第13話 歩の危機

 さわやかな朝だった。


 歩は、いつものように玉麗の前で踊る夢にうなされることも、胸にのしかかる七恵の重みで息苦しさを覚えることもなかった。


 これがあるべき目覚めだ。……布団の中で大きく背伸びし、それを蹴飛ばした。僕は自由だ、なんて叫ぶことはなかったけれど。


 枕元の時計に目をやる。


「7時かぁ……。ん?」


 ベッドわきに七恵が立っているのに気付いた。彼女はハシビロコウのように微動だにせず、歩を見下ろしていた。動かず背景に馴染んでいるために気づくのが遅れたのだ。


「お姉さまは、男」


 その声は、ハシビロコウが獲物を襲うように唐突だった。


「え?……わ、私は女……」


 言葉がかすれる。


「誤魔化せません。朝立ちしているもの」


 彼女が指摘する通り、パジャマのその部分が隆起していた。阿久から譲り受けたきついショーツも、伸縮タイプの元気なキノコを圧縮することはできなかったのだ。


 もしも七恵が普通の中学生だったら、泣き叫んで部屋を飛び出し、誰かを呼んだだろう。しかし、彼女はそうしなかった。微動だにせず歩を見下ろしている。そう、彼女は普通の中学生ではなくハシビロコウ、いや、ゾンビなのだ。


 彼女がゾンビだったことに歩は感謝した。ゾンビだから驚かないのに違いないのだから。とはいえ、彼女が笑い飛ばしてくれそうにも見えない。


 証拠物を布団で隠そうとすると、先に七恵に握られてしまった。パジャマの上から、ムンズと……。まさに、ハシビロコウが捕食した瞬間だった。


「やめてぇー」


 阿久に教えられたように黄色い悲鳴を上げた。とても自然に……。


「女みたいに騒がないで」


 七恵は、一度握ったキノコを戦利品か何かを扱うように、決して離そうとしない。まだ未使用で穢れを知らない歩のキノコは敏感で、今にも菌糸を放出してしまいそうだった。


「心配しないで。私は見た目ほど子供ではないから」


 相変わらずの無表情で言い放つ七恵。


 子供ではない? それはそうだ。ゾンビだもの。……歩は、彼女に誘惑されているのだと思った。だからといって、そうするつもりはなかった。誘いに乗った場合の危険性をよく認識している。ゾンビに噛まれたらゾンビになる。たとえ彼女が本物の少女だったところで、現代社会は子供と老人にだけ優しいのだ。少女と交際しようものなら、それが少女からの誘いだったとしても、ロリコンの変態野郎というレッテルを貼られて人生が終わってしまう。


 七恵が男子の証拠物を握りしめたまま顔を近づけてくる。それがキスを求める行動なのか、ゾンビが血肉を求める行動なのか見当もつかない。ただ、普段は空洞のように感情のない彼女の瞳の中に、燃えるような生命の光を認めた。


 七恵が発するオーラが歩を包む。


「助けて! 神様、仏様、七恵様」


 歩には目を閉じて哀願することしかできなかった。おかげで恐れが快感を凍結し、菌糸の放出を抑えた。


「私は寝ているうちに男の人の布団にもぐりこむ性癖せいへきがあるの」


 目の前に迫った七恵の告白は、甘い囁きやゾンビのそれではなく、――ゾンビが話すのを聞いたことはないけれど――、普段と同じ説明口調だった。それで少しだけ落ち着きを取り戻すことができた。


「夢遊病みたいなもの?」


 確認する声は震えている。


「そう。だから、あなたは男。今まで気づかなかったのは、きっと私が目覚める前に、あなたが向こうのベッドに運んでいたから」


 彼女は、一瞬だけ自分のベッドに目を向けた。


「七恵さんの言う通りよ。私はあなたを移動させたけれど、いけないことはしていない。私が男なのは捜査上の秘密なのよ」


 歩はテレビドラマで憶えた言い訳を並べながら、手を合わせて拝んだ。ゾンビの餌食にはなりたくない。


「わかっているわ。時には謎の老婆、時には令色の美少女、そして時にはサーカスのせむし男……。情報部員は変装するものだもの」


「スパイアクションものも好きなのね。私も好きなのよ」


 話を合わせ、だましていたことを許してもらおうと思った。


「私は、そういった本はあまり読まないの」


「そ、う……」考えが甘かったようだ。


「でも、映画は好き」


「そう! 良かった。それじゃ、ミッション・インポッシブル、スパイ大作戦の始まりだ!」


「おう!」


 七恵の言葉は相変わらず機械のように硬かったがノリは良かった。歩のキノコから手を離して拳を振り上げた。そのチャンスを逃がさず、歩は上半身を起こしてキノコを守った。


「一つだけ聞かせて。あなたが私を向こうのベッドに運んだのは、男だとばれるのを恐れたから? それとも、紳士だから?」


 質問の意図がわからず、彼女を傷つけないように言葉を選ぶ。


「七恵さんが未成年者だからよ」


「そう……」


 彼女が納得できない、とでもいうように小首をかしげた。


 見た目ほど子供ではない、と彼女は言った。彼女は、自分がゾンビであることを、あるいは6年ごとに卒業と入学を繰り返していることを知っているのではないか?……歩は確認したい衝動にかられたが、詩織が言ったように、ゾンビの七恵が暴走することを恐れて自制した。


 朝食を済ませたころには、七恵は歩が男であることを忘れてしまったように、昨日と同じようにふるまっていた。


 彼女がトコトコと図書館に向かっていく。歩は、その背中を見送った。


 男とばれた以上、玉麗と今後の対応を検討しなければならない。歩は、学園を抜け出してタクシーを拾った。


「宝会計事務所にやってください」


「宝会計事務所?」


 運転手はその場所を知らなかった。当然といえば当然だ。会計事務所など、多くの市民には縁のないものだ。


 ふと、運転手の熱い視線に気づいた。ルームミラーを通して歩を見つめる彼の目が、不可解なものを見るような色をしている。


 女装を見破られたかもしれない。……胸がドキドキ鳴る。


「一階に福労という居酒屋が入っているビルです」


 賢明に平静を装った。


「ああ、あそこね」


 運転手はアクセルを踏んだ。走り出してからも彼は、何度となくルームミラーに視線を走らせた。


 歩は人間性を疑われているような不快感を覚えた。すべては女装を強要した玉麗のせいだ。憤りと恥ずかしさを胸に、窓越しの景色に目をやった。山の斜面や川の土手、家々の庭先の緑が濃くなり始めていた。梅の花は満開で春爛漫はるらんまんといった景色だけれど、歩はそれを楽しめない。


 女装男子を馬鹿にするな!……運転手に向かって心の中で叫んだ。


「お帰りアユミ」


 宝会計事務所で真っ先に迎えたのは、春休みで退屈していた栄花だった。それに比べれば玉麗は冷たい。


「結果も出さずにのこのこと戻って来たのじゃないでしょうね。敵前逃亡は銃殺よ」


 歩は、殺してください、と応じたかった。しかし、別の感情に驚いてできなかった。玉麗の塩対応にホッとする自分がいたのだ。


「年度末の仕事は今が佳境、邪魔するなよ」


 忙しいと言いながら、阿久がスカートをまくりあげて歩の下着を確認する。


「心配しないでください。寮には阿久さんにもらったショーツしか置いてないんですから」


「なるほど。環境がそうさせているのだな」


 阿久は歩の適応力に満足し、自分の席に戻った。


「何か、相談事があって来たのでしょ?」


 好子の質問は的確だった。


「そうなんです」


「ソウダンです」


 歩の真面目な話を、お茶を運んできた梅世が駄洒落だじゃれに変え、自らプッと吹いた。


「質問など、電話で十分だろう」


 玉麗はどこまでも冷たい。


「アユミちゃん、お茶どうぞ」


 梅世が応接テーブルにお茶を置く。


「僕は、アユムです」


 吹いた彼女の唾が入っているかもしれない。そのことも含めて強めに抗議した。


「いいじゃない、今は美人女子大生なのだから」


 梅世が抗議を受け流し、おほほと笑った。


「それで、相談とはなに?」


 玉麗が歩の前に移動した。


「同室の福島七恵という女の子に、男だとばれてしまいました」


「なんだって!」


 玉麗は叫び、同時に出されたばかりの熱いお茶を歩に掛けた。


「アチチチ……、何をするんですか!」


「ドジな奴は、お仕置きだ。そこになおれ。その素首そっくび、切り落としてくれる」


 玉麗はデスクからベネチア土産のペーパーナイフを取って振りかざした。


「僕の首は紙ですか?」


「ふん。紙以下よ」


 玉麗は鼻を鳴らし、ペーパーナイフで2度宙を切った。


「仕方がないじゃないですか。寝ていた時にばれたんです」


「寝たですって! 淫行いんこうしたの?」


 梅世が興味津々……、給湯室から飛んで戻った。


「淫行ってなあに?」


 尋ねる栄花の耳を好子がふさいだ。


「違いますよ。朝……、見られただけです。ちょっと、触られたけど……」


 歩は、何をどう話したものか、混乱していた。しかし、玉麗には伝わったようだ。


「馬鹿者! 息子は、ちゃんとしつけておきなさい」


 言った当人が顔を赤らめている。


「息子? アユミには子供がいるの?」


 栄花が首をかしげる。


「まぁまぁまぁ、もう少し話を聞きましょう。本来の調査は進んでいるのか?」


 阿久が助けに入った。行動の動機は好奇心に違いなかったが……。


「いくつか不審な点が見つかりました」


「聞こう。話しなさい」


「学園長は過去を見る魔法を使うことができるそうです。それを使えば犯人を知ることができるのに、鱗の捜索を依頼してきました。その能力を、盗難現場にいた七恵という生徒も知っていましたが、事件当時は、それを使うべきだと言わなかった。そんな魔法があると話したのは、つい先日のことです。……謎はもう一つ。彼女にそっくりの女子高校生が一昨年に高等部を卒業していました。吾妻小百合という名前だったのですが、彼女が名前を変えて中等部に入学した形跡があります。卒業アルバムを見ると、それ以前も6年ごとに同じ顔が載っているのです。不思議だと思いませんか?」


「世の中には、そっくりな人間が3人いるのよ。写真だけで再入学したと判断するのは早計だわ」


 玉麗が鼻で笑った。


「七恵さんが50年以上前から生きているゾンビだと疑っている在校生もいます」


「ゾンビなら、生きてはいないわよね」


 玉麗の突っ込みは論理的だ。


「え、ああ、そうですね。……でも、僕を男だと見破った時、彼女自身が、自分は見た目ほどには若くないと言いました。卒業文集で確認したのですが、好きな作家も彼女は2年前に高校を卒業した瓜二つの女子高生と同じです。それらを総合すると……」


「七恵ちゃんは男に慣れている」


 阿久が言った。


「そうじゃなくて」


「学園長と福島七恵には秘密があり、人魚の鱗の盗難と何らかの関係があるということね」


 歩をからかうのに飽きた玉麗がまとめた。


「そ、そうです」


「私は、ゾンビだの神様だのというのが苦手だわ」


 玉麗がため息をついた。


「玉ちゃんが好きなのは、金だけだものなぁ」と阿久。


「うん。私が信じるのは、金だけよ。それで、学園長には魔法とやらのことを訊いててみたの?」


「学園長は出張していて確認できませんでした。方々の神社仏閣を回り4日後に戻るということなので、戻り次第に確認しますが、おそらく、過去を見るための準備のための旅だと思います。戻ったら過去にさかのぼり、犯人が特定できるはずです」


「その魔法とやらが成功したら、人魚の鱗の所在も知れるということ?」


「はい」


 歩は自信を持ってうなずいた。


「人魚の鱗は学園に戻り、万々歳」


 玉麗が拍手をした。


「転売されていたらダメですが……」


 胸の中に嫌な予感がじんわり広がっていた。


「歩、お前は馬鹿か!」


 玉麗がえ、再びペーパーナイフを逆手に握って振りかざした。今度は突きさそうというのだ。


 阿久が羽交い絞めにして制した。


「殺させろ」


 玉麗が足をじたばたさせた。


「僕、間違ってますか?」


 飛びのいた歩は、椅子の背もたれに隠れて訊いた。


「学園長の力で人魚の鱗が戻ったら、私のところには……、いや、事務所に金が入らないじゃない。ただ働きするつもり、ん?」


 玉麗が目を三角にして歩を睨みつけていた。


「あ……、すみません」


 歩は自分の浅慮せんりょに気づいた。


「そんなことも考えないで、調査していたの、ん?」


「すみません」


 下げた頭が背もたれに当たる。ゴンと音が鳴り、目の前がチカチカした。


「会計事務所は、ボランティア団体ではない!」


「……」もはや、反応する気力がなかった。


「玉ちゃん、怒ると顔のシワが増えるぞ……」


 阿久がさとし、歩に向いた。


「……七恵という生徒は、アユミが男だと知っても、そのことを誰かに話してはいないのだろう?」


「はい。今のところは」


「それなら、まだ学園内にいて事件解決に関与できる可能性があるということだ。学園長が犯人を突き止めたとしても、人魚の鱗を取り戻しに行く必要はあるからな」


 玉麗の顔が、パッと輝く。


「それはそうね。アユミ、その時には命に代えても、鱗を取りに行きなさい。これを授けるわ」


 彼女は歩の前にペーパーナイフを置いた。


「これは?」


 歩はペーパーナイフを手にした。魔力を持ったアイテムだと思った。


「鱗奪取に失敗したら、その時はそれで腹を切るのよ」


 彼女の瞳が黒く燃えていた。


「は、はい……」


 歩にNOと言う選択肢はない。背筋がしびれた。


「わかったら、学園に戻りなさい」


「がんばれ、アユミ!」


 栄花が肩を落とした歩に声援を送る。


「私が車で送っていくわ。栄花もおいで」


 梅世に肩を抱かれて歩は立ち上がった。よろよろと出口に向かう。彼女の広い肩が、とても頼もしく感じた。


「待ちなさい」


 3人を呼びとめたのは玉麗だった。


「せっかくここまで来たのだから、福労で食事をしていきなさい。今日は私がおごるわ」


「ラッキー」


 梅世が喜び、歩を引きずるようにして階段をおりた。


「ランチを奢ってもらうだけで、そんなに嬉しいのですか?」


 叱られたばかりの歩は食欲がなかった。そんな自分を目の前にして、彼女が喜んでいるのが不快だった。第一、福労と宝会計事務所は提携していて、何でも半額で食べられるのだ。おごってもらったところで恩恵は少額だ。


「アユミちゃんにとってはたったの300円でも、我が家では恩恵が倍なのよ。600円のお得。母子家庭はなにかと苦しいんだから。栄花、パパが欲しいわね?」


「うん。私、パパがほしい」


 梅世が意味ありげに歩を見つめ、腕を引く手に力を込めた。

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