第25話 愛するということ

 職員室で訴えが受け入れられなかった七恵は、くるりと踵を返して職員室を出た。


 教員は当てにならない。一番あてになる学園長はいない。次に頼れるのは隈川理事長だが、普段は学園内にいないからどうしようもない。こんなことならスマホを持つべきだった。……公開を胸に、事務長の紅子の元に向かった。


 紅子は受話器を片手に難しい顔をしていた。


「七恵さん、そこで待っていて」


 彼女が事務机の前にあるパイプ椅子を指した。


「学園長は……涅槃山……はい、私の方から警察に……はい、そうします。では……」


 紅子は受話器を置くと、カバンとスプリングコートを手にした。


「七恵さんごめんなさい。警察に行かなくちゃならないのよ。用件は後で聞くわ」


 彼女が事務室を出ようとするのを、七恵はコート端をつかんで離さなかった。


「鳴門アユミさんが行方不明です」


「なんですって!」


 事務長の職にある紅子は、自分の使命に忠実だった。声を上げると、歩と七恵の暮らす部屋に足を運び、ベッドとバスルームとトイレに誰もいないことを確認してから、保護者である玉麗のもとに電話を入れて歩が家に帰っていないことを確認した。


「鳴門さんの友達って、七恵さんの他にいるの?」


 尋ねられた七恵は、頭を左右に振った。詩織と話をしていることは知っているが、七恵の基準では、詩織は歩の友達ではなかった。


「あのう……」


 紅子の背後に立っていた朱里が小さな声を上げ、紅子のジャケットの背中を引いた。ずっと紅子と七恵の後をついて回っていたのだが、気づいてもらえなかったのだ。


「もしかしたらですが、確信はないのですが、想像なのですが……」


「はっきりお言いなさい」


 紅子は小学生と向かい合うように腰をかがめて催促した。


「詩織さんのところにいるのではないでしょうか?」


「あら、どうして?」


「一昨日、そこに入るところを見たものですから」


「そう、ありがとう」


 紅子は朱里の手を握ると、脱兎のごとく走り出した。その後を七恵は追った。


 朱里の案内で4階の詩織の部屋にたどり着くと、紅子は形式的にノックをし、返事を待たずにドアを開けた。学園のマナーとしては失格だが緊急事態だからやむを得ない。


「失礼しますよ」


 彼女が室内にいるかもしれない誰かにむかって声をかけた。


「なんてこと!」


 彼女の声が裏返った。七恵は、紅子の腰のわきに頭を突っ込んで室内を覗いた。


 一つのベッドの中に、歩と詩織が並んでいた。歩は眠っているが、詩織は目覚めていて、歩にピッタリと身体を寄せている。


 2人はいかがわしいことをしているわけではなかったが、紅子の頭の中では違ったようだ。すでに行われたかもしれない、あんなことや、こんなこと、といった行為のイメージが嵐のように渦巻いているのだろう。身体が硬直していた。


 彼女が保護者に向かって詫びる言葉を考えているうちに、七恵は横をすり抜けて室内に入った。そうして歩のもとに駆けよろうとすると、目の前にレースがふんだんにあしらわれたパジャマ姿の詩織が立ちはだかった


「どいて」


 小さな七恵は詩織の胸を押した。


「私のお姉さまに触れないで」


 詩織が七恵の肩を押し返す。


「お姉さまを返してもらいます」


「不潔な手を出さないで」


 ベットに近づこうとする七恵の頭を、詩織が上から抑え込んだ。


 表情にこそ出ないが、七恵は怒っていた。詩織が大切な物を奪おうとしているからだ。


「どいて」


「あなたこそ、出て行って!」


 2人の小競合いは、小さな妖気の渦を生み出していた。


 ズン!……正気を取り戻し、ついでに苛立った紅子が部屋に踏み込む。


「喧嘩なら外でやりなさい!」


 その声は雷も同じだった。七恵と詩織の戦いに紅子の爆発的な怒りのエネルギーが加わると、室内が高エネルギーのプラズマで青く輝いた。核物理学者なら、それを核分裂時に発生すると考えただろう。七恵と詩織という原子核がぶつかり合って分裂したのに違いない、と……。哲学者は言うかもしれない。それが嫉妬の持つ醜い力だ、と……。


 哲学者の言葉はともかく、プラズマが時空をゆがめ、世界を青から無色に変えた。刹那、詩織と七恵の姿が部屋からかき消えた。ベッドの中の歩も、陽子と共にある中性子のように消えている。


 部屋に残された紅子と朱里は、しばらくの間キョトンとしていたが、気を取り直して空っぽになった室内を捜索した。ベッドの下にもクローゼットの中にも、3人が隠れている形跡はなかった。


※   ※   ※


 瞬間移動に驚いたのは詩織と七恵も同じだったが、目の前で風船が破裂した程度の驚きだった。彼女らが、理屈の通らない経験をするのは初めてではなかった。


 七恵と詩織は逢隈川おうくまがわの河原にいた。歩は詩織の足もとに転がっていた。


 人間の複雑な感情のもつれは、しばしば自身の意図しない結果を生み出す。そんな時に大切なのは、発生した現象の原因や理由を知ることではなく、理解できない現実に立ち向かい、乗り越える行動だ。原因や理由を知るのは、そのための手段に過ぎない。


「いったい何があったんだ?」


 河原の石で頭を打った歩は目を覚まし、取れかかったウイッグを慌てて元に戻した。もしや、と思って自分の身なりを確認する。制服を着ていたのでほっとした。


「あなたは、昔の七恵にあって来たのよ。わかったでしょう。七恵の正体」


 ゴージャスなパジャマ姿の詩織が歩を抱きしめた。


 歩は眼を瞬かせた。


「君は僕の妻だったのか?」


 思わず口調が男子に戻っていた。


「だまされないでね。お姉さま」


 七恵の忠告は相変わらず事務的な調子だったが、歩を女性に戻した。


「七恵こそ、お姉さまをだましている」


 3人の過去をめぐって、再び言い争いが始まった。


 の問題は、どこの誰にとっても難しいものだ。個人や社会なりの言い分や理屈がある。


 七恵と詩織の争いを止めたのは、歩の一言だった。


「詩織さんは、鏡を使って私をだましたわ」


 七恵に味方するつもりはない。が、ひとつの嘘は、多くの真実を疑わせるのに十分だった。


「そのことは謝ります。お姉さまに私の方を振り向いてほしかったから。でも、あなたが見てきた過去は本物だったでしょ?」


 歩を抱きしめる詩織の身体が熱を帯びた。


「詩織さんに見せられた過去も、学園長に見せられた過去も良く似ていた。どちらも本当のことのように感じた。……どちらの過去が本物か、私には区別できない。……それよりも、パジャマのままでは詩織さんが風邪をひいてしまう。学園に帰りましょう」


 ベストの選択を提案したつもりだった。


「そんなことだから、こんな女にだまされるのよ」


 七恵と詩織の声が綺麗にハモッた。詩織は七恵を、七恵は詩織を指差している。


「ごめんなさい」


 歩の謝罪は反射的なものだった。


「帰りたくない……」


 立とうとする歩を、詩織はそう言って困らせた。


「まだわからないの? 今の詩織は、私が殺した人魚の悪霊なのよ」


 七恵が断じた。


「私は悪霊なんかじゃない。れっきとした肉体を持っている。老い、朽ち果てる肉体を。あなたとは違うのよ」


「それは可哀そうに。人魚の鱗を進呈するわ」


 珍しく、七恵の言葉に感情があった。


 ――クゥアー……、河原のカラスが笑う。


「詩織さんが、人魚の悪霊って、どういうこと?」


 歩は七恵に訊いた。答えたのは詩織の方だった。


「覚えていないの? 私とあなたは、この七恵に殺されたのよ。私はトヨタマヒメの国に帰ることができず、1500年もの間、何度も生まれ変わりながら、七恵を追って旅してきた。復讐を果たさないと、私はトヨタマヒメの国へ帰れないの」


 詩織の唇を使って人魚の魂が訴える。


「そうか、それは辛かったね」


 歩は心から同情した。


「本性を現したわね。聞いたでしょ、お姉さま。詩織は人間であって人間でない。魂は人魚なのよ」


 ――グッ……、詩織ののどが鳴る。


「どれだけ呪ったか……。のうのうと生きている七恵が許せなかった。そうしてようやく七恵を見つけたの。六年前の学園祭でのことよ。……嬉しかった。必ずこの女に代償を払わせてやると誓った。私は学園に入学してこの女を調べた。この女の大切なものを奪うためにね」


 詩織が歩の胸の中に顔をうずめた。救いを求めるようだった。


「そういうことか……。人魚の詩織さんは、呪いをかけたことで七恵さんを不死の身体にし、命を奪うチャンスを自ら失ったんだね」


 歩は、詩織に復讐をあきらめさせたくて言った。しかし、彼女の反応は予想外だった。


「私が馬鹿だと言うの?……勘違いしないで。私がこの世に止まっているのは、自分が殺された復讐をするためじゃない。大切な男を奪ったことに対する復讐をするためよ。私の復讐は、七恵の命を奪うことじゃない。七恵の大切なものを奪うことなのよ」


「それが人魚の鱗だったのか……」


「違うわ。鱗なんて、七恵にとってはどうでもいいもの。そうでしょ?」


 詩織が七恵に視線を向けた。七恵はいつもの感情のない顔をしていた。


「……出会った時、七恵は空っぽだった。大切なものを持たないどころか、愛する力さえ失っていた。生きる意思もなくした人形だったのよ」


「七恵さんは本を愛しているよ」


 詩織に言われっぱなしの七恵に同情して教えた。


「あの女は、哀れな自分を癒すために本を好んだだけなのよ……」詩織が指差した。「……それともう一つ。人魚の鱗を守ることが使命だと思い込んだ。知識で1500年の空白を埋め、自分の不幸の意味を鱗に求めた」


 詩織の激しく振動する感情に歩は戸惑い、七恵はポストのように立ちすくんでいる。


「それで、私は待ったの。この女が大切なものを見つける時を」


「それで何が見つかったと言うんだ?」


「あなたよ」


「僕?」


「驚いたわよ。1500年前、七恵が私から奪ったあなたが、私たちの目の前に現れたのだから」


 歩が痛みを感じるほど、詩織の腕に力がこもっていた。


「私はあなたを愛した」


 詩織が言うと、七恵も口を開いた。


「私もあなたを愛した」


 女性に初めて、しかも2人から告白されるなど奇跡だった。歩は躍りたいほど嬉しかったが、困惑もしていた。……どちらも選べない。


「お姉さまに決めてもらいましょう」


 詩織が提案した。


「何を?」


 歩はとぼけた。逃げたかった。どんなドラマや映画でも、こんな選択肢が持ち出されるときは、男性の悲劇の始まりと決まっている。


「私と七恵の、どちらを選ぶのか」


「歩さんが選んだ方が勝者」


「待ってよ。そう言うことで勝ち負けをつけるってよくないと思うな」


 歩は、必死で逃げ道を探した。


「正直に言いなさい。私と七恵のどちらを選ぶ?」


 七恵と詩織の視線に挟まれて、歩は退路を断たれた。


「ぼ、僕は、2人とも好きだよ」


 ――クゥアー、クゥアー……、カラスの群れが笑いながら歩たちの頭上を旋回する。


 七恵が唇の端をひくひくさせ、詩織が苦悶の表情を作った。


「頭が痛い……」


 詩織が頭を両手ではさんだ。歩の気を引くための演技かと思われたが違った。彼女は身体を縮めて意識を失った。


「詩織さん、大丈夫か?」


 胸の中で意識を失った詩織の肩を揺さぶる。その身体はすっかり冷えていた。


「身体が冷え切っている。寮に連れて帰ろう」


 歩は詩織を抱きかかえ、道路を目指してよろよろと歩いた。腕力は少女並みだ。


 堤防の土手を上ったところで、腕が痺しびれ始める。身体を鍛えておけばよかったと後悔した。そうして膝が崩れかけた時、詩織がうつろな目を開けた。


「ここは?」


「逢隈川の土手よ」


 ほっとして詩織を下ろす。体力の限界だった。


「何故、こんなところに?」


「忘れたの?」


 一難去ってまた一難。……歩は困惑する。詩織が記憶喪失に陥ったのか、あるいは霊異のつきものが落ちただけなのか……。いずれにしても、状況が変わった。


「何も覚えていない……」


 詩織が両手で顔を覆う。


「私のことも?」


「お姉さまのことを忘れるはずはないじゃないですか」


「七恵さんのことは?」


「中等部の生徒ね。考えると頭が痛い……」


 こめかみを押さえる。


「悪霊が去ったのかしら?」


「さあ?」


 考える歩を無視するように、表情のない七恵が追い越した。


 その時、3人の目の前で1台のタクシーが停まった。乗っていたのは機嫌の悪い紅子だった。彼女は涅槃山にこもる学園長の捜索願を出しに行った帰りだった。せっかく警察に行ったものの、自分の意思で山にいるのは事件ではない、と断られたのだ。


 3人はタクシーに乗った。


「でも学園長の居所がわかって良かったです」


 助手席に座った歩は、後部座席の紅子に声をかけ、その隣の七恵の顔に眼をやった。相変わらず表情ははっきりしないが、学園長が涅槃山にいるとわかってホッとしているように見えた。


 歩も同じだった。後は彼女を捜しに行って、月末までに人魚の鱗をあの金庫に戻せば目的を達成したことになる。ぎりぎりセーフだ。


「で、どうやって部屋を抜け出したのです?」


 学園に戻ると紅子が訊いた。


 3人は学園から移動した方法を知らない。どれだけ、どのように問い詰められても答えようになかった。


「記憶にございません」


 政治家のように答えると、その言い方が再び紅子の逆鱗げきりんに触れて、長い説教を受けるはめになった。3人は、紅子が疲れるのを待った。


 長い説教から解放されて部屋に戻った歩は、七恵と詩織の因縁を訊いた。おおよそのことは河原での会話でわかったが、2人の誤解を解くために整理しておく必要があると思った。


 七恵は、人魚が姿と名を変えて度々七恵の前に現れていたと言う。それほど恨みの深い人魚だったが、人間に宿っていても人魚の意識が芽生えることは稀だったし、人間の身体には特殊な力がないから、人魚の魂が七恵にできることはほとんど何もなかった、と説明した。


「今だって私を仲間はずれにしたり、お姉さまにちょっかいをかけたりするだけです。放っておけば彼女は年を取り、私の前から消えてしまうのです」


 七恵が「消えてしまう」と言ったのが、歩は自分のことを言われたような気がした。


「詩織さんが変わったのは、人魚の意識が消えたからね。何故かしら?」


「お姉さまが2人を好きだと言ったからだと思います。お姉さまを信じていた詩織さんにとっては、嫌いだと言われたのも同じでした。とても衝撃だったのでしょう」


「そ、そんな……、七恵さんも同じように感じたの?」


「私は愛を信じていないから」


 七恵は視線を足元に落とした。


「えっ、私を愛していると言ったでしょ?」


「2人をからかってみたのです」


 そう言ったあと、七恵は仕切りのカーテンを引いて隠れた。カーテン越しに声をかけても、その言葉に応じることはなかった。

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