第28話 渦

 誰が言い出したものか、聖オーヴァル学園の生徒の間には、学園長が失踪したとか亡くなったとかいった噂が流れていた。


 しかし、学園長の魔力を知る詩織は噂を信じなかった。もし、彼女に何かがあれば、いつもざわつく〝魂〟が黙ってはいないと思う。ところがそれは、普段より穏やかで安定していた。学園長の身に〝死〟の影が及んでいるはずがない。


「つまらない噂に惑わされてはいけませんよ」


 詩織は取り巻きの同級生や下級生に注意を与えながら清々しい気分でいた。とはいえ、ひとつ気になることがあった。〝アユミ〟を取りあった七恵との対決が引き分けに終わったことだ。勝利を得たわけでもないのに、どうして清々しい気分なのか、〝魂〟が落ち着いているのか、それがわからない。


「でも、それでいいのよね」そう言葉にできる自分を、成長したと感じた。語り掛ける相手は、心の奥底に宿る〝魂〟だ。


 今なら七恵と素直に向き合えるかもしれない。そう思って図書館に足を運んだが、そこで七恵をみつけることはできなかった。学習室に行ってみたが、歩の姿もない。


 考えてみると、毎日、コンビニに向かう2人の姿があったのに、昨日からその姿も見ていない。


 午後、勇気を振り絞って七恵の部屋を訪ねた。


 ノックをしても返事がないのでノブを回してみる。ドアは何の抵抗もなく開いた。


 カーテンが陽射しをさえぎっていて、室内は薄暗い。それでも他の部屋と同じような備え付けの机やベッドの形はよくわかった。ほかには書棚と床に積み重ねられた本しかなく、まるで図書館の地下の作業部屋のような空間だと感じた。


 ほんと、七恵らしい。……胸中でつぶやいたとき、人の気配を感じた。ほんの少ない側、つまり、歩のベッドだ。


「お姉さま?」


 目を凝らして見えたのは、置物のように動かない、ぼんやりした七恵の姿だった。ベッドの毛布が盛り上がっている。そこに歩が隠れているのだろう。


 2人が肉体的な関係にあるのかもしれない、と想像したことはあった。が、実際に同じベッドにいる様子を見ると、詩織の胸は激しく痛んだ。なのに〝魂〟は騒がない。


 七恵も歩も返事をしなかった。相変わらず七恵も毛布の膨らみも動かない。それで誤魔化せるつもりなのだろうか? いや、ありえない。……部屋を出るべきか迷ったが、あまりにも様子がおかしいので声をかけた。


「七恵さん、あなたとお姉さまが二日も顔を見せないから、心配していたのよ」


「……あなたが?」


 七恵の声は、普段以上に生気がなかった。


「変よね」


 詩織は1歩進む。七恵の姿が鮮明になる。のっぺりとした表情はいつもと同じだったが、全てを拒むような凛としたオーラがないのはいつもと違っていた。


「お姉さまは寝ているの?」


 七恵が首を振った。


「どういうこと?」


 更に足を進める。七恵が拒まないので、横になっている歩を覗き込んだ。その寝顔は安らかに見える。


「寝ているじゃない」


 詩織はほっとした。


「違う。あなたの所に行ったきり、帰ってこないの」


「どういうこと?」


〝魂〟が、七恵が歩をあの時代に送ったのだ、とささやいた。


 どういうこと?……詩織は同じことを問いかけた。しかし、七恵同様、〝魂〟も答えなかった。


〝魂〟の安らぎは、歩がその時代にいるからかもしれない。そう、推測した。


「もし、向こうから戻らなかったら、どうするつもりなの?」


「わからない」


 七恵の答えは、とても無責任なものに聞こえた。


「この人はあなたと違うのよ。目覚めなかったら、餓死してしまうわ」


 七恵ののっぺりした顔が歪んだ。


「学園長が、私に死ぬ選択肢を与えてくれた。この人が死んだら、それが自分の死ぬ時だと思う。でも……」


 七恵の視線が歩に向けられる。


 詩織は、彼女が何を話しているのかわからなかった。話の続きを待った。


「白い玉がない……」


 七恵が頭を抱えた。彼女が、それほど率直に感情をあらわにしたのを、かつて見たことがなかった。


「白い玉って、なあに?……しっかりしなさい。1500歳なのでしょ」


「1500歳でも、わからないものは、わからない」


 七恵が悶え苦しむ。


 詩織は、〝魂〟が笑った気がした。それが自分でも許せなかった。一つの肉体の中で、二つの魂がぶつかった。


「どきなさい」


 詩織は七恵を押しのけて歩の身体を優しく揺り動かした。まったく目覚める気配がなかった。


 人に過去を見せる呪文を知っていても、過去に行った魂を引き戻す呪文は知らない。学園長なら知っているかしら?


「お姉さま、アユミさん! 起きて」


 歩にまたがって肩をゆすった。胸を叩いた。そうしていると、本来の自分の魂が震えた。彼を、いや、彼女を現実に引き戻したかった。


「こっちに来て。ここが歩の世界なのよ……」


 いつの間にか、歩に抱き着いて泣いていた。


※   ※   ※


 詩織の心配をよそに、歩は1500年前の逢隈川沿いの集落で幸せにすごしていた。毎日、詩織を抱き、大地の恵みをむさぼり、集落の仲間たちと語り合い、木をって働いた。貧しくても笑いの絶えない日々があった。


 ある日、釣りの帰りに土手を歩いていると女性の声がした。


「こちらに来て……」


 流れの中、岩にすがる髪の長い女性がいた。細い右手をあげて歩を呼んでいる。


 助けを求めているのかと思ったが、そうではなかった。女性は笑みを浮かべて「こっちへ」と誘っている。


 歩がじゃぶじゃぶと川に入って近づくと、彼女も近づいてきた。そうして女性が詩織で、腰から下が魚の形をしているとわかった。


「詩織、その姿は、どういうことだ?」


 驚きと同時に、からきた男たちが人魚という霊異のものの話をしていたことを思い出した。詩織がその人魚だと思うとおそれを覚えた。


「お願いがあります」


 人魚が他人行儀に頭を下げる。


 詩織ではない、他人の空似だ。そう考えた。


「困りごとか?」


 同情心と警戒心が頭をもたげる。


「抱いてください」


「無茶を言うな」


 恐怖心が勝って、人魚に背を向けた。


「私は詩織なのです」


 その言葉に足が止まった。


「ならば、何をいまさら、だ。毎日、抱き合っているだろう」


「この姿で、抱いてほしいのです」


「……本当に詩織なのか?」


「ハイ……」


 詩織がコクリと首を縦に振り、下腹部の鱗を自ら引きはがした。それを握らせられると、歩の身体から逃げ出す力が奪われた。


 流れの中ほどに、もうひとりの人魚がいた。それは七恵の顔をしていた。泣きはらした赤い目で、詩織に抱きすくめられた歩を見ていた。嫉妬に顔をゆがめて……。


「お前たちは呪われるだろう。無限の時の闇に落ちろ」


 彼女は暴力こそ振るわなかったが、恨みの言葉を投げて流れに没した。その跡に大きな渦が生じた。


 歩が見たのは、その渦だけだった。それは瞬く間に巨大化し、歩をのみこんだ。


 水中で回転する肺から空気が漏れ、代わりに水が流れ込む。歩は死を覚悟した。


「こっちに来て!」


 詩織の声を聞いた。声に向かって必死に手を伸ばした。


※   ※   ※


 突然、歩が詩織を抱きしめた。そして、ハァーと胸に詰まらせた空気を吐き出した。


「お姉さま!」


 詩織は涙にぬれた頬を歩に押し付けた。


「戻ってきてよかった」


 心底そう思った。


 2人が抱き合う様を見る七恵の表情にも変化があった。ヒクヒクと頬の筋肉が動くのは、喜んでいるのに違いない。ほどなく、彼女は表情をゆがめて歩のベッドを下りた。


 歩はといえば、口と目を大きく見開き、息を荒げながら恐ろしいものを探すように周囲に目をやっている。


「安心して。学園に戻ったのよ」


 詩織が教えると、彼は目を詩織に向けた。


「僕は、また向こうに行っていた……」


 額に浮いた汗を、詩織がぬぐった。


 彼が上半身を起こし、視線が七恵を探した。そうして七恵を見つけると顔をしかめた。七恵はいつもの感情のない顔に戻っていた。


「あんな大きな聖書で殴るなんて……。七恵さんも、まさか……」


 そこで彼は言葉をのんだ。困惑したように首を振り、自分を疑うように頭を抱えた。その時だ。薄暗い部屋に一点の輝きが生じた。それは歩の手のひらからハラハラと、黄金の光を煌めかせて落ちた。


「これは?」


 詩織はそれを拾った。それは紛れもない。人魚の鱗だった。


 ――アッ……、七恵が息をのんだ。学園長が焼いたはずのそれが、再び彼女につき付けられたのだ。


「人魚の鱗だ」


 歩が慌てて、詩織の手からそれを奪った。


「学園長が、焼いたはずのに……」


 彼の顔がゆがんでいた。


「学園長が?」


 詩織は尋ねた。どうやら歩と七恵は何かを隠しているようだ。


「詩織さんは知らなかったんだね。学園長は持ち出した人魚の鱗を、命を懸けて焼いたんだよ」


「学園長が亡くなったという噂は、本当だったの?」


 詩織の胸を黒く冷たいものが過った。


「ボ、私が聞いたのは、式神からだから正確には知らないけれど……。七恵さんは、何か聞いた?」


 歩の問いに、七恵が首を左右に振った。


「私の中にいる人魚の魂が掛けた呪いを解くために、学園長が亡くなった。……そういうことですね?」


「今の詩織さんには関係のないことだよ。大昔のことだ」


 その声は、素の歩のものだった。彼は、鱗を握りしめた拳に視線を落とした。


 詩織は、ひどい頭痛を覚えた。〝魂〟が鱗に反応しているのかもしれない。


「何があったのか、全部、教えてください?」


「どうしたものかな?」


 歩が七恵の意見を求めた。


「……」彼女は無言で首をかしげた。


「私には知る権利があります。そうしなければ、自分の人生を決められません。アユミさんが男でも女でもないように、私は、今の詩織でも昔の人魚でもない。それって、すごく変なことだと思うの」


 詩織は、2人に向かって訴えた。


 歩が煮え切らないように首を傾げている。


「両方とも私だから、全てを知って一つになりたいのよ」


「詩織さんの言うことが正しいのかもしれない」


 七恵が言った。


「驚かないでよ……」


 歩が前置きして語りだした。最初に話したのは、見てきたばかりの過去だ。詩織と夫婦として暮らし、2人の人魚が現れた物語。……次に、学園長に見せられたオリジナルの物語を話し、最後に、詩織が見せた過去を話した。それには、詩織自身も驚いた。人魚の魂も歩を欲している、と確信した。


「……どれが本当の過去なのか、僕には分からない。全てが真実のように感じるけれど、それならば逆に、全てが作られた物語なのかもしれない」


「それじゃあ、鱗を返してちょうだい。それは私のものでしょ」


 歩に向かって手を出した。寿命を奪う鱗を、歩に持たせておくわけにはいかない。


「それはそうだけど、これは危険なものなんだ。あげられないよ」


「あら、女だからって馬鹿にするの? それとも、年下だから?」


 詩織は歩の気持ちが嬉しかった。だからこそ徴発した。


「歩は、それを持って帰るのが仕事なのよ」


 七恵が言った。


「どういうこと?」


「僕は、盗まれた人魚の鱗を取り戻すために学園に潜入したんだ。でも……」


 彼は人魚の鱗を差し出した。


「これは君のものだ。ただ、約束してほしい。すぐにそれは理事長に渡すんだ。そうすれば図書館の金庫に保管してくれる」


「歩さんは、それが必要なのでしょう?」


「確かにそうだけど、本当に探していたものは学園長が燃やしてしまったほうだ。これは僕の眼の前で人魚が自分の身体から取って見せたものだ。その人魚は詩織さんの顔をしていた。君のものに間違いない」


「そ、そう……」


 詩織は複雑な気持ちでそれを受け取った。自分自身がそれを求めたのに嬉しくなかった。それは2人をつなぐ絆なのだから。……どうして歩は私の気持ちをわかってくれないのだろう。


「これは1500年前の私が、大好きな人に上げたもの……」


 縁が切れる。そんな失望を覚えた。同時に、頭の奥底、この次元とは異なるような深く暗い場所で人魚の魂が怒りに震えている気がした。


 思いもよらず、詩織の目から涙がボロボロとこぼれて鱗を濡らした。すると濡れた鱗が破裂するような閃光を発した。


「キャッ!」


 細い悲鳴を上げたのは歩だった。同時に彼は詩織を強く抱きしめた。


 詩織は意識を失っていた。にもかかわらず、その瞳が黒いトンネルのようになっていて、蛇口のように大量の涙を流していた。その涙は滝のように流れ落ち、フローリングの上でヘビのように蜷局とぐろを巻いた。


 蜷局はあっという間に巨大化し、あおい水面に白く泡立つ渦をつくった。

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