第4話 女装という助走
初仕事の日、歩は午前8時30分に事務所に入った。自分が一番乗り、そう考えていたのだけれど、すでに全員の姿があった。会計士が3名とパート事務員の梅世だ。おまけに彼女の小学生の娘までいる。得意げだった気持ちがぽきりと折れた。
「遅れてすみません」
歩は、自分が始業時間を勘違いしていると思った。
「いいのよ。試用期間だから、戦力外だし……」
玉麗の言葉に心がえぐられる。これは恋なのか……。いや、パワハラというやつなのか?
「少し早いけれど、全員そろったから挨拶といきましょうか……」
阿久が音頭を取ってなし崩し的な朝礼が始まる。
「……今は年度末で会計事務所も忙しい。丁寧な説明はできないから歩君は戸惑うこともあると思うが、よろしく頼むよ」
いい人だ。……阿久の言葉に歩はほっと息をつく。一生、阿久先輩についていきます!……心の中で誓った。
「それじゃ新人君、こっちへ来て」
梅世に呼ばれて席に着いた。
彼女から就業規則の説明を受けた。それで遅刻はしていないことを知った。他の社員が早すぎるのだ。
それから雇用契約や雇用保険等、もろもろの書類にサインをさせられた。いろいろな説明も聞いたが、内容は頭に入らなかった。何分、梅世が話す内容は、用語も言い回しも難しすぎた。それがビジネスというものらしい。歩は思い知らされた。
「ごみの日は……」
梅世が話始める。その言葉はわかった。
「それは昨日、引越しで聞きました」
思わず遮さえぎった。
彼女がニッと笑う。
「よかったわ、やっと独身男が採用されて。私も独身ですから……」
それも、昨日聞いたことだ。彼女の娘にも、会った。
「……ヨロシク」
梅世が右手を差し出している。
まさかの逆セクハラ?……歩は仕方なくその手を握った。
「お子さんがいましたよね」
確認したのは自分の身を守るためだった。
「あら、バツイチを差別するの? そういうの、セクハラっていうのよ」
梅世から笑顔が消えた。
「いいえ、そういう訳では……」
社会人は難しい。……口を閉じた。
「完熟マンゴーに完熟メロン、完熟トマト。何でも完熟の方がおいしいのよ」
彼女は自分が完熟女だとアピールするが、美少女ゲームを愛する歩から見れば、枝から落ちたトマトだ。
「子持ちシシャモですね」
歩は心にもないことを言う。シシャモなら、子持ちの方が価値がある。
「そうそう。子持ちを馬鹿にしちゃだめよ。美味しんだから」
梅世の機嫌が戻る。
「いいかしら?」
玉麗が目の前に座った。
「実は、取引先で事件があって貴重品が盗まれたのよ。それを探す約束をしたの」
「ハァ、盗難品の捜索ですか?」
歩は首をひねった。盗品探しが会計事務所の仕事とは思えない。
「そういうこと。犯人を捜すのではなく、盗まれたものを取り戻す」
「そういうのも会計事務所の仕事なのですか?」
「まさか。うちは決算をまとめたり、経営上のアドバイスをしたりするのが仕事よ。物探しは今回だけの特別サービス。盗まれたものがないと、決算が締まらないばかりか、取引先がつぶれてしまうかもしれない。だから特別に探すことにしたのよ。その仕事を君に任せようと思う」
「えぇ!」
歩はうろたえた。採用されたとはいえお試し期間。チョンボをしたりドジを踏んだりしたら取り消されるかもしれない。
「歩は新人だけど、物探しという意味ではこの事務所の全員が
「とはいっても……」だまされないぞ。……歩は眉に唾をぬる。
「
褒められた?
「僕なんかにできますか?」
「できる!」
歩は玉麗に丸め込まれた。
「とにかく捜索を急いで。決算を締める31日までに探しなさい。場所は聖オーヴァル学園。そこは小さな学園だけど、なぜか政財界とつながっていて金持ちの娘が多い。事業拡大のためには押さえておきたいクライアントなのよ」
玉麗の顔がにんまりしている。形の良い唇の端から、今にも涎がこぼれそうだ。
「あそこは男子禁制です」
歩の声に彼女の顔が引き締まる。
「そうなのよ。あそこに入れる男は理事長だけ。それ以外は、教師でも庭師でもお掃除のおばちゃんに至るまで、女性でなければなららない。だから、アユム。今日から君は、鳴門アユミよ」
そう言った彼女は、バンとテーブルを両手でたたいて身を乗り出した。
掃除のおばちゃんはもともと女性だろう、と突っ込みを入れるより早く、玉麗が聖オーヴァル学園大学の制服をテーブルに広げた。
ドキン、と歩の胸が鳴る。
「これを着なさい。借りた制服よ。そしてこれ。胸はBカップ。悪くないでしょ」
彼女がウイッグとブラジャーを置いた。
「ブラジャーも学園のものですか?」
「それは私のよ」
梅世が笑った。
「やだ……」
逃げようとした歩は、梅世に羽交い絞めにされた。
「止めてください!」
「おだまり!」
玉麗と梅世が歩の衣類をはぎ取り、ウイッグをかぶせ、制服を着せた。制服は白のブラウスと濃紺の気品漂うツーピース。スカートから突き出た足にすね毛が目立っていた。
「やっぱり、タイツは必要ね」
梅世が目を細めた。
「タイツなんて……」もったいないとつぶやきながら玉麗がガムテープを取った。それを、すねに素早く張った。
「エッ?」
歩の目が点になる。
ビリビリ……、音と痛みが歩を襲った。
「ヒー」
歩の喉が鳴った。目尻から涙がこぼれた。
「痛いですよ」
「ごめんなさいね。ふいてあげる」
梅世が、歩の涙をふきながら化粧をほどこした。
「意外といい女に見えるな」
玉麗が頭の先からつま先まで視線を走らせる。その瞳にかすかな嫉妬が燃えていた。
「私より綺麗」
梅世がため息をついた。
「潜入するなら僕より金田さんのほうが適役ですよ」
歩は最後の抵抗を試みた。
「それが無理なのよ。好子は女性恐怖症なの。おまけに3月は決算で忙しい。猫の手も要るから歩を採用したのよ」
「僕は猫ですか……」
全身から力が抜けた。
「猫でもネズミでもいい。とにかく、鼻を使って人魚の鱗を探しなさい。それが終わったら、大量のデータ入力とコピー、ホチキス止めが待っているわよ」
玉麗が人差指で歩の鼻をツンツンと押した。
「人魚の鱗って、なんですか?」
歩の好奇心がざわついた。人魚やゾンビはアニメの定番キャラだ。だからといって現実にそんなものが存在すると思っていない。
「鱗は鱗じゃないかしら? 私にはわからないけど、帳簿価格1千万。10億出しても欲しいという人もいるらしいわ」
「人魚や河童のミイラはネットで見かけます。ゲームやライトノベルでも使われるけど、陳腐なネタです。人魚の鱗なんて作りものに決まっていますよ。そんな物のために女装して探すなんて、馬鹿げていませんか?」
歩が疑問を投げると、玉麗は歩の
「歩は宝会計事務所で働くつもりがあるの? 取られたのが金だろうが、核爆弾だろうが、陳腐な人魚や河童のアイテムだろうが、帳簿に人魚の鱗と書かれていたら、それは人魚の鱗なのよ。それが本物か偽物かは、別の次元の問題なの。その評価を見直して数億の利益を計上するのか、あるいはゼロになってしまうのか……。それが、聖オーヴァル学園に突き付けられた会計上の問題なのよ」
「そんなに重要なことなら、尚更、警察や探偵事務所に頼むべきです」
歩は精一杯の勇気を振り絞って正論を言った。
「それができないから、クライアントは私を頼ってきた。それに応えられないようじゃプロといえない。一流の会計士になりたかったら、金と帳簿の奴隷になりなさい」
玉麗の言葉は冷酷で、太ももに触れた手も冷たかった。
「阿久さん、できたわよ」
梅世がドアを開けて呼んだ。
阿久が姿を見せ、子供のように顔をほころばせる。
「ビュティフル! 俺の思ったとおりだ。これならどこから見ても女性だよ。玉ちゃん、俺のアドバイス通りに採用してよかっただろう?」
夜の世界に詳しい阿久は、面接時に踊った歩を見て使えると確信した、と話した。玉麗は、フンッと鼻を鳴らしてそれを無視した。
「どんな仕事でも真剣に取り組めば楽しくなるわよ」
梅世がふくれっ面の歩をはげましながら、スマホで写真を撮る。
「よぅ、アユミちゃん。今度、飲みに行こう」
阿久が歩の上げ底の胸をムンズとつかむ。一生ついていくと誓った彼に裏切られた気分だ。
「なにをするんですか?」
「アホ、こういう時は叫ばないと。ヤメテーって、な」
彼は言いながら、スカートの中に首を突っ込んだ。
「ギャー、ヤメテー!」
思わず阿久を突き飛ばした。彼がゴロンと床に転がった。
「だめだめ、全然色っぽくない。ギャーじゃない、キャーだ」
阿久がニヤニヤしながら身体を起こした。
「僕は男です」
「女性になって調査するんじゃないのか? そうしなければ就職浪人なんだろう?」
「それはそうですが……」
痛いところを突かれ、抵抗する気力が失せる。
「しかし、ぜんぜんダメだ」
阿久が至極残念そうにため息をついた。
「どういうことよ?」
玉麗が不服げに訊く。
「パンツだ」
「パンツ?」
「何でトランクスなのだ?」
「ブリーフは蒸れるじゃないですか」
歩は答えた。物心ついたころからトランクス派だった。
「どっちも男ものだろう?」
「僕は男です」
「アホ! 芝居というのはなぁ、心が大切なのだ。見えないところから役を作りこむ。それが原点だ。芝居だけじゃない。日本のモノづくりの精神も同じだ。見えない場所だからといって手を抜くな。女性になりきるためには下着だって女物にすべきだ。ちょっと来い」
阿久が歩の腕を取った。
彼の席まで行き、引き出しを開ける。彼が取り出したのは、大量のショーツだった。周囲に甘い匂いが広がる。
「俺が大切にしているものだが、可愛い後輩の門出だ。全部やろう」
「なんですか、これ?」
歩だけでなく、玉麗や梅世も、その薄い布地でできたものを広げて観察した。好子だけは無関心で、パソコンに向かって黙々と仕事をしていた。
「おまえ、そんなこともわからないのか? ショーツだ。清純な白。キュートなピンク。情熱の赤。ミステリアスな紫。長い潜入捜査になる。このくらいは必要だろう」
「ショーツだということぐらい僕にもわかります。まさか、阿久さんが身に着けたものですか?」
実際のところ、ショーツに触れるのは初めてだった。
「アホか。俺は変態じゃない。取引先のラブホテル経営者からもらったものだ。客の忘れ物らしい。ちゃんと洗濯はしてあるそうだ」
忘れる?……歩には状況が想像できない。
「でも忘れ物なら警察に届けないと」
「おいおい、忘れた本人が忘れたと名乗ると思うか? 結局、引き取り手のない下着は処分される運命にあるのだ」
「阿久さんの引き出しの中に、ですか?」
「おまえは〝もったいない〟という言葉をしらないのか? 日本の良き伝統だ。ケニアのガリガリ・オマタは、MOTTAINAIと唱和して2004年にノーベル平和賞を受賞したんだぞ。俺は使える物を捨てるのには反対だ」
「それはワンガリ・マータイです。もったいないと言い出したのは、ノーベル賞を受賞した翌年からです」
「色やデザインが違うだけなのに、男はこんなものに興奮するのね」
やって来た好子が、レースのショーツを広げて感想を言った。
「とにかくこれにしろ。もったいない、もったいない」
阿久が呪文のように〝もったいない〟と繰り返しながら真っ赤なショーツを歩に握らせた。
「阿久さんに何とか言ってくださいよ」
歩は玉麗に救いを求めた。当の玉麗は涙を浮かべている。
「阿久さんの部下思いに感動した。さあ、アユミ、着替えて来い。阿久さんの熱い思いを無駄にするな」
玉麗が歩の背中を押した。
「これからアユミは重要なミッションに挑むのだ。女装はそのための助走にすぎない。この程度のことができなくては、会計士は務まらないぞ。真剣にやれ」
阿久の訓戒を受けた歩は、梅世の指導の下、女性的な仕草や化粧、裏声のトレーニングを積んだ。赤いショーツが股間に食い込んだのは、努力の証だった。
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