玉だった。


 ――グェー……、歩は吐きつづけた。


 ハラリと落ちたのは金色の人魚の鱗。吐くと同時に、吐き続けて酸欠に陥った脳が活動を停止した。

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