第16話 魔法の鏡

 歩は息苦しさを覚えて目をさました。いつものように七恵が胸に乗るようにして寝ていた。まるで、歩を逃がさない、とでもするかのように。


 時刻は午前5時。パンダ模様のパジャマの七恵を抱き上げてベッドに戻し、歩は浴室に入る。身支度を済ませて洗面所を出ると、七恵が寝ぼけ眼でベッドに座っていた。


「おはよう」


 声をかけると彼女が目を瞬かせる。


「今日は何を調査するのですか?」


「正直、手詰まりなのよ。学園長の帰りを待つわ」


 七恵に男性だと知られても、歩の演技は続いていた。今になるとそれは、とても自然な感覚だった。しかし、女性を演じるほどに自分が男性だという自覚が強くなり、阿久が指摘したように、内面から女性になりきれていない未熟さを実感した。


「何もしないのですか? どうして電話作戦や聞き込みを継続しないのですか? 女性の演技は続けているのに……」


 七恵に悪意はなく、ただ思ったことを話したのだろう。しかしそれは歩の胸を深くえぐった。彼女は、珍しく、なおも話を続けた。


「……継続していれば、それは習慣になり、無意識の状態でもミスをしなくなるのです。赤ちゃんはそうやって、男は男になり、女は女になる。仕事だって同じなのです」


 グッと喉が鳴る。言い返す言葉が見つからない。


「……そ、そんなことわかっているわよ。ちゃんと、やるわ」


 あれ?……ふと気づいた。ずっと女性を演じ続けていたら、自分は本当の女性になってしまうのかもしら?


「どうかしましたか?」


 七恵が小首をかしげている。


「いいえ、なんでもない」


 問題を先送りにするのは、歩にとってとては自然なことだった。子供のころから夏休みの宿題も休みが終わる間際になって慌ててやったし、受験勉強だってそうだった。今は、男か女かということより、正社員になることが喫緊の課題だ。性別の問題に比べたら、正社員かどうかということは些細な問題だけれど、その些細なものに全てをかけなければならない現状がある。その理不尽さに腹も立たない自分が情けない。


 とにもかくにも、朝食を済ませて一緒に部屋を出た。いつもの行動だ。


 途中で別れ、七恵は図書館の地下へ……。歩は聞き込みへ……。誰かに指摘されたら抗えないのも歩の性格だった。とりあえず、七恵に言われた通り、学内で聞き込みをすることに決めた。


 そんなあやふやな動機で始めたものだから、邪な気持ちが付け入るスキがあった。歩はテニスコート前のベンチに腰を下ろし、テニス部員たちがスコートを翻して走る様子に夢中になった。まだまだ脳は男子だという証拠だ。


 午前中のテニスコートは大学生が使っていた。午後は高等部と中等部の生徒が使う。女子大生の引き締まった太ももを追っていると、背後から声がした。


「アユミお姉さま」


 振り向くと、白のパーカーに黄色のキュロット……、詩織のキュートな姿があった。ツインテールには大きな黄色のリボンが揺れている。歩の胸が萌えた。90点……、ポイントがアップしていた。


「時間、ありませんか?」


 彼女が深刻そうな顔で尋ねた。


「何か、お話し?」


 詩織がキャンバス地のトートバックを持ち上げて見せる。


「見ていただきたいものがあるんです。私の部屋で」


 歩は躊躇した。女装はしていても中身は男子だ。詩織の部屋に2人きりになったら、本性が出てしまうかもしれない。


「え?」


 歩が返事をする前に、詩織が歩き始めていた。歩の手を取って……。


「何があるの?」


 歩は胸を高鳴らせて詩織の部屋に入った。そこはピンク色と甘い香りに満ちていた。歩がイメージしていた女性の部屋だ。書物と洗濯物の匂いだけの七恵の部屋とは雲泥うんでいの差だった。


「良い香りね」


「石鹸の香りです。あちらこちらに置いてあるの」


 詩織がクローゼットの引き出しを開けて見せた。並んだ可愛らしい下着の間に、高級そうな石鹸があった。


「ここに座ってください」


 指示され、ベッドに座っている大きなクマのぬいぐるみの隣に座った。ぬいぐるみも石鹸を抱いていた。


「私の魔法を見てください」


 詩織はトートバックから新書サイズの鏡を取り出した。それは花模様が彫られた太い銅枠で飾られ、飾りの所々は緑青ろくしょうが浮いていて古いものに見えた。


「鏡の中の魔女とでも話すの?」


「過去を見るんです」


「それは学園長しかできないはずでしょ。七恵さんが言っていたわよ」


 指摘する歩の唇に詩織の人差指が押し当てられた。黙れというサインだ。


「私は、学園長の愛弟子なのよ」


 愛弟子って、自分で言うか!……歩は突っ込みを入れる。


「ためしに、七恵さんの過去を見てみましょう。……ネンマハーヴァイローチャナカコミセタマエキョウニテ……」


 詩織は抑揚よくようのない謎の呪文を唱えながら、歩の唇を押さえていた指で〖福島七恵〗と鏡に文字を書いた。それから両手で鏡を覆い隠した。


「さあ、お姉さまも精神を集中して。過去を開きますよ」


 詩織が鏡を隠していた手をそっとどけた。


 鏡は変化していた。目の前の歩や詩織を映さず、暗い景色のようなものを映していた。


「何か見える?」


「七恵さんが、誰かを殺す」


 詩織が言った。


「え?」


 よく見るために詩織に頬を寄せ、鏡をのぞき込む。


 そこには、歩と詩織の顔にだぶって、河原か野原のような場所を歩く裸の女性の全身がぼんやりと写っていた。


「見て、七恵さんよ。剣を持っているわ」


 目をこらす。裸の七恵がおかっぱの髪を振り乱して剣を振りかざしていた。違和感はあった。歩が直に見たものより、七恵の胸が小さい。だからといって、それが七恵ではないと言い切る自信もなかった。


 鏡の中に見知らぬ男性が現れる。七恵は彼の胸に剣を突き立てた。男性の胸から赤黒い血しぶきが飛んだ。


 それはとてもリアルで、血が鏡から飛び出してくるように見えた。思わず歩は「キャッ」と声を上げてのけぞった。


 赤い血液は鏡全体を染め、やがて黒く変わる。そして鏡が割れた。いや、一瞬、そう見えただけで、実際に割れてはいなかった。すぐに普通の鏡に戻り、歩と詩織の顔がそこに残った。


「そんな馬鹿な……」


 声が漏れた。心臓がドクドクいっていた。


「どうしてそう言い切れるの?」


 詩織が歩の顔を覗き込んだ。


「だって……」


 反論することはできなかった。今どき人を殺す高校生や中学生は決して珍しくない。ゾンビの七恵ならば、誰かに命じられて人を殺した可能性は十分にある。


「今度はアユミお姉さまの過去を見てみたいわ」


「やめて……」男だとばれては困る。


「絶対見たい」


「だめ。絶対ダメ!」


 拒否すると、うふふ、と詩織が笑った。


「お姉さまったら、可愛い」


 詩織の唇が、歩の唇に触れた。ほんの3秒だけ……。


 歩は自分の唇を押さえた。ファーストキスだった。


「詩織さん、あなた……」


「私、お姉さまが好きなんです」


 う、嬉しい。いや、困った。告白されるなら、男の自分でありたい。……歩は心底そう思った。「ぼ……」男子だと告白しそうになって状況を思い出す。もし女装して潜入していることがばれたら、詩織は「変態!」と叫んで事務長のもとに駆け込むだろう。詩織が好きなのは、女のアユミなのだから。事実を知った事務長は警察に電話を入れ、自分の人生も、就職先の宝会計事務所も社会から抹殺されるに違いない。


 マイナス思考の一方で、プラス思考も働く。七恵が男子のアユミを受け入れたように、詩織だってアユミが男性と知っても平気かもしれない……。


 歩は葛藤する。


 ……結局、臆病な歩が勝った。


「私は女よ」


 間抜けな話だが、そう言って胸を張った。


「女同士だっていいじゃないですか? 野蛮な男性よりずっといい」


 詩織が迫った。


「す、少し考えさせて」


 歩は獣に対するように、詩織の瞳を見つめながら少しずつ後退して彼女の部屋を後にした。


「お姉さまの馬鹿!」


 ドアの向こう側で声がした。


 歩は自分の部屋に駆け戻り、高鳴る胸を押さえた。


「惜しい……」


 素直な気持ちをつぶやくと気持ちが落ち着く。


「〇〇たい!」


 素直に叫ぶと罪悪感を覚えた。それから、欲望に耐えて詩織の部屋を後にした自分をほめてあげようと思った。


 右脳が冷えて左脳が働き出すと、鏡に映った殺人現場のシーンに意識を支配された。七恵が男性を殺したのは本当のことなのだろうか? それは、詩織の魔法が本物かどうかということと同義だ。


 今更ながら気づいた。詩織が七恵だと言うので、鏡の中の女性を七恵と思い込んでいたのではないか?


 魔法を否定する左脳は、鏡にトリックがあるに違いないと言う。合成やCGで映像を作るのは簡単なことだから、加工した映像を見せられたのだ、と。


 よく思い出せ。……自分の頭に命じた。


 目を閉じると映像が蘇る。……剣を持った裸の七恵が男性を刺す動き、剣を持った七恵の肉体、裸の七恵、小さな胸の裸の七恵……。


 脳裏に蘇ったのは、実際に見た七恵の大きな胸だった。


「それじゃない」


 ブルブルと頭を振って集中し直す。


 あの時の小さな違和感を思い出す。鏡は小さく、そこに映った七恵はぼやけていた。ぼやけた七恵の裸、その小さな胸……、それこそが違和感の正体だった。


 鏡の中の七恵の顔、……それは似ていただけで、七恵ではなかったと思う。


「あれは偽物よ」


 確信めいたものが口をついた。


 詩織は何故そんな映像をつくって見せたのだろう? 理由は簡単だ。詩織が七恵に嫉妬しているからだ。だけど、恋のライバルを殺人者に仕立てておとしめるなんて度が過ぎている。……自問自答した。


 ふと思い至ったのは、七恵が6年ごとに卒業と入学を繰り返していることを詩織が発見したということだった。調査の過程で、七恵が過去に殺人を犯したことを知ったのかもしれない。……そうした仮説は、七恵がゾンビだというものよりリアリティーがあった。


 興信所や探偵ならば、幼い七恵が犯した罪を暴くことも出来るだろう。鏡の七恵が幼いころの姿なら、胸が小さいのも当然だ。


「ダメだ……」確信めいたものが崩壊した。


 結局、映像は作り物でも魔法でもありえる。……歩の推理は意味のない結論に達した。


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