第18話 赤い月

 歩は七恵の重さを感じて目を覚ます。抱き着くようにして寝ている七恵の顔はまだあどけなく、人を殺したとか、1500歳を超えているとかいった昨日の話は、信じ難かった。


 しかし、七恵が嘘を言っているとも思えない。


 学園で教える魔法は人の心を操るものだ、と言った七恵の顔を思い出す。誰かに人を殺したとか、1500歳になっているとか思い込まされていることはないだろうか?


「関西のおばちゃんだな」


 豹柄のパジャマを着た七恵を抱き上げて彼女のベッドに戻す。その時、魔法を使う学園長の顔が頭に浮かんだ。彼女が七恵の記憶に干渉しているのかもしれない。


「まさか」


 自分の想像を打ち消した。


 浴室で髪を洗いながら、魔法で操られているとして図書館のアルバムのことはどう説明する?……自問した。


「おはようございます。お姉さま」


 身支度を済ませて洗面所を出ると七恵の声がした。彼女は毛布の中に隠れている。どんな時も堂々と相手に向き合う七恵らしくなかった。


「今日は何を調査するのですか?」


 毛布の中から声がする。


「今日は学園長が帰って来る日よ。最初に学園長を訪ねて、過去を見る魔法についてきいてみるわ」


「そう……」


 七恵が毛布を少しだけめくりあげて、歩を覗き見た。


「どうしたの? 今日は変よ」


「月のものが来たの」


「月のもの?」


 口にしてから、生理のことだと気付いた。


「具合が悪いなら、寝ているといいわよ」


「私は大丈夫」


「私も大丈夫よ。月のものの事なんて気にならないから」


「そう?」


 七恵がベッドから飛び出してトイレに駆け込んだ。


 持って生まれる原始細胞の数は限られているはず。それで更年期障害といったものがあるのではないのか? 生理が1500年も続くはずがない。何らかの魔法の影響だろうか?……歩は首をひねった。


 朝食時、七恵に代わってココアをいれた。


「おいしい」


 ココアを飲んだ彼女が微笑むので、幸せな気持ちになる。


 簡単な朝食を済ませて学園長室に向かった。ドアをノックすると「どうぞ」と穏やかな声が返ってくる。


 学園長室に入ると、すっかり様子の変わった朋恵の姿に驚いた。机に座っている彼女には、美魔女と言われた美貌は見る影もなく消え失せ、魔女の部分だけが残っていた。


「鳴門さん、おはようございます」


 美貌は消えても、相手を柔らかく包む声と堂々とした態度は間違いなく朋恵園長のものだった。彼女は調べ物をしていたであろう手を止めた。相変わらず机に並んでいるのは魔法や呪いの類を記した書物だ。


「おはようございます。出張先で何かあったのですか? ずいぶんお疲れのようです」


 質問がストレートすぎたようだ。彼女の顔に影が過った。それはすぐに消えて、微笑が戻った。


「すっかりおばあちゃんになってしまったでしょ。……ええ。いろいろなことがありました。ここに顔を出したということは、鳴門さんにも何かがあったのでしょう?」


 彼女が立ちあがって応接椅子を指し、自分は歩の正面に座った。


「二つほど確認したいことがあるのです」


「伺いましょう」


「一つは、過去を見る魔法があって、それを学園長なら使えると聞きました」


「ええ。それは間違いありません」


 朋恵が姿勢を正す。


「その魔法を使えば、人魚の鱗を盗んだ犯人を知ることができるのではないですか?」


「それを見つけるのは、あなたの仕事のはずですが?」


 彼女の強い視線に歩は動揺した。大きく息を吸い、逃げだしたくなる気持ちを抑えた。


「あちらこちらの社を巡って来たのは、その魔法を使うためではなかったのですか?」


「そのことに気づいたのですね。でも、私が神社仏閣をまわったのは、人魚の鱗を探すためではなく、この学園を守るためです」


 決意を示す凛とした彼女の表情には、抗しがたいものがあった。


「では、改めてお願いします。魔法で、人魚の鱗が盗まれる現場を見てはもらえませんか?」


「その質問には先ほど答えたはずです。もう一つの質問はなんでしょう?」


 とりつく島がないというのはこういうことだろう。……歩は、彼女ができることをやらないという返事に困惑と疑問を覚えた。とはいえ、彼女が拒むからには、何か理由があるはずだ。彼女の硬い意思の前に、魔法で事件現場を見せてもらうことを諦めた。


「では……」ゴクンとのどが鳴った。「……同室の福島七恵さんが、自分は1500歳だと言うのです。そして、かつて人を殺したことがある、と。……ご存知ですか?」


「それを言ったのは、七恵さんですか?」


「はい」


 朋恵が肩で息をし、それから天を仰いだ。何かを考えているというより、自分の中の誰かに問いかけているような様子だった。ほどなく彼女は歩に視線を戻して口を開いた。


「七恵さんが言うのは本当の事でしょう。でも、それを知るのは七恵さん1人です。私たちには知るすべも権利もない」


「本当のことだというのですか?」


 そう口にして初めて、噓だと言って欲しかったのだ、と歩は気づいた。


「……七恵さんが1500年も生きているのは、人魚の鱗と関係があるのですか?」


 念を押すように尋ねると、彼女が口を開いた。


「それは話せません。話してしまうと準備したものが無駄になってしまいます」


「準備?……学園長がしようとしていることは、七恵さんと関係があるのですね?」


「鳴門さんは、七恵さんのことが気になるのね?」


 歩は深くうなずいた。


「人魚の鱗を持っていても死なないと言う七恵さんは、幸せなのですか? 不幸なのですか?」


「その答えは、私にはわかりません。鳴門さん、あなたが考えてみてはどうかしら」


「同じ部屋で見てきました。彼女は不幸せそうです」


「そうですか……。悲しい事ね」


 その声は深い苦悩に満ちていた。


「……失礼、お茶も出しませんでしたね」


 朋恵が疲れた顔に優しい笑みを浮かべる。


「いえ、結構です」


 まだ職員は出勤していない。学園長の手を煩わせるわけにはいかなかった。


「あなたなら七恵さんの理解者になれるかもしれないわね……」


 朋恵の瞳が、歩を貫くような厳しいものに変わった。


「……力になってもらえるかしら? あなたが秘密を守り、七恵さんを守ると誓うのなら、彼女の過去を見せてあげましょう」


 その提案がどういう意味を持つのか、考えることなく即答した。


「ええ、力になりたいと思います」


「簡単なことではないのですよ。あなた自身が七恵さんの不幸の一部を背負うことになるかもしれない」


 朋恵に見つめられ、軽はずみなことを言ってしまったのかもしれないと思った。そこで考え直さなかったのは歩の見栄、いや、プライドだった。


「どこまでできるか分かりませんが、学園長の意思に従います」


「嬉しいわ。それじゃ、七恵さんの人生を見てきてください。そこは、私も踏み入ることができなかった世界です」


 彼女は席を立ち、歩の前に屈んだ。


「横になってもらえる」


「はい……」言われるままに横になった。


「目を閉じて額に意識を集中してちょうだい」


 目を閉じると、額に彼女の冷たい指を感じた。彼女が呪文らしいものを唱えるのがわかった。が、言葉としてはとても不明瞭なものだった。どちらかといえば怯えた猫の唸り声に近い。


「額に集中して……。彼女のことだけを考えて」


 歩の散漫な意識を感じ取ったのだろう。彼女が呪文を中断して強く命じた。


「ハイ……」歩は七恵のこけし顔を思い浮かべた。


 朋恵が呪文を再開する。その意味不明な旋律が歩の意識を深い闇に導いた。


※   ※   ※


 暗闇の中、歩の鼻を煙のすすけた臭いがくすぐった。


 火事か? いや違う。囲炉裏いろりの火だ。……疑問に、別の自分が応じた。


 瞼を持ち上げる。そこには掘立小屋の茅葺かやぶき屋根が見えた。そこに天井などというものはない。家の中央に掘られた囲炉裏があって赤い火がちょろちょろ燃えている。煙とすすけた臭いはそこから立ち昇っていた。


 夜のようで、太陽の光はなかった。赤い月があった。


 歩は全て了解していた。一つの身体の中にふたつの魂がある。自分は歩であって歩ではない、と……。


 裸だった。その胸の上に、一昨日、結婚したばかりの七恵がもたれかかるようにして寝ていた。


 歩は七恵を鹿の毛皮の寝床に下ろした。日々の仕事と夜の営みで疲れたのだろう。彼女は深い眠りの中にいて目覚めそうにない。


 歩は囲炉裏に薪を足して鹿の毛皮の寝床に戻った。歩ではないもうひとりの自分が七恵を抱きよせた。


 彼女はとても柔らかく暖かかった。夫婦なのだ、と改めて自覚した。彼女に対する強い性欲を覚えた。それが歩自身なのか、もうひとりの自分なのかわからない。ただ、七恵を抱きたいことは間違いなかった。


 彼女を抱いた。そうして目覚めた時には、出入り口の隙間から強い朝日が射していた。


 2人は乾した川魚を焼き、ヒエの実をゆでて食べた。


「美味しい」


 麻布をまとった七恵が目を細め、白い歯を見せて満面の笑みを作る。その笑顔は歩の知っている七恵ではなかった。


「美味いな」


 歩も笑った。幸せだった。


 ――タンタンタン――


 板を打ち鳴らす音がした。集落で共同作業が始まる合図だ。七恵は他の女たちと山菜を摘みに行き、歩は男たちと狩りに出る。


 神が降りる霊山れいざんの周囲の自然は豊かで、鹿や狸、兎などが多い。村人たちは、それらを落とし穴で捕っていた。稀に、熊や狼さえ捕まった。落とし穴に獣が落ちない日は、槍と弓を手にして森に入る。そうすれば、霊山の神は食物を分けてくれるのだ。そうした生活は縄文時代とあまり変わっていなかった。


 稀に南の方角から、或いは西の山を越えて、絹糸を織った布の衣類を身に着け、金属製の武器を手にした大勢の男たちがやって来た。


 男たちは、というところから来たのだと言い、霊山に下りる神の名をウカノミタマ神だと教えた。男たちに逆らうと殺されるが、従えば生かされる。時に彼らは食料や毛皮と、鉄製の斧を交換してくれたし、祭祀用の青銅製の剣や鏡も分けてくれる。穀物の種子をくれることもあれば、紙のすき方を教えてくれることもあった。


 運よくもみを手に入れた隣の集落では稲作を始め、桑と蚕を手に入れた東の集落では絹糸作りに取り組んでいる。


 歩の集落にはまだ田がなく「田が欲しい」と若者たちは長老に訴えていた。田を持つ隣の集落は豊かになり、冬、飢えることがないからだ。


「ミヤコの男たちにだまされるな」と長老はさとす。から入る文化は霊山の神を怒らせ、集落の暮らしを駄目にすると言う。


 長老たちは、だまされるなと言いながら、青銅の鏡を有難がり、もらった米を食った。


 の男たちは、には大王おおきみという神の子孫がいて、その霊力では栄えているのだと言う。そこでは数千もの人間が暮らし、港では大きな船を造り、西の海を渡っては異国の道具や書物を持ち帰るのだと自慢した。


「海は広いぞ。逢隈川おおくまがわの何百倍も広い。そこにすむ亀や蟹は、川に住むものよりも何百倍も大きい。水中で暮らす犬もいるし、人魚も住んでいる。鯨という大きな魚がいて、船がぶつかると船が壊れて沈んでしまう。その鯨を獲って食う者もいる」


「人魚とは、なんだ?」


 集落の男がきいた。


「身体の半分が人間で、腰から下が魚だ。霊異のものだから、殺してはならぬのだ」


 から来た男たちはやがて南へ帰り、しばらくするとまたやって来る。その時にはさらに北に向かうのだと言い、毛皮や作った絹糸を持ち帰った。それを彼らは税だという。


「神への貢物だと思え」


 男たちは税をそう説明した。


 共同作業の後は好きなことが出来る時間だ。その日、歩は鹿の角で作った釣り針と竿を手にして逢隈川に向かった。大きな魚を釣って七恵と食べようと思った。


 川は雪解け水が勢いを増し、ごんごんと音を立てて流れていた。の男たちの話では、その流れが海という場所に続いているらしいが、海を見たことはない。


「荒れ過ぎている。これでは、魚は釣れないな」


 釣りをあきらめて帰ろうとした時、声がした。


「お待ちください」


 流れの音が大きくても、その澄んだ声音こわねは聞き分けられた。


 歩は、流れの中で自分を見つめる髪の長い女性を見つけた。どことなく詩織に似ている。彼女は裸の上半身をあらわに、細い右手をあげて歩を呼んだ。


「そこのあなた……」


 視線が合うと、ほっとしたように笑みを浮かべて僅かばかり岸辺に寄ってくる。


「あっ……」


 彼女は川に落ち、助けを求めているのだと思った。それにしては、表情に余裕があるが……。


 歩は深いふちに落ちないように、巨石の上を飛んで女性に近づいた。そして彼女の腰から下が魚の形をしているのに気づいた。鱗が虹色に輝く美しい姿だった。


「人魚か……」


 かつての男に聞いた人魚というのがそれだと思った。


「お願いがあってまいりました」


「困りごとか?」


 霊異のものを救ってやろうと思う。


「精をいただきたく」


 人魚が真顔で頭を下げるので驚いた。


「なぜ俺に?」


「あなたが私の愛する夫だからです」


 人魚の言葉は甘く、歩はふらふらと流れに足を踏み入れて人魚の冷たい肩を抱いていた。身を切るような雪解け水も、歩を正気に戻すことがない。


「愛してくださいませ」


 人魚の熱い吐息が耳をくすぐった。


 人魚が自分の手で腰の中央にある鱗をはぎ取る。すると周囲の赤い鱗も数枚、山茶花さざんかの花弁が散るように、ハラハラと落ちて流れにのまれた。痛むのだろう。瞳から真珠のような涙がぽろぽろと落ちる。


 夕日をあびて黄金色に光り輝く人魚は、歩の野生を刺激し、気持ちを捕らえて離さない。鱗をはいだ跡は桃の果肉のようなピンク色をしていて、深く落ち込んだ花芯から甘い香りがして好奇心と欲情を誘った。


 歩が抱きしめると、人魚は至福の声を上げた。


「あぁー、私は幸せでございます」


 その声は霊山の頂まで届くのではないかと思われた。


 どれだけの時間、愛し合っただろう。突然、人魚の瞳に恐怖の色が浮かんだ。歩がその視線を追って振り返ると、夕日の中に七恵の血走った眼があった。実際、人魚の歓喜の声を聞いたのは神ではなかったのだ。


「いやー!」


 拒絶とも、気合とも取れない言葉を叫んだのは七恵だった。太い槍を頭上に振りかざすと、抱き合った2人めがけて振り下ろす。


 槍は歩と人魚を重ねて貫いた。


 ――グェ!――


 その呻きが人魚のものなのか、自分のものなのかわからない。ただ脳天を貫く痛みは間違いなく歩のものだった。


 夕焼けの空に人魚の血が噴水のように舞った。赤い霧が七恵を包み煌びやかに飾った。


「生物ガ死ニ絶エ宇宙ガ消滅スル時マデ、我ガ祟リニ苦シメ」


 命の鼓動こどうがつきる直前、人魚が呪いの言葉を投げた。

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