第5話 潜入捜査

 面接、引越、女装……、そしてはじまる女子寮への潜入捜査……。激動の日々に歩は疲れていた。夜は夜で、面接時に踊る自分の姿を夢に見て何度も飛び起きた。


 自室の窓が明るくなり、目覚めた時は頭の中に霧が満ちたようにぼんやりとしていた。シャワーを浴びて頭の中にうずまく汚染物質を洗い流すと、やっと目の前が明るくなった気がした。


 視線を落とすと、少しばかりあったすね毛はすっかりなくなっていて、ガムテープを無理やりはがしたために肌の所々が赤くなっている。鏡の前で薄い髭を剃り、化粧をして聖オーヴァル学園大学の制服を身に着けた。ウイッグはポニーテール。それが気に入っていた。


 鏡の前で思わずクルリと回ってしまう。


「90点」


 思わず鏡の中の自分に点数をつけた。2次元であれ、3次元であれ、女性に点数をつける習慣があった。ヲタクなのだ。……100点でないのは、理想よりも年を取りすぎているから。やはり10代じゃないと……。


 でも、90点は高い方だ。


「くそ、アイデンティティーが崩壊しそうだ」


 男性性を取り戻すために乱暴な言葉を使った。


 足元のスーツケースには女性ものの下着と化粧品が並んでいて胸がざわつく。事件が解決するまで、それらを身に着け、女性になりきって過ごさなければならない。


 何が恐ろしいかといえば、自分がそれになじんでしまうことだ。


「僕は男だ、僕は男だ……」


 鏡に映る女性の顔をした自分に向かって呪文のように繰り返し、アイデンティティーを維持する。しかし、人魚の鱗を取り戻すまでは、女性になりきらなければならない。そうしなければ無職になる。


「逃げちゃだめだ。逃げちゃだめだ……」


 神事のように、言葉を繰り返した。そうして階下の事務所に入る時には、女性になりきっていた。



 ――パチパチパチパチ――


 歩は拍手で迎えられた。「ヒューヒュー」口笛もどきの声もする。阿久がスカートをめくって下着を確認し、「ショーツよし!」と工事現場で行う指さし確認をした。


「アユミ頑張れー」


 そう声援するのは梅世の娘、小学生の栄花だった。


「では、行こうか……」


 笑いをこらえて頰をひきつらせた玉麗が先を行く。歩はコロコロとスーツケースをひいて彼女を追った。全所員と栄花がぞろぞろと着いて歩く様子には滑稽なものがあった。


 歩が車の助手席に乗り込むと、玉麗が結婚式でもあるかのように、あるいは霊柩車が出発するときのように、クラクションを鳴らしてアクセルを踏んだ。


 車はF市の中央にある涅槃山ねはんやまに向かう。それは熊野山、葉山、月山という三つの頂を持つ低い山で、その名の通り古来、修験者たちが修行を行った山だ。見る方角によっては釈迦涅槃像しゃかねはんぞうに見えることから、涅槃山と名付けられたのだろう。釈迦山、霊山れいざんなどと呼ばれることもある。見ようによっては、腰のくびれが色っぽい山だ。


 聖オーヴァル学園は山の南側の中腹、ちょうど釈迦涅槃像の股間にある。車は急な坂道を上った。


「ここは秘密の多い学園よ。しっかり調べてね」


 玉麗が言った。


「所長はどうするんですか?」


「所長と呼ぶな」


「お母さん?」


「馬鹿か、名前で呼びなさい。いや、今日は、お母さんで構わない。私はアユミの母親として送り届けたら帰る。アユミは寮に入るわけだから、24時間体制で調べられる。時間はたっぷりあるのだから、あわてて尻尾を出すんじゃないわよ」


 勤務時間はAM9時からPM5時ではないらしい。労働基準法違反だ。……歩は不満をゴクンとのみこんだ。


「アユミが宝会計事務所の人間だということは、理事長と学園長しか知らない。彼らは、いろいろと取り計らってくれるでしょう。学園長は美魔女コンテストで準ミスになった美人だから、きっと気に入るわよ。でも、アユミが男だということは誰も知らないから、油断してばれないように気をつけなさい」


「え! ちょっと待ってください……」歩は慌てた。「……僕が女だと思われていたら、いろいろとまずいことがあるんじゃないでしょうか?」


「そうかしら?」


「トイレとか、お風呂とか……」


「問答無用。宝会計事務所に勤めるということは、阿修羅道に踏み入ることだと面接時に話したはず。当たって砕けろ。いいわね」


「砕けてもいいんですか?」


「結果を出せば、砕けてもいい」


 ブラック企業だ。……ため息が漏れた。


「ブラック企業だ、と思ったでしょ?……そんなことは結果を出してから言いなさい」


 玉麗が唇の端をあげた。


 車は聖オーヴァル学園の門をくぐり駐車場に停まる。車を降りた玉麗が、トランクからスーツケースを下ろす。


「あ、それはぼくが……」


「馬鹿か。周囲を見てみなさい。編入生に注目が集まっている」


 玉麗の指摘を受けて校舎を見上げると、窓には好奇心むき出しの少女たちの姿があった。55点、72点、40点……。矢継ぎ早に点数が脳裏を横切った。


「歩がここに編入するのは、夜遊びするバカ娘を改心させるという設定なのよ。そんな娘の親は、娘を猫可愛がりにしているもの。荷物だって親が持つ」


 たった今、思いついたのだろう。芝居の設定を話した玉麗がスーツケースを持った。コロコロと気持ちのいい音をさせて先を行く。


「やっぱり、僕、困ります」


 設定とはいえ、荷物を玉麗に持たせては後が怖い。


「僕と言うな、私だ。ワ、タ、ク、シ」


 歩の訴えに、玉麗は耳を傾けない。


「あ……私、困ります」


「ウン、上出来」


 彼女の足が止まることはなかった。


 駐車場の一番近くに建っているのが事務室や学園長室のある管理棟だった。その3階建の建物はレンガ造りのように見せているがコンクリートにレンガを貼ったものだ。似たようなデザインの4階建の校舎が奥に並んでいて、それらは中等部、高等部、大学の順番に利用されていた。更に奥にあるのが図書館で、その東側の7階建の巨大な建物が学生寮。体育館やグラウンドといった運動施設は校舎の西側に並んでいた。


 教職員用の通用口を入ると事務所があり、その隣に学園長室があった。そこで隈川理事長と相馬朋恵学園長が2人を待っていた。


「お待ちしておりました」


 隈川と友恵は恐縮した面持ちで玉麗と歩を迎えた。


「この度はお忙しいところ無理を聞いていただき……」


 応接椅子に掛けた後、隈川が最大級の謝辞を述べ、玉麗が応じた。美辞麗句びじれいくを並べ巧言令色こうげんれいしょくくして賞賛しあい、自画自賛じがじさんを競う世間話になった。その間、学園長と歩は置いてきぼりだ。


 無視され続けた歩のストレスが最高潮に達したころ、玉麗が歩を紹介した。


「今回連れてきたのは、一番若い助手で鳴門アユミといいます」


「な、鳴門……、です」


 アユミという名前はのどを通らなかった。


 ぎこちないのをすかさず玉麗がフォローする。テーブルの陰で、彼女の足が歩を蹴った。


「会計のことはさっぱり理解していませんが、独特の嗅覚は人並み以上なので、今回の仕事にはうってつけです。甘やかされて育ったものですから態度も見た目も男みたいにがさつでご迷惑をかけるかもしれませんが、その時は、ビシビシ、叱ってください」


 玉麗がビシビシというところで語気を強めた。


「いえいえ、どうして。美しいお嬢さまですわ。よろしくお願いしますね」


 朋恵が微笑み、手を差し伸べる。


 正に美魔女だ!……歩は彼女の手を握った。愛情豊かな柔らかな手だった。身体が火照って、顔が紅潮しているのが自分でもわかった。彼女がと認めてくれたことで、女装にも自信が得られた。


 隈川が、仕事の話を切り出した。


「今回は会計処理ではなく、人魚の鱗を見つけていただけるというので感激しています。大学は事件前に春休みに入っていて、先ほど、高等部と中等部の終業式も済みました。明日から来月の七日までは、全学部が春休みになります。子供たちの多くが帰省しますから、学園内の調査は楽だと思います。ただ、事件に子供が関わっていた場合、証言を得られないことになりますが……」


「それは困りましたね」


 玉麗が顔を曇らせると、朋恵が口を開く。


「クラブ活動で帰省しない子供たちも大勢いますから、その子たちの話を聞いてみてください。ただ、福島七恵以外の子供たちは人魚の鱗の存在自体を知りません。そのことをふまえ、調査は内密にお願いします」


「なるほど……」


 玉麗の視線を受けて、歩はうなずいた。彼女が朋恵に目をむける。


「……それで盗まれた鱗ですが、写真のようなものはあるのでしょうか? 物がわかりませんと、探すのも難しい」


「理事長が話されたと思いますが、この学園に昔から伝わる秘宝です。慎重を期するために、写真に収めることもありませんでした。こんなことになるとは、想像もしていませんでしたので……」


 彼女が額の汗を拭いた。


「せめて大きさや形状は?」


「鱗自体は3センチほどで金色をしています。大きさを除けば普通の魚の鱗と見た目は変わりません。それを10センチほどの桐の箱に入れ、金庫に保管しておいたのですが、箱ごと盗まれました」


 隈川が親指と人差指を使って円をつくり鱗の大きさを説明した。


「人魚というと、伝説にある上半身が人間で下半身が魚というあれでしょうか?」


 歩は人魚の存在を信じてなどいなかった。そんなものの説明を、地位も名誉も知識もある大人たちが真顔でするので呆れていた。


「そうです」


 朋恵が真剣な瞳でうなずいた。


「人魚の伝説は色々な地域にあるようですが、多くの場合、作り話です。人魚のミイラといった作り物もあるようですが……」


「私は、当学園のものは本物だと信じています」


 朋恵は断言した。


「この世には、まだ人間の知らないことが山ほどあるのですよ。それなのに、すべてを知ったようなつもりでいるのは、人類の傲慢です」


 理事長が補足した。


 歩には、人魚の存在を信じる理事長と学園長が狂信者に見えた。


「人魚の鱗が学園にあることを知っているのは、どなたでしょうか?」


 歩は視点を変えた。すでに調査は始まっている。


 隈川と朋恵が顔を見合わせた。口を開いたのは朋恵だ。


「当学園の理事長と学園長、事務長を務めた者なら、皆知っています。他には、文科省大臣経験者、福島七恵という生徒になります」


「文部科学大臣も?」


「ええ、引継ぎがなされていればということですが。……届け出をしたのは大戦前ですから、もう百年も前のことになります。その時に鱗についた価格が帳簿の1千万円なのです」


 それ聞いて歩の喉が鳴った。百年前の人間が迷信を信じたのは仕方がないとしても、それを後生大事に引き継いでいるなんて愚かだ、と思った。


「関係者が知人に漏らした可能性もあります。実際、政治家や経済人、中国の富豪から人魚の鱗を売ってほしいという申し出が再三あります。その度に、そんなものはないとお応えしておるのですが、なかなか信じてもらえません」


 隈川が付け加えた。


「彼らは、何故、人魚の鱗が欲しいのでしょう?」


 それまで興味がなさそうだった玉麗が訊いた。政治家や経済人が関心を持っていると聞き、儲け話の匂いを嗅ぎつけたのかもしれない、と歩は思った。


「伝説の通り……」隈川が声を潜めた。「……それが不老不死の薬となるからです」


 玉麗と歩は顔を見合わせる。


「まさか……」


 2人の声が重なった。


「信じるかどうかは自由ですが、秘めた力があろうとなかろうと、万が一ということがあります」


「といいますと?」


 玉麗が首を傾げる。


「人魚の鱗は人の命を奪うかもしれないのです」


「不老不死の薬になるものが、人の命を奪うのですか?」


「ご存じのとおり、毒と薬は使い方次第ということです。財部先生には先日申しあげましたが、人魚の鱗が所有者の寿命を縮めるという言い伝えがあります。また、人魚の鱗のことが世間に知れ渡れば、それを奪い合い、殺し合いが生じるかもしれません。悪人が不死になっても困ります。自分が不死だと分かれば、悪事を行うでしょう。何よりも、死の概念が変わることの世界に及ぼす影響が大きい」


 隈川の話は、歩には難しかった。


「福島七恵という生徒が、人魚の鱗のことを知っているというのが不思議なのですが?」


「彼女は特別な存在なのです」


 朋恵が応じた。


「人魚の鱗を疑うあなたは、七恵のことも疑うでしょう。でも彼女は、この世でただひとり、鱗の力の影響を受けない鱗の管理者なのです」


 隈川の刺すような視線が歩に向いていた。


「鱗の管理者?」


「言葉にとらわれないでください。七恵のことは鱗の紛失とは関係のないことです。それは話してみればわかるでしょう。アユミさんには七恵と同室にしてもらうよう、学園長に頼みました。感情表現の下手な14歳の子ですが、学園内のことには詳しいので助手として使ってください。お役にたつはずです。それと、彼女が鱗を取ることはあり得ませんので、彼女を調査対象にする無駄は避けてください。我々には時間がないのです」


 彼は真剣に語っていた。しかし歩は、彼の説明に納得していなかった。

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