第24話 3月の幽霊

 涅槃山ねはんやまの北の裾野すその、新興住宅地のさかいを示すように走る清らかな流れがあった。祓川はらいがわという名から、昔は神事に使われていた川だとわかるが、新興住宅地にそれを知る住人はいない。古い農家の住民でさえ、かつて神事があったことを忘れている。


 普段の祓川は子供が歩いて渡れるほどの水量しかない。そんな川も、田植えが近づくころには西の山脈の雪解け水で水嵩みずかさが増す。まさに天の恵みだ。3月は本格的な雪解けにはまだ早く、流れはふくらはぎ程度の深さしかなかった。


 その川に夜な夜な幽霊が出ると、周辺の住民たちの中でうわさが広がった。送別会で帰宅が深夜になったサラリーマンが、流れの中ほどに乙女の幽霊がふわふわ浮いているのを見たというのだ。その翌晩、別のサラリーマンも幽霊を見たが、それは白衣姿の老婆だった。


 新興住宅地の主婦の間で、幽霊が乙女なのか老婆なのかと議論になり、それなら確かめてやろうという勇気ある若者が現れた。


 春といっても夜はまだ寒い。時は丑三うしみつ時。つまり幽霊の出やすい深夜2時頃。若者は防寒対策を万全にして、土手の上を行き来して幽霊を探した。手には夜間でも撮影可能な20倍望遠のデジタルカメラがある。


 若者の身体は凍えた。最初は熱いコーヒーを持ってくれば良かったと後悔した。ほどなくコタツと酒を思い浮かべて帰ろうと決めた。


 その時だ。川向こうの山裾の茂みがほんのり明るくなった。はっきりしないが、灯りは火が燃えるような赤いものに思えた。


 彼は眼を細め、灯りを追う。それは茂みの中を滑るように移動していた。若者の喉がゴクンと鳴ったが、彼自身はそれに気づかなかった。ついさっきまで彼を困らせていた寒さも忘れていた。


 ゆらゆらと揺れていた灯りが突然消える。


「エッ……」失望が若者の唇を震わせた。闇が時を駆ける。


 灯りは何物でもなかったのだろう。……青年は帰宅しようと思った。


 その時、草木を分けて白い影が現れた。何故か白衣が、ほんのりと赤い灯りをはなっている。うわさ通りの幽霊だった。骸骨のように細身で影がない……。


 幽霊の頭が左右に動いた。まるで周囲をうかがっているようだ。


 若者は悲鳴を上げないように自分の口を手で押さえ、〖チカン注意!〗と書かれた看板の陰に隠れた。そうしてから幽霊を見失うまいと気力を振り絞り、急ぎ、動画モードのカメラを構えた。幽霊が消えたら元も子もない。


 幽霊がふわふわとその身を揺らして土手を下りた。そのまま祓川に入ると流れの中ほどに移動する。まるで水の中に沈んでいくように見えた。


 青年は念のために静止画モードでシャッターを切った。動画よりは鮮明に映るはずだ。


 幽霊はいつまでも消えなかった。よく見ると、川に座り込み、水をすくって浴びている。


 水を浴びるのは幽霊ではない。彼は確信した。そうして頭に浮かぶのは、河童、もしくはそれに類する妖怪だった。


 彼はカメラを動画モードに切り替えた。


 彼の知識には、川に住む河童という妖怪はいても、他に水を浴びる妖怪はいない。自分が録画しているものは幽霊でも妖怪でもないのではないか?……そう疑った。


 これで有名人だ。……若者はほくそ笑んだ。


〝謎の幽霊の秘密に迫る〟……頭に浮かんだのは動画のタイトルだった。水を浴びているのが幽霊であれ妖怪であれ、あるいは人間であれ、この動画を動画サイトにアップすれば、アクセス数は数万にのぼるだろう。幽霊が本物かどうかは関係ない。たとえ偽物でも、情報が刺激的でさえあればいいのだから……。


 妄想を膨らませている間に幽霊は背中を見せ、川面を滑るように、そそと向こう岸に戻っていく。


「アッ……」


 若者は見た。幽霊が川面を離れるとき、着物の裾には白い足があった。


 止まれ!……レンズを向け、心の中で叫んだ。簡単に消えられては動画が物足りなくなる。


 願いが通じたのか、幽霊は土手の下で止まった。実際は、静かに移動していたのだが、それが亀がはうようなスピードで、彼には止まって見えた。


 やがて土手を上りきった幽霊は勢いを取り戻し、身体を揺らしながらやって来た茂みの中へ消えた。


 若者は川向こうに渡り、茂みに入ることを考えた。その先には住まいのようなものはないはずだ。幽霊か妖怪の住処がわかれば、動画の価値はさらに高まるだろう。


 ――クシュン――


 突然、くしゃみが飛び出す。それで身体がかじかんでいるのに気づいた。


 風邪をひきそうだ。明日も仕事だし。藪に足を踏み入れて、幽霊に憑りつかれるのも怖いしな。……若者は妥協した。


「サブー」


 小声で自分を励まし、家路についた。 


 自宅へ戻り、エアコンのスイッチを入れることも忘れてパソコンを立ち上げた。よくある心霊現象なら、幽霊が写っていない可能性もある。が、祓川の幽霊は奇特きとくにもしっかりと映っていた。


「クソッ! わかんねえじゃないか……」


 若者は今しがたまでの恐怖も忘れて汚い言葉をはいた。幽霊の顔が鮮明に映っていないために、それが乙女なのか老婆なのか、判別できなかった。そういう意味では、計画は失敗だったが、祓川の幽霊に足があることを暴いたという点では、特ダネ映像といえた。


 彼は酒をあおって身体を温めながら、動画サイトに〝祓川の幽霊の秘密に迫る〟とタイトルをつけてアップした。アルコールが全身を巡り、肉体も気持ちも高揚していた。


「ヨッシ!」


 彼は満足し、床にもぐりこむと深い眠りをむさぼった。


※   ※   ※


 聖オーヴァル学園高等部で一番身長の低い朱里が、パタパタと廊下を走っていた。


「おはよう、朱里。廊下を走っちゃだめよ」


 友達は口々に注意をしたが、朱里は止まらない。そうする理由があったし、教師にとがめられても言い返す自信があった。同じ自信が職員室のドアをノックさせた。


「学園長の姿が、動画サイトにありました!」


 ドアを開けた朱里は、誰にということではなく職員室という空間に向かって叫んだ。


「何ですって!」


 職員室がどよめいた。


「これです」


 張りつめた空気の職員室、パソコンで〝祓川の幽霊の秘密に迫る〟の動画を開く。教員たちは場所を奪い合うようにして、モニターを見つめた。


 それは暗闇の中、白衣姿の幽霊が土手を下りる様子から始まっていた。幽霊の姿はぼんやりとした赤い光に守られているように見える。


 流れの中ほどに達した幽霊は屈みこんだ。


「禊かしら?」


 一人の教師が口にしたように、流れに腰までつかり、両手で水を汲んで頭から浴びるのは禊に見えた。


 やがて幽霊は立ち上がり、流れを元来た方向へ帰っていく。土手を上る足取りに力がない。


 教員たちはその映像に息をのんだ。


「足があるから幽霊じゃないわね」


 空気の読めない教員がボソッと言った。


 映像が暗く解像度も低いために顔ははっきりしないが、その体型や動作は学園長に違いない、と教員たちは確信した。


 教員のひとりが事務長に連絡し、事務長は理事長に報告すると応じた。


「とりあえず、無事なようで安心したわ」「それにしてもこの時期に禊なんて……」「秡川のどの辺りかしら?」


 教員たちは、口々に同じ感想を言った。


「よく見つけてくれたわね。朱里さん」


 モニターから朱里に目を移した教員が自分の眼をこすった。朱里の姿がふたつに見えたからだ。よく見れば、ひとりは中等部の制服を着ている。


「あら、七恵さんね」


 朱里の隣に、ぬぼっと立っていたのは七恵だった。


「一昨日から鳴門アユミさんがいません」


 七恵がぶっきらぼうに言った。


「鳴門歩って、大学生でしょ? 春休みだし……」


 教員の言葉には、大学生なら無断外泊の可能性があるという含みがあった。だから放っておけ、というようだ。


 七恵が硬直した。

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