第10話 吾妻小百合

 歩はいつもの夢を見た。玉麗の前でタブーにあわせて踊る夢だ。


 息苦しさを覚えて目を覚ますと、昨日と同じで七恵が胸に乗るようにして寝ていた。時刻は午前5時。水玉模様のパジャマ姿の七恵を抱き上げてベッドに戻し、浴室で薄い髭と脇の下の毛を剃る。


 身支度を済ませて洗面所を出ると、七恵が寝ぼけ眼でベッドに座っていた。


「ごめん、起こしちゃったね」


 シャワーの音が大きかったのだろう。


「いいえ」


 七恵は首を振るとパジャマを脱いだ。小さな身体に似合わない乳房が揺れている。


 歩は慌てて背中を向けた。七恵はロボットではないと思った。ロボットに乳房は必要ない。


 歩は買っておいたパンと牛乳を朝食にした。七恵は何も食べなかった。


「朝食をとらないと成長しないわよ」


 言ってから、七恵の豊かな胸を思い出した。無駄なアドバイスだった、と苦笑した。


 2人は、それぞれの持ち場に向かった。七恵の持ち場は図書館の地下と決まっていたが、歩の向う場所はまだ決まっていない。


 歩は、考えあぐねて学園長室を訪ねた。朋恵は喜んで迎えてくれた。


「調査は進んでいますか?」


 彼女はひどく疲れているようで、机の上に山積みになっている古い本や巻物と同じような顔色をしていた。


「ええ、何かの研究ですか?」


 調査が進んでないのを質問で誤魔化す。


「いろいろと、やるべきことは多いのです」


 朋恵が歩の視線を追って応えた。


「霊異学ですか?」


「ええ」


「人魚も霊異の一つと考えていいのですね」


「もちろんそうです」


「八百比丘尼……。そう、比丘尼の話を聞かせてもらえますか?」


 歩は、自分が何をすべきかわからず、最初に頭に浮かんだ単語を口にした。


「それをどうして?」


「七恵さんに聞きました」


「それなら私が話す必要もないでしょう。彼女のほうが詳しいのですよ」


 それは意外な返事だった。中学生が国文学の博士号をもつ学園長より詳しいと言うのだから。


「彼女は、どうしてそれほど詳しいのですか?」


「たくさんの本を読んでいるからよ」


 朋恵が七恵と同じことを言った。


「語学にも通じているようですね」


「会話はできないと思うけれど、文字なら数カ国を読み書きできると思います」


「どうしてそんなことができるのでしょう?」


「本や文字が好きなのでしょうね」


 そんなものか、と歩は納得した。


「この学園の人魚の鱗にまつわる話も聞きましたが、七恵さんの言うことに間違いはないと思っていいのですね?」


「もちろんよ。それが、盗難事件と関係あるの?」


「それは分かりません。特に物的証拠らしいものがないので、あらゆる観点から調べようと思っています」


「それは感心だわ。よろしくお願いしますね」


 朋恵は教師らしく頭を下げずにものを頼んだ。


 ふとアイディアが浮かぶ。


「では、お願いがあるのですが」


「私にできることなら何でも協力しますよ」


「この学園の理事、学園長、事務長などの経験者の名簿を貸していただけないでしょうか? 連絡を取ってみたいのです」


「彼女たちのなかに犯人がいるということですか?」


 朋恵の顔に緊張が走る。


「それは分かりません。一つ一つ可能性をつぶしたいと思います」


「わかりました。そういうことでしたら」


 彼女が引き出しからファイルを取り出した。


「ここにすべて入っています。相手は、地位もプライドもある方ばかりだから、取り扱いと対応には注意してくださいね」


 言葉を交わしながら、歩は何となく学園長の机の上に並べられた書物のタイトルを読んでいた。除霊や祟り、悪魔祓いといった禍々まがまがしい文字が並んでいて背筋が寒くなるのを感じた。


「あのう……」


「なんでしょう?」


「本当に祟りや呪いみたいなものはあるのでしょうか?」


 歩は本のタイトルを指す。


「私はあると思っているから研究しているのですよ」


「そうですね、失礼しました」


 彼女が人魚の鱗の狂信的な信奉者だったことを思い出して学園長室を後にした。


 こんな仕事をさせられている自分も何かに祟られているのかもしれない。そんなことを考えながら長い廊下を図書館に向かった。


 図書館で朱里を目にした。昨日同様、彼女は情報機器コーナーでパソコンに向かっていた。彼女の姿を横目で見ながら階段を上り、昨日と同じ見晴らしのいい学習室を占領した。


 歩は、名簿に載った人物全員に連絡を取ろうと考えていた。彼らが盗らなくても、その人の口から秘密がもれた可能性もある。そうした人物のアリバイを確認していけば真犯人に遭遇するかもしれない。行き当たりばったりの作戦だ。


 名簿の氏名はアイウエオ順に並んでいた。さっそく電話を掛けた。


「もしもし、聖オーヴァル学園長をされていた海野美咲うみのみさきさまでしょうか?」


『お宅は?』


「聖オーヴァル学園の鳴門と申します」


『何か御用?』


「実は3月3日にお見かけしたものですから」


 相手がいた場所を確認できたらアリバイが確認できる。そこから人魚の鱗の話題に移るかどうかは状況次第だ。


『3月3日、……どこにいたかしらね』


「お忘れですか?」


『もう、昨日のことだって覚えていないわよ。私もぼけたわね。自分ではもっとしっかりしていると思っていたけれど。こんなだから成りすまし詐欺にあうのよね』


「だまされたのですか?」


『そうなのよ。去年の3月に、558万円も取られたわ』


「それは大変でしたね」


 数日前の行動を忘れているのに、昨年だまし取られた金額は正確に覚えているのだから、人間とは不思議な生き物だ。


『それで、何の御用?』


「3月3日ですけど……」話は無限ループに陥った。


 暇を持て余している高齢者との話は意外と盛り上がって、1時間以上も話し続けた。


 別の電話では、相手が出るなり『山』と言った。何を言っているのかわからずに戸惑っていると30秒ほどで切れてしまう。掛けなおすと、再び『山』と同じ声がする。


 古い合言葉だろうと気づき「川」と応えると、『合格。静子ね』と自分の娘と錯覚し、何でも話してくれた。


 そうやって5件ほど電話をかけただけで、電話作戦の難しさを痛感した。相手は上品な老婦人といった声ばかりだったが、ほとんどの相手は詐欺を疑って話にならず、3月3日のアリバイを確認するところまで話が進まない。まして、人魚の鱗の存在を誰かに話したことはないかとか、家族や知人の誰かが聖オーヴァル学園の宝物に関心を示していなかったかとか、尋ねられるものではなかった。


「せめて人魚の鱗が盗まれたと言えたら楽なのだけれど……」


 話のきっかけを探すために地下の保管庫に下りた。


「歴代の理事長や学園長の情報はない?」


 昨日と同じ作業をしている七恵に尋ねた。


「卒業アルバムを見れば、理事長も教職員の経歴や顔がわかります。階段を上った右側にアルバムが並んでいます」


 彼女が即答した。


 歩は教えられた場所に足を運び、昨年の高等部の卒業アルバムを開いた。理事長と学園長の写真が見開きで並んでおり、次のページには理事長と学園長を中心に教職員の並んだ集合写真があった。


 写真の隈川と朋恵の表情が硬いと思いながら、一昨年のアルバムを手にした。そこに載った理事長と学園長も同じ顔だ。教員の顔写真を見ながら、彼らの名前を使って電話をかけたらどうだろう、と考えた。


 何気なくページをめくると、卒業生の最初のページに七恵の顔があった。髪型はロングで銀縁メガネをかけているところは今と違う。


「まさか?」


 写真の名前は吾妻小百合あづまさゆりとなっていて、クラブ活動のページでは読書クラブに、委員会では図書委員会に所属していた。他人の空似だと思いながらも、人魚の鱗の捜索に行き詰っている歩にとって、七恵のそっくりさんに好奇心を向けるのは格好の逃げ道だった。


 アルバムの下の棚に卒業文集が並んでいたので、同じ年の卒業文集を取り出して吾妻小百合の作文を探した。見つけた作文のタイトルは『カミュとの出会い』だ。七恵が好きな作家のひとりにカミュを上げていたのを思い出す。


 念のために3年前の中等部の卒業アルバムも調べた。そこにも吾妻小百合の顔はあり、ヘアスタイルもメガネも同じものだった。所属するクラブと委員会も同じだ。彼女は3年間成長していないように見える。


 歩は、本来やるべきことをすっかり忘れ、吾妻小百合のデータを探すことに夢中になっていた。普通に進学していれば大学2年に籍を置いているはずだが、寮生に吾妻小百合の名前はなかった。SNSを探しても、それらしい人物は見当たらない。


 図書館を出るとクラブ活動をしている大学生を手当たり次第に捕まえ、吾妻小百合の進路を訊いた。結果、記憶している学生は誰一人いなかった。


 あきらめて鱗探しの電話作戦に戻ったが、ずっと頭の中に吾妻小百合の名前が引っかかっていた。


 夕方、七恵を誘ってコンビニに向かった。相変わらず彼女は歩の手を握って離れない。そうしている彼女は可愛らしいが、卒業アルバムの吾妻小百合を思うと、得体のしれない不気味さを感じた。


 その日は、カップ麺と肉まんを買って寮に戻った。


「ねえ」


 カップ麺ができるのを待ちながら声をかける。


「ハイ?」


 七恵が短い返事をする。


「吾妻小百合って知っている?」


「知りません」


 七恵はいつものように無表情だったが、結んだ口元がひくひくと動くのはいつもと違った。何か言いたそうだ。


「親戚にもいない? メガネをかけたロングヘアの子よ」


 念を押した。


「いません……」


 七恵の瞳に、後悔の色が浮かんで消える。


「ねえ」


「ハイ?」


「スマホは使わないの?」


「持っていません」


「めずらしい。どうして持たないの?」


「要らないからです」


 要らないから持たない。……七恵の考え方は欲求に対して素直だと思った。しかし、そんな生き方をしている日本人がどれだけいるだろう? 皆、世の中にあわせるために、要らなくても持っているものだ。


 その日は、七恵に対する興味を深めながら夜を迎えた。

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