第15話 東奔西走

 ――3月16日のこと。


 文部科学省で大臣に挨拶を済ませた相馬朋恵は、その足で奈良県の大神神社おおみわじんじゃを訪ねて古い神々に参拝した。そこにはオオモノヌシ神、オオナムチ神、スクナビコナ神の三神が祭られている。


 朋恵はスクナビコナ神の力を頼ろうと考えていた。その神は知恵に優れており、古い神と新しい神、東洋の神と西洋の神、様々な神々の間で橋渡しができる、と彼女は考えていた。


 真剣な祈りだ。朋恵はその日から食事を断った。口にするのは水のみ。


 日没後、拝殿の北にある古井戸でみそぎし、白衣びゃくえ一枚でスクナビコナ神の磐座いわくらの前に座った。


 ――かけまくもかしこきスクナビコナの神、我に力を貸したまえ。我と共に旅し、哀れな娘を救いたまえ――


 の神の助力を願って念を送り続ける。


 ――ヒュルルルル……、2時間ほどすると、風が渦巻き、周囲の樹木がざわめいた。張りつめた、それでいて生ぬるい空気が大蛇のように朋恵の身にぐるりとまとわりつく。間違いなく霊異の気配だった。


 ――ワシを呼ぶとは物好きな――


 声ではなかった。何かが朋恵の三半規管を直接刺激していた。


 気圧が下がり、まとわりついた空気が凍っていた。


 朋恵は返事をしようと試みたが、唇も凍ったように動かない。


 まとわりついた冷気が、ギリギリと肉体を締め上げた。まるで八方から万力で締め上げられるような感触だった。


 やがて身体の真ん中を刃物で刺されたような痛みを覚えた。――ゲェ……、肺からすべての空気が一気に吐き出された。そうして生まれた空洞に、冷気の中の核のようなものが押し入った。


 ――ドクン――、心臓が跳ねたような痛みを感じた。


 朋恵は、意識を失いそうになるのを必死にえた。するとほどなく、もぞもぞと髪がざわついた。髪の毛の一本一本が、別々の生き物のようだった。


「願い事があるとか?」


 その声は親しみやすいものだった。


「スクナビコナ神さま、感謝いたします」


 神を取り込むのは初めての経験なので、スクナビコナ神が現れた喜びよりも、緊張とおそれの気持ちが勝った。


「久しぶりの旅じゃ、なにかこう、胸がときめくわい」


 声はするが姿は見えなかった。透明なのか、小さいのか……。伝説では吹けば飛ぶようなサイズだが、見えないほどの小ささではないはずだ。そんなスクナビコナ神が子供のように朋恵の全身を走り回るのを感じた。あるいは、指で素肌をまさぐっているのかもしれなかった。


「そんなにしたら、くすぐったいです」


 スクナビコナ神の無邪気な、あるいは欲情的な動きが緊張を解いた。自然に笑みも浮かぶ。


 翌朝、レンタカーを借りて吉野に向かった。そこは東に国見山を望む深い山の中で、イザナミが死ぬ間際に生んだミズハノメという水の女神を祭った社がある場所だ。


 山間を流れる沢に下りて裸になると、まだ冷たい水に身を沈めて禊をし、世俗の汚れを落とした。杉の枝にとまったカラスたちが、不思議な生き物を見るような顔で朋恵を観察している。


 禊を追えると社の前に立ち、スクナビコナ神を頼りに祈る。……彼の神が、どう仲介してくれたのかわからない。知る必要もなかった。大切なのは神々を疑わないこと。信じることだ。


 ミズハノメ神は「スクナビコナ様の口添えならば」と、訴えに耳を傾けてくれた。彼の神は、全てを受け入れてくれた。


 その夜は車中で過ごし、朝の拝礼を済ませてから兵庫県の雷神神社に向かった。車で4時間ほどの距離だ。そのさびれた社では、イザナミ神の遺体から生まれたオウイカヅチ神に祈った。それが3月18日の午後のことだった。


 言葉を持たない彼の神は咆哮ほうこうし、稲妻を走らせて大雨を降らせた。雷鳴が意思の表現で、朋恵の望みを受け入れるという印だった。遠い涅槃山で光った稲妻は同じものだ。


「オウイカヅチは、お主の手伝いをするそうじゃ」


 スクナビコナ神が言葉にし、朋恵を安心させた。数日に及ぶ祈祷きとうで、彼女の肉体は石のように固く、心は朽木くちきのように傷んでいた。


 その夜は久しぶりにホテルで過ごし、翌日、但馬空港から伊丹空港を経由して福岡空港へ飛んだ。次の目的地は、海に浮かぶ小島だ。


 オウイカヅチ神を目覚めさせたからか、19日は天気が悪く、朋恵が兵庫から福岡へ移動する間中、雷雨に見舞われた。福岡空港到着が遅れただけでなく、最後の目的地に飛ぶはずの飛行機の出発も見送られていて、ロビーのシートで苛立ちながら飛行機が飛ぶのを待った。


 ……朋恵が研究の末にたどり着いたのは、人魚はトヨタマヒメ神の一族であり、人魚の鱗は、その生殖器をおおい隠していたものらしいということだった。


 人魚の鱗は、契りを交わしたにも関わらず、見た目に驚き裏切った人間の命を奪うものだった。それを手にした者の寿命を縮め、奪った生命エネルギーを蓄積していく。その鱗をのみ込んだ者は、蓄積された寿命を使って不老不死の肉体を得る。言い換えれば、鱗は生命力の収奪装置であり、異種族間の差別と偏見の象徴だった。


 鱗は、ある者には死をあたえ、ある者には不死を与える。どちらにしてもそれは呪いを具象化したものに違いなく、多くの人間を不幸にしていた。


 その呪いを解くには、黄泉への入り口を閉じたイザナミ神と水の神のトヨタマヒメ神の協力が要る。それが得られれば、黄泉の扉と水の国の扉が開き、呪いをかけた人魚の魂が帰るべき場所に帰り、鱗が集めた生命エネルギーも黄泉の国に送られて人魚の呪いが解ける。……朋恵はそう考えていた。


 天候が落ち着き、目的の島に着いたのは日がとっぷりと暮れてからだった。彼女には日延べする余裕がなく、空港から真直ぐ海辺の海龍神社に向かった。海の神々を祀る古い社だ。


 いつものように白衣に着替えると、海に潜って禊をした。体力の落ちた体には、冬の海は痛かった。ずぶぬれで拝殿の前に座り、図書館から持ち出した人魚の鱗と供物を並べた。彼女の体力が急激に衰えていたのは、それを持ち歩いていたからでもあった。


 ――かけまくも畏きトヨタマヒメ神、あなたの一族の者の怨念がこの世をさまよい、人の命を奪っては、いたずらに一人の娘の黄泉への道をはばみ苦しめております。どうぞ海の国への門を開き、一族の者の魂をお慰めくださいませ――


 柏手を打ち、首を垂れてトヨタマヒメが応えるのを待った。


 ――トヨタマヒメよ……――


 スクナビコナ神が命じる。


 ――この者の声を聞け――


 ――グワラ、グワラ……、雲がないのに稲妻が走り、雷鳴が鳴る。冷たい風が吹いた。


 天空に輝く星々の絨毯じゅうたんのなかに新月が昇った。星が隠れて海の潮が満ちる。飛行機が遅れたのは、時を合わせるための、運命の神の配慮だったのかもしれない。


 新月の作る闇が、朋恵の意識の中にも小さな黒点を作った。それは闇が星々を侵食するように彼女の脳内で成長し、やがて思考を奪った。


 朋恵は膝から崩れ落ち、土下座する形になった。


 色の無い闇に赤い点が生まれ、光となって朋恵の意識に迫る。その光の中に女神が姿を現した。トヨタマヒメ神だ。


「それなる鱗は強い呪いを帯びている。まだまだ多くの命を飲み込むまでは消え去ることがあるまい。その鱗に呪いをかけた者は、強い霊力と恨みを身にまとっていたのであろう。その不死の呪い、解くこともまた難しかろう」


 トヨタマヒメ神の言葉に応えようとした朋恵の喉は、棒のように動かなかった。


「我が同族の魂はタマヨリヒメと共にこの世で生きている。その者、もはや我が国への門を通ることは許されぬ。それも運命。されど我も人や同族の不幸を喜ぶものではない。……新たな魂の国への門を開き、道しるべの玉を授けよう。それは一対の玉。呪う者と呪われる者を結ぶ玉じゃ。次の新月までに、そなたが苦行を終えれば白玉に命が宿る。鱗の呪いは消えぬが、白玉のあるじは己の意思に従って魂の国へ旅立つことができよう。……呪われし者に、白玉の灯の導くままにすすめと伝えよ。その時、呪いし者も、おのずと救われる。……忘れるな。二つは一対の玉、持つ者は定められた者じゃ」


 気圧が下がる。晴れていた紺碧こんぺきの空に黒雲がわいた。その中に龍の姿を借りたトヨタマビコ神がいた。トヨタマヒメ神の父であるトヨタマビコ神は、雨を降らせて祟る神だ。


 ――グワラ、グワラ――


 オウイカヅチ神がつくる稲妻が走った。


 龍は黒雲の中で踊ると娘を守るように大雨を降らせ、トヨタマヒメ神が雨に溶けるように姿を消した。


 再び雷鳴が鳴り、朋恵の意識がこの世に戻った。トヨタマヒメ神の言葉が、頭の中に雲のように留まっていた。新たな道が開けたと知った。


 朋恵の仮説と違い、扉を開けただけでは人魚の呪いは解けなかった。失望はあったが、白玉に命が宿れば、少女は現世の永遠の循環から逃れることが可能だとわかった。それは希望の道だった。何としても、彼女を助けたい。……朋恵は強く願った。


「おお、気が付いたか」


 髪の中で声がした。


「スクナビコナ様……」


 左手の指の隙間から淡い光が漏れていて、何かを握っていることに気づいた。そっと開くと瞳ほどの大きさの赤い玉があった。光はないが、右手にも感触がある。それは白い玉だった。


「タマヨリヒメの玉じゃな。おぬしの願いが届いたようじゃ」


 スクナビコナ神は喜んだ。


 朋恵は感覚の鈍った身体を細い腕で支えて上半身を起こした。


「扉は開きました。でも、ぎょうを務めてこの白玉に命を宿らせなければならないそうです。スクナビコナ様、どうしたらよいのでしょう?」


「ふむ。扉の向こう側に人魚を送り込むのは、お前さんの仕事ということか……。それが、赤玉のように白玉を光らせるということじゃろう。赤玉を持つべき人魚の所在はワシにもわからぬが、宇宙が正されるとき、その存在も現れよう。宇宙のあるべきところにあるべきものを収めるのは大ちゃんが得意だ。大ちゃんに頼もう」


「大ちゃん?」


大日如来だいにちにょらいじゃよ。……おぬしにも心当たりがあろう。差別と偏見のつくる怒りや恨み、哀しみから人魚を解き放ち、その玉を握らせるのは謙虚な謝罪でしかなしえまい。全身全霊をもって祈り、誠の心を届けるのじゃ。その時には大ちゃんとワシも手伝おう」


 スクナビコナ神のいつになく神妙な言葉で、朋恵は涅槃山の日の巫女みこを思い出した。そもそも、今回の旅のきっかけは大日如来に念じろという日の巫女のヒントから始まっていたのだ。


「私は、出発点に戻ります。これからも、よろしく御導きください。スクナビコナ様」


 朋恵が感謝を言葉にすると、髪の中で小さな神がもぞもぞと動いた。


「赤玉は 緒さへ光れど 白玉の 君が装ひし 貴くありけり」


 古事記にある、トヨタマヒメ神が夫のホオリノ神を慕った歌を口ずさみながら、二つの玉をハンカチに包んで大切にしまった。


「次の新月まで……」


 時間はあまりないと考えながら、洋服に着替えた。見上げると黒雲はすっかり消えて紺碧の空は星々で飾られていた。

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