第19話 過去と現在の狭間

 毎朝8時には事務所に顔を出す学園長が姿を見せないので、事務長の紅子は学園長室を訪ねた。部屋の鍵は開いていた。朋恵の姿はなかったが、ソファーに鳴門歩の姿があった。死んだように眠っている。


「鳴門アユミさん!」


 声をかけられて、歩は目覚めた。頭が鉛を詰められたように重かった。


「ここは?」


 自分を見下ろす紅子の顔をぼんやりと見あげる。


「どうしたのですか? 学園長室ですよ。こんなところで寝るなんて、どういうことです?」


 声に怒気を感じた。歩は身体を起こした。肉体に痛みはなかった。


 頭が冴えてくると、赤い月が蘇る。七恵との新婚生活。人魚との交わり……。そうした記憶がどんなにリアルでも、22年間の経験に支えられた常識が記憶を拒んだ。現代人としての理性が記憶を否定した。


「よくわかりません……」


 皮肉なことに、七恵が生き生きと笑ったり怒ったりした様子が、過去の出来事を否定する根拠になっていた。


「なんですって? ふざけているの?」


 紅子は納得しなかった。


「あ……」七恵と人魚に会う前の記憶がポッと浮かぶ。「……学園長に魔法をかけられたのです」


「学園長が魔法を?……学園長は、みだりにそんなことをする人ではありませんが」


「私がお願いしたのです」


「どんな魔法ですか?」


「過去を見せてもらいました。青銅器と鉄器が混じった時代でした」


「どうして、そんなところに?」


「それは……」


 話していいものか迷った。七恵と親しいのは学園長と理事長だと詩織が話していたからだ。事務長は七恵の親しい人間に入っていない。それで心が決まった。


「事務長はなぜここに?」


 話をはぐらかして、周囲を見回す。室内におかしな様子はなかった。学園長は自分ひとりを置いてどこへ行ったのだ。


「今朝は、学園長がお見えになっていないのです」


「今朝? 今日は何日ですか?」


「3月22日ですよ」


 紅子が不思議そうな顔をした。


「そうですか。私、丸一日近く寝ていたようです」


「それで……」


 彼女の顔が不快なものを感じたものに変わっていた。口をアワアワさせ、ハンカチを鼻に当てた。


「……それじゃ、寮に戻ってください。鳴門さん、シャワーを浴びた方がいいでしょう。……学園長は私が探します。学園長が魔法を使ったことは、誰にも話さないでくださいね」


 彼女は強く釘を刺し、歩が起きるのに手を貸した。


 歩は、血塗られた記憶が詰まった頭を抱えて部屋に戻った。部屋に七恵の姿はなく、彼女の書物だけが無機質な視線を歩に向けていた。


 歩は洗面所に入り、鏡の前に立って髭を確認する。


「全然伸びていない」


 自分が本当の女性になった気がした。女性らしい行動をしていれば女性になると言った七恵の言葉は真実なのかもしれない。それに比べれば、魔法で送られた時代の自分は絵にかいたような男だった。七恵や人魚とのかかわり方をとっても、動物的で暴力的だ。それが本来の自分か、それとも七恵の夫の記憶を借りただけのものか……。


「あれは私じゃない」


 そう結論付けたのは、そう思いたかったからだ。


 シャワーを浴びようと裸になって驚いた。すっかり乾いていたが夢精していた。七恵や人魚と交わったからかもしれない。それなら、あれはタイムトラベルではなく、ただの夢なのか?


 学園長はこの臭いが不快で、部屋を出て行ったのかもしれない。考えると顔が熱くなった。


 シャワーを浴びて頭はえても、思考の混濁こんだくはひどくなるばかりだった。


「整理しよう」


 湯気で曇った鏡に映る自分に向かって言った。


 学園長に見せられた過去が事実ならば、七恵はそのころから生きていたことになり、1500歳というのも本当のことだ。その原因が人魚の呪いというのも事実だし、あの人魚の鱗が聖オーヴァル学園に保管されていたのに違いない。


 思えば、人魚の顔が詩織とよく似ていた気がする。自分の記憶違いだろうか? それとも、詩織も人間に姿を変え、学園に長く住み続けている人魚なのだろうか? そうならば詩織が七恵の秘密を知っていたことにもうなずける。


 見せられた過去が偽物ならばどうだろう? それなら、学園長が信頼に値しない人物だということだ。七恵が1500歳という話の真偽は判断できない。


 歩は、いくつかの推理の分岐点で迷い続けた。結局、魔法の真偽も、自分が何をすべきかもわからないまま図書館に足を向けた。人魚の鱗が奪われ、七恵が居続けるその場所が全ての原点だ。


「ごきげんよう」


 小山咲良がすれ違い、歩に声をかけた。しかし、過去と現実の迷路で迷う歩は気づかずに通り過ぎた。


 図書館に入ると、大量の卒業アルバムを抱えて学習室にこもる。一冊一冊丁寧にページをめくって詩織に似た生徒を探した。詩織も卒業と入学を繰り返しているのなら、5年前の卒業アルバムにその姿があるはずだ。


 しかし、5年前にも、11年前のアルバムにも詩織らしい写真はなかった。6年前、7年前と調査の範囲を広げても同じだった。


 詩織は、七恵と違ってずっと学園にいるのではなかった。疑問の一つに答えを出し、ほっと息をついた。


 正午を知らせるチャイムを聞き、歩は学習室を出た。


 階段を降りたところに、七恵がいつものように待っていた。その顔を見た途端に不安を感じた。見せられた過去が事実であれ、嘘であれ、常識という大地が崩れ落ちたような不安だった。


「夕べは、ひとりにしてごめんね」


「お姉さまが謝ることではありません」


 図書館を出て、春の日差しの中をコンビニに向かう。


「本当に1500歳なの? 学園長に記憶を操作されているということはないのよね?」


 恐る恐る七恵の耳元で尋ねると、彼女はコクリとうなずいた。


「昨日、学園長に七恵さんの過去を見せてもらったのよ」


「そう……」


 七恵は関心なさそうだった。


「人魚を殺してから今まで、どうやって暮らしてきたの?」


 それは過去と学園長の魔法の真偽を同時に確認するための質問だった。


「長い間、山に隠れて過ごしました」


「大変だったのね」


 普段なら、それで会話が終わるところだったが、何故か七恵が話し続けた。


「……するといつの間にか、人を食う鬼婆おにばばと言われるようになったので旅にでました。人の多い都の近くに住み、何度も結婚し、何度も夫を看取りました。……武士が力を持って世の中が乱れたので都を離れました。ここに戻って畑をつくり、雨の日と雪の日は祝詞を読み、経文を読んで過ごしました。ただ、それだけです」


 彼女は淡々と話した。子供のような顔をしながら何度も結婚したという。彼女がセックスや勃起といった言葉を平然と使い、歩の身体に驚かなかったのは、そうした経験があるからに違いない。


 しかし、七恵の物語は八百比丘尼の伝説と似ていて、全てを信じるには不十分だと感じた。人は、他人の経験を自分の記憶と取り違えることもある。


「七恵さんが八尾比丘尼だったの?」


「それはわかりません」


「北陸も旅したのでしょ?」


 七恵がうなずく。


「誰かが、七恵さんを八尾比丘尼と呼んだのでは?」


「私が八尾比丘尼を知ったのは、この学園で本を読むようになってからです。それに、私は人魚の肉を食べていません。人魚の遺体は川に流れて消えたから……」


 七恵は相変わらず無表情で、昔を懐かしんでいるのか、悔やんでいるのかわからなかった。


「昔は、笑ったり怒ったりしていたわね」


 七恵に反応はない。長い不幸の積み重ねが、感情を表す方法を忘れさせたのだろう。


「話せる時が来たら、詳しく聞かせてちょうだい」


 信号の前で手を握ると、七恵はコクリとうなずいた。


 午後は七恵と過ごすことにした。他にすることがなかったからではなく、七恵を知るためだ。彼女は1500歳。それが事実ならとんでもないおばあちゃんだ。見た目とのギャップにワクワクする。怖いもの見たさ、そんな心境だ。


 七恵が分別しておいた本の修理に取り掛かる。鉛筆のいたずら書きは消しゴムで丁寧に消し、染みはしみ抜きをする。破れたページにはテープを張り、本によっては和紙を使って補強した。はがれた表紙はボンドで張り付け、薄れた挿絵はペンや絵の具で補修する。


 彼女が本の修理をてきぱきとこなす様子を見るのは楽しかった。その丁寧できめ細やかな作業から、七恵がどれだけ書物を愛しているかがわかる。その職人技といえる手さばきが、1500年間も七恵が生きた証だ。そう考えると胸が締め付けられた。


 自分も1500年生きたら会計のプロになるだろうか?……考えると、七恵の人生をはずかしめたように感じた。彼女と違って歩は会計士になるための努力をしていない。


 自分も頑張らなければ。……七恵に刺激を受けて決心した。彼女の仕事の邪魔をしないように、静かに部屋を出た。


 歩の決意は嘘ではない。けれど、具体的に何をすればいいのかわからなかった。目的の定まらない足は図書館内を巡り、意思のない視線は書籍や学生を転々と追った。


 2階の情報機器コーナーには数種類のパソコンやプリンター等が並んでいて、学生は様々な機器に触れることができる。普段は通り過ぎてしまう場所だ。そこに高等部の松下朱里をみつけた。子供っぽい風貌に似合わず、彼女はパソコン操作が得意のようで熱心に動画を編集していた。動画サイトにでも投稿するのだろう、と横目で見ながら階段を上った。


 3階には会計や簿記の書物も並んでいた。その中の1冊を手にしてパラパラとページをめくり、文章を読むことなく棚に戻した。読むべき本だが、今はその時ではない。人魚の鱗をみつけなければ悪魔のような玉麗に事務所を追い出されるに違いないのだから……。


 学習室に入り、窓の外に広がる景色に目をやる。


 僕は会計士になりたいのだろうか?……そんなことを考えたのは、一心に書物に向き合う七恵と、何も手につかない自分の違いに気づいているらだ。


「今更、何を悩んでいるんだ。就職のために100以上のエントリーシートを書いた。その時に、好きな仕事に就くのはあきらめようと決めたじゃないか。今は宝会計事務所が僕の職場だ」


 口にすると気持ちが楽になる。


「そもそも僕は自分が何をやりたいのかわからないし、会計が何なのかも理解していないんだ」


 パソコンに向かっていた朱里の方が、目的に向かって真剣に進んでいると思う。自分に至っては、スタートラインにさえ立っていないのだ。

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