第27話 慟哭

 歩は胸にのしかかる重みで目覚めた。七恵が歩に乗っているのはいつものことだが、その日は違った。巫女装束の端正な顔の女性に見下ろされていた。


「んー?」


 歩は寝ぼけ眼で彼女を見上げる。


「私は日の巫女。よく聞け」


「だあれ?」


 夢の中にいるのだと思った。


「日の巫女」


「ピノキオ?」


 日の巫女が不機嫌そうに細い頬を少しだけふくらませた。


「相馬朋恵の式神じゃ。我が言葉ことのはは、相馬朋恵の言霊ことだまと知れ」


 彼女の唇から学園長の名前が零れ落ち、歩は打たれたように意識がはっきりした。


「学園長の!」


 上体を起こすと、胸にもたれていた七恵がゴロンと半回転して薄らと眼をあけた。


「聞け。……私は、神仏の力を借りて人魚の鱗を焼きました。もうこの世に七恵さんを縛るものはありません。しかし、全てが終わったわけではありません……」


 その声音は朋恵のもののようだ。驚いた七恵がその場で正座した。


「……海の社のトヨタマヒメ神はこう言いました。……水の国に人魚の魂が戻るべき場所はすでになく、人魚の呪いを解くことはできない。しかし、宝珠たまを使えば七恵さんが死を選ぶことはできる。その時を自分自身で選択し、白玉の指し示す方角へすすみなさい。……運命は、七恵さんにを与えた。……だけど七恵さん。あなたは、1人ではないということを理解しなければなりません。私はこれ以上助けてあげられないけれど、あなたの周りには、あなた次第で助けてくれる人が必ずいます。忘れないでください。あなたは1人じゃない。赤玉とのえにしを大切にするのです。宝珠は赤玉を持つ者に預けておきます」


 言い終わると式神は瞬く間に消えて、一片の汚れた和紙が残った。


 歩は、学園長はもう戻らないのだと悟った。同様に焼かれた人魚の鱗も戻って来ないと。……それを取り戻す仕事が失敗したという現実は、職と住居も失ったということだ。


「すべてが無に戻った」


 歩は、失望をそう表現した。玉麗に預けられたペーパーナイフを思い出す。本当にそれを使って腹を切ろうか、と考えた。式神の言ったとは、自殺によってしか死ぬことが出来ないということだろう。流されて生きる人生を拒否した七恵には、過酷な選択肢ではないだろうか?


 七恵はどう感じているのだろう?……隣で正座している彼女はいつものように無表情だが、心の内までそうとは思えなかった。


「無に戻った?……いいえ、もともと何もなかった。なのに、命をかけるとは……」


 歩の言葉に、七恵がそう応じた。


 それからというもの、彼女は一日無表情だったが、いつものように図書館に向かうことがなく、本を手に取ることもなかった。歩のベッドに置物のように座っていて、そこから動かなかった。


 知り合って間もない自分でさえ悲しくやるせないのだ。数十年もの間、学園長と人生を共にしてきた七恵が、学園長の死を知って悲しくないはずがない。……歩はベッドから動こうとしない七恵が、運命に打ちのめされているのだと感じて寄り添った。


 とはいえ、あまりにも長い沈黙は苦痛だった。


「お腹がすいたんじゃない?」「喉は乾いていない?」「テレビでも見てみる?」「学園長との付き合いはいつごろから?」「学園長はお母さんみたいだったわね」


 七恵のためにかけた言葉を、彼女は頭を振って全て拒否した。彼女はおかしくなってしまったのではないか?……不安を覚える。同時に、何もかも拒絶されてイラッとした。そうしてわかった。彼女に声をかけたのは、彼女のためではなく自分のためだと……。学園長に自分のずるさを突き付けられたような気がする。


 太陽が西に傾き始めてから、やっと七恵が口を開いた。


「私の最初の夫はアユムといった。あなたによく似た姿かたちをしていました。1500年も前の春、アユムは人魚を抱いた。若い私は怒りに我を忘れて人魚と夫を串刺しにして殺した……」


 歩は驚かなかった。一度、その経験をしている。黙って、彼女の言葉に耳を傾けた。


「……その時、人魚の血と呪いの言葉を浴びた。それから歳を取らなくなった。病も怪我も瞬時に治ってしまう。飢えても死ぬことがない。……私は霊山に隠れて百年過ごした。そうすれば何もかも忘れられて新しい人生が始まると勝手に考えていた。百年の時は長かったけれど、それでも世の中も私も変わらなかった。山を下りると化け物と恐れられ、捕えられて首を切られた。でも死ななかった。……私は罪人。そして、人間であり、人間でない者。全ては激情に負けて夫を殺した天罰。……私は死ぬことも出来ず、永遠に夫殺しの罪と共にある。その運命に学園長を巻き込むなんて……」


 七恵が自分を責めた。言葉に強い感情が宿り、震える声は乾いていた瞳を濡らした。歩は彼女の肩を抱く手に力を込めた。それが愛情によるものか、同情かわからない。


「孤独に慣れたつもりでも、人は恋しかった。春には無性に男の精が欲しくなる。この地を離れ、何度か結婚を繰り返したけれど、夫は皆早死にしてしまう。それは、私が精を吸い尽くしてしまうのか、人魚の鱗の呪いなのか……。800年たって、私は人と同じに生きることをようやくあきらめることができた。悟りを開いたわけではなかった。……私は人を避け、拒んで生きた。そんな私がここに戻って学園を創ったのは、結局、人と交わっていたかったからだと思う。運命に逆らってみた、ということ……。天は、運命に従わなかった私から、学園長を奪った。彼女で5人目になる……」


 七恵が嗚咽した。1500年もの時を経て、氷のように固まった感情が、愛してくれた学園長の死によって溶けて動き出したように見えた。


「七恵さんはもう許されているはずだ。その証拠に、僕はこうして再生しているじゃないか」


「歩の魂が、アユムのものだと……?」


「僕はあの時代に行ったからわかる。そこで君は多くの人に愛されていた。僕も愛していた。……そうして僕が裏切った。人魚の誘いに乗って。……悪いのは僕だ」


 歩は心底そう思った。


「私は愛を信じない。それは欲をきれいな言葉に言い換えたものだもの。自分の欲望のために愛した人を傷つける人を、私は沢山見てきた」


 七恵の心が、再び扉を閉じようとしていた。


 歩は詩織が河原で言ったことを思い出す。「七恵は愛する力さえ失っていた」と……。愛を信じない者が他人を愛せるはずがない。……でも、愛されることなら、どうだろう?


「七恵さんは誤解している。愛を信じられないことが、本当の人魚の呪いなのかもしれないよ。学園長が人魚の鱗を持ち出したのは、君の呪いを解くためだった。それは完璧ではなかったけれど、七恵さんの運命を変えると思う……」


 話しながら、七恵と学園長の絆の強さを改めて理解した。2人の関係に比べたら、自分と七恵の関係は10日程度の浅いものだ。しかし、自分の魂が1500年前に七恵が殺した夫のものだとしたら……。そう考えると、背筋に戦慄せんりつが走った。


「……」七恵の瞳は虚ろだった。


「学園長は、七恵さんから何も奪わなかった。そして、自分の命をかけた。七恵さんのために。……それは純粋な愛だよね?」


 七恵の頬を濡らす涙を、指でぬぐった。


「ボ、……私だって、七恵さんを愛している」


「ウソ……」


「ウソじゃない」


「あなたは、私と詩織の両方を好きだと言った」


「……ごめん」


 1500年前のアユムと同じことをした自分の愚かさを痛感した。


 七恵の瞳から流れる涙が止まらない。1500年分のものが一度に流れ出しているように見えた。それが切なくなって、歩はおかっぱ頭を胸に抱きしめた。胸の中の嗚咽おえつは、歩の胸を押しつぶしてしまいそうだった。


「謝らないで。たとえ嘘でも、あなたの気持ちは嬉しかった」


「それなら……」


「聞いて……」七恵が歩の言葉をさえぎる。「……詩織も同じはず。私が呪われているように、詩織も呪われている。私と同じようにあなたに愛されたかった」


「詩織さんが呪われているって?」


「彼女は私と違って生き死にを繰り返しているけれど、……何度生まれ変わっても私に執着している。復讐ふくしゅうにとらわれた魂は哀れ……」


 彼女は泣きながら言った。


 七恵はどんな気持ちで人魚の魂を憐れんでいるのだろう?……想像すると、心が大きく揺れた。


「他人を呪うということは、自分をも呪うということなのかもしれないね」


「私から大切なものを奪うのが彼女の目的。今は、歩を自分のものにすることが彼女の一番の幸せ」


「それは七恵さんが僕を大切に思っているということだよね?」


「私は学園長に愛された。それだけで十分……。歩は詩織を愛してあげなさい。今、彼女を救えるのはあなただけだから」


「彼女には愛してくれる家族や友達がいる」


「詩織の家族や友達が愛しているのは人間の詩織であって、私が殺した人魚の魂ではない。彼女を愛せるのは、6000分の1のあなただけ」


 七恵が、人魚が男性と交わる可能性の数値を言った。


「七恵さんを愛しているから、それはできない。……それを、……そんなのは不誠実だと思わないか?」


 歩は言った後に考えた。彼女に伝えたのは素直な感情ではなく、七恵と詩織の両方を好きだと言ったやましさを誤魔化すものだと。しかし、あまりにも遅すぎる自覚だった。


 突然、七恵が歩の腕を振りほどいて立ち上がった。すると、ねるようにして自分の机の上から聖書を手にして戻ってくる。その機敏な姿は、いつもの七恵ではなかった。


 歩は呆然と彼女を見ていた。彼女は歩の前に立つと聖書を振りあげた。その様子は、逢隈川の河原で槍を振りかざした1500年前の七恵、そのものだった。


「何度も言わせないで。あなたは、私と詩織の両方を好きだと言った。私にはそれだけで十分。彼女にかけられた呪いを解いてあげなさい」


 涙をまとったラテン語の聖書を頭にたたき付けられ、歩は意識を失った。


 七恵はベッドの上に伸びた歩を、じっと見下ろしていた。やがて何かを思い出したように動き出し、歩の身体にすがった。


「ぅあぁーーー」


 七恵の慟哭どうこくで小さな部屋が揺れた。


※   ※   ※


 歩の鼻腔びこうを、すすけた煙の臭いがくすぐった。掘っ立て小屋の中央に掘られた炉には、まだ赤い火がある。


 歩は、自分が何故ここにいるのか、という漠とした疑問を感じながら炉に薪を足し、鹿の毛皮の寝床に戻った。そこには詩織が寝ていた。安らかな表情をしていた。


※   ※   ※


 その日の夕方、学園長を探していた隈川が、朋恵の変わり果てた姿を天狗の森で発見した。完全にこと切れていて、蘇生などは不可能な状態だと医学の知識のない彼にもよくわかった。消防ではなく、警察へ連絡を入れた。


「警察が捜索してくれたら、学園長は死なずに済んだかもしれないのですよ」


 隈川は検死にあたる警察官たちに恨み言を言った。


 朋恵の遺体に外傷はなく、体内の水分を失った遺体は即身仏そのものだった。拝んでいたと思われる大日如来像の前には鱗型に灰が残り、所持品は筆記用具と理事長あての手紙だけ。


 手紙をその場で読んだ隈川が顔色を変えた。


「玉は……赤い玉と白い玉はありませんでしたか? 大切なものなのです」


 隈川は、目の前の警察官につかみかかった。


「そんなものはありませんでしたよ」


 警察官たちが首を振る。


「そんなはずはない。手紙に書いてある」


「第一発見者は、あなたですよ」


 警察官に指摘され、手の力を緩めた。


 隈川は、気がふれたようになって大日如来の周囲を探した。警察官たちが引き上げ、陽が落ちて手元が見え無くなるまで探し続けたが、結局、玉は一つも見つからなかった。


 松の木の枝でカァーと、カラスが鳴く。


「あいつらに持っていかれたのか……。学園長の努力は無に帰した」


 カラスの背後の空が失望の色をしていた。

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