第26話 天狗の森と日の巫女
かつて、朋恵が人魚の呪いを解く方法を研究するために涅槃山に登ったのは、3年前の雪のある時期だった。古文書の中に、修験者が村にかけられた呪いを解くために、大日如来に祈って宇宙の再構成に成功したという記載をみつけたからだ。
同じ理屈で人魚の呪いも解けるかもしれないと考え、かつて修験者たちが修行して回った山の社や
巫女は朝日のような明るい瞳を持った少女で、雪景色に
「あなたの悩みは、水の神の怒りによるものでしょう。神々との縁を結び、天狗の森の大日如来に祈念すれば、もつれた糸を解くことができるかもしれません。その時には、及ばずながら私もお手伝いいたしましょう」
巫女は一方的に話すと、報酬を要求するわけでも連絡先を告げるわけでもなく、飛ぶようにして葉山の方角に消えてしまった。そんな巫女の言うことだから、朋恵はその言葉を信じた。
天狗の森には、所々に自然石を刻んだ仏像がある。かつて天狗の森で修業した修験者たちが心血を注いで彫り上げたもので、一つとして同じものはない。
天狗の森に足を運んだ朋恵が最初に見た石像は
五つ目に確認した石像、それが大日如来像だった。頭に
朋恵は、人魚の呪いの消滅を
日の巫女の示唆を得たその日から、水の神々の伝説を調べなおして呪いを解く方法を探した。そうして考え出した方法は、人魚の魂が
確実に呪いが解けるという確信はなかったが、何事もやってみなければ始まらない。だめならもう一度やり直してみるだけだ、と腹をくくった。
学園長である朋恵が人魚の鱗を持ち出すのは簡単なことだったが、閉めたはずの防火扉が開いていたために持ち出したことが公になった。魔法を使ってミスの原因を探るのは難しい事ではなかったが、それを知ったところで益は少ない。それよりも、時間と体力を温存することを選び、扉を開く旅に出た。
スクナビコナ神の助力があって扉を開けることに成功した。最後は大日如来に宇宙のゆがみを正してもらうため、市内のいくつかの寺をまわって大日如来を拝む僧侶を探した。1人で念を送り続けるには力が足りないことを自覚していたからだ。しかし、人魚の呪いなど信じる僧侶はなく、協力を得ることができなかった。
白玉を光らせる期限は次の新月までで、四月には入学式や会計報告などの行事もある。残された時間は少ない。儀式が上手くいったとしても、白玉の対である赤玉を持つべき相手、それは人魚の化身だということだが、その相手を探す時間も必要だ。
朋恵は日の宮の巫女の言葉を心の支えに、ひとりで山に登る決意を固めた。それが数日前のことだった。
出かける間際に
歩に魔法をかけて学園を抜け出したあとは、白装束に着替えて石段を登り山頂の日の宮を目指した。最初に日の宮を訪ねたのは、儀式を始めることを居場所のわからない日の巫女に知らせるためだ。儀式を始める旨を記載した
日の宮へ向かう参道入り口は石段になっていて、一段一段毎に地蔵尊が立って列をなしている。中には首のない地蔵尊もあって、日が落ちてから歩くのは恐ろしい場所だ。石段は百段ほどで終わり、そこから足元の悪い坂道を上ると天狗の森に至る小道の分岐点にぶつかる。
朋恵は分岐点で一息つくと、さらに上を目指した。日の宮の祠は更に険しい坂の上にある。
日の宮に着いたのは昼で、太陽は天頂にあった。小さな祠の前に起請文と
伸びた笹をかき分けて、1月に拝んだ大日如来像を探した。三体めに見たのがそれだった。像の前の笹を踏み倒して小さな空地をつくり、人魚の鱗とトヨタマヒメ神から授かった二つの玉を並べた。
赤玉はほんのりと光を放っているが、白玉に光はない。
「スクナビコナ様、お願いいたします」
声をかけると、髪の中でくつろいでいたスクナビコナ神が「よっしゃ」と、神らしからぬ、庶民的な返事をした。
朋恵は祈りはじめる。スクナビコナ神が唱える呪文を追って声にするのだ。その声に宿る霊力はわずかだったが、儀式が始まったと知った日の巫女が、そう遠くない笹やぶの中で霊力を送り、朋恵の力を増幅してくれた。
昼は大日如来の前で祈りをささげ、夜は人目を避けて山を下り、丑三つ時を待って祓川で身を清める。雪解け水は刃物で刺すような痛みを朋恵に与えた。
過酷な
「やめるなら今だぞ」
祈り始めて6日目の夜。赤玉のほのかな明かりを頼りに、禊のために山を下りる朋恵にスクナビコナ神が声をかけた。日々衰弱するのを案じたのだ。スクナビコナ神は、知恵を与えることはできても命そのものを与えることはできない。
「私は止めません。最後まで、お導きください」
朋恵にためらいはなかった。
「たったひとりの娘のために、なぜそこまでする?」
「可愛い生徒だからです」
「生徒とはいえ、お前さんより年寄りだろう」
「いいえ。彼女の時間は1500年前で止まっているのです。だから私より若いのです。それなのに、彼女の感情は徐々に衰えている。私は禁を犯して七恵さんの未来を占ったことがあります。最初は百年後を、次に千年後を。……不老不死の七恵さんに死はなかった。そして一万年後、十万年後、百万年後。……人類が絶滅した後も、彼女はひとりで生き続けていました。荒れ果てた荒野で、時には
「そうか……」
「ですから、最後まで力を貸してください」
「うむ」
それっきり、スクナビコナ神は意見をしなくなった。
スクナビコナ神の予想に反して、儀式を始めて7日が過ぎても白い玉は輝かなかった。
「頑かたくなよのう。まだ力が及ばぬようじゃ」
スクナビコナ神がいう。
「あと1日、2日。私なら大丈夫です」
体力は尽きかけていたが、その晩も丑三つ時になると川に入って禊を行った。すでに雪解け水に凍える感覚も、震える力もなかった。
川から天狗の森まで登るのには、元気な大人でも2時間ほどかかる。長い山ごもりで体力を失ったのり子は4時間を要した。
登りきったころ、東の峰に朝日が顔を出すのだが、その日は霧が深かった。
「さあ、あと一息じゃ」
スクナビコナが励ます。
朋恵は深く礼をし、手を合わせて一心不乱に念じる。呪文は身に付き、スクナビコナ神の口添えを得る必要はなくなっていた。
口から流れ出る呪文は、ミルク色の霧の中で緑色の輝きを帯びた。その光は命そのものだ。同じように、石の大日如来の唇からも光がこぼれた。
朋恵と大日如来が紡ぎだす光は一体となって人魚の鱗を包み、じわりじわりと焼いていた。
鱗は黒く変色し、終いに白い灰に変わった。朋恵は自分の命を注ぎ込み、その霊力で鱗を焼いたのだ。
人魚の鱗が灰になると、白い玉がほんのりと光を帯びた。
「やったのう……」
スクナビコナ神の声が感動に震えている。
小さくうなずいた朋恵は、行の間中携えていた一枚の和紙を懐から取り出し、最後の力を振り絞って式神を呼んだ。七恵に白い玉の使い方を伝えるためだ。
しかし、彼女には、もはや式神をコントロールする力がなかった。日の巫女がそれに気づき、朋恵の前に立った。
「では、私がまいりましょう」
彼女は自ら式神となることを買って出た。地面に倒れた朋恵の唇から漏れた言葉を授かると、ふわりと飛んで聖オーヴァル学園に向かった。
朋恵は、まるで自分が人間ではない何者かになったように感じていた。日の巫女と同じようにふわりと宙に浮き、自分の肉体と遠ざかる日の巫女の背中を、テレビでも視るように見ていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます