第3話 就活の悪夢

 F市立大学経済学部4年、現代文化愛好会副会長の鳴門歩なるとあゆむはハローワークでもらったA4サイズの資料を手にして、1階に福労ふくろうという、まるで福岡労働基準監督署を、あるいは福島労働基準監督署をあるいは、福井労働、……並べだしたらきりがないけれど、そういった労働基準監督署名を略したような居酒屋が入居しているビルを見上げた。


 2階の窓には〝宝会計事務所〟と大きな文字が並んでいる。


 歩は、市内の20社と東京都内の100社にエントリーシートを提出し、30社の面接を受けた。しかし、卒業式を終えた今も就職は決まっていなかった。就職活動に流した血と汗と涙はすっかり乾いていて、人間としての自信を、いや、自覚さえすっかり失っていた。


 大学生活の全てを、現代文化というアニメとエロゲーに注ぎ込み、社会と隔絶した暮らしをしていた付けが回ってきたのだと後悔しているが、後悔先に立たず……。元々、先を想像できなかったから、今に至っているのだ。あと20日ほどで暦は4月になり〝新卒〟という肩書は使えなくなる。……彼には、もう後がなかった。


 歩はビルの端のガラスドアを開けた。ホールの正面に小さなエレベーターと階段がある。事務所は2階なので、呼吸を整えながら、ゆっくり階段を上った。


 宝会計事務所で歩を迎えたのは松竹梅世まつたけうめよ、パート従業員だった。


「いらっしゃいませ。ご相談ですか?」


 梅世がにっこりほほ笑んだ。ビジネスでは第一印象が大切だなのだ。


「いいえ、ハローワークで紹介されたものですから」


 その声は細く中性的だった。


「ハローワーク?」


 人間としての自信を失っている歩は、疑問符のついた言葉を聞いただけで、またダメだ! と創造力たくましく失望した。就活を初めてマイナス情報に接する機会が増えると、誰しもそういった情報に過敏になるものだ。


「すみません。結構です」


 歩は、梅世に頭を下げてきびすを返した。


「合格!」


 突然、事務所の奥から男性の声がした。


 歩の脚が止まった。〝合格〟それがどれほど気持ちの高ぶる言葉か、誰だって知っている。まして不合格を突きつづけられてきた歩にとって、その言葉がどれほどの金言か!……が、すぐに首を左右に振った。


 まてまて、きっと幻聴だ。万が一、合格という言葉が降ってわいたとしても、それは僕のことじゃない。……歩は、考え直して歩み始めた。すると、何者かに右手を取られた。


 振り返ると、いかにも会計士といった風貌ふうぼうの、実際のところ歩が会計士を見るのはそれが初めてだったのだけれど、阿久の顔があった。


「来なさい」


 彼の眼は血走り、鼻の穴が膨らんでいた。歩は貞操の危機を覚え、左手でお尻を抑えた。が、すぐに気持ちを変えた。就職のためなら純潔を奪われてもやむを得ない。覚悟を決めた。


 歩は阿久の手で事務所の奥に連れ込まれた。彼が導いたのは玉麗の机の前だった。


「玉ちゃん、志願兵だ」


 志願兵?……歩は、興奮した阿久の横顔を見た。貞操どころか命が危ない。膝が震えた。


「あなた、会計士なの?」


 玉麗が立ち上がる。


「いいえ、新卒で……」


 ハァー?……玉麗の声が聞こえた気がした。彼女の疑問と不満と怒りのごちゃ混ぜになった感情を歩は察した。


「ハローワークも何を考えているのかしら。私が探しているのは、即戦力よ。自爆志願者じゃないの」


 玉麗は徹夜仕事で濁った瞳を、オロオロしている歩に向かって持ちあげる。


 自爆志願者?……玉麗の視線につかまった歩の思考が停止した。


「こんな少年兵を連れ込むなんて。阿久さんは睡眠不足でどうかしてしまったんじゃないの? 眼も充血しているわよ」


「寝不足は玉ちゃんも同じだろう」


 手を握った中年男の目が充血しているのは、寝不足が理由らしい。歩の下半身の緊張がゆるんだ。


「聖オーヴァル学園の調査にも人手がいるだろう。会計士見習いとして、お試し期間。4月までどうだ?」


 聖オーヴァル学園!……歩は阿久の口元に目をやる。その口から県内NO1のお嬢様学園の名がこぼれ落ちたのが信じられない。現代文化愛好会副会長としての歩の右脳が活性化していた。現実が美少女ゲームと重なった瞬間だった。


「では、助手としての面接をしてみましょう。結論はその結果次第よ」


 玉麗が立ち上がった。


 10畳ほどの広さの打ち合わせ室に、玉麗、阿久、好子の顔が並ぶ。


 歩の心臓は緊張で破裂しそうだった。何分、面接は30連敗なのだ。


「さて、今頃就職活動とはいい度胸ね。その割には線が細い。うちで使えるかしら?」


 自己紹介もそこそこに、玉麗は翡翠ひすいのような瞳で、歩の顔をじろりと品定めした。それは何にも勝るプレッシャーだ。


「確かに彼の風貌は、明治時代の小説内の少女のように線が細くたおやかだ。しかし、今どき、現実の少女にそんな弱々しい女はいない。ある意味、生きた化石、掘り出し物なのかもしれないぞ」


 阿久が目を細めた。


 歩は、2人の言葉を圧迫面接と解釈して受け流す。


「御社も今だに募集中とは、よほど人気のない企業なのですね」


 さあ、反撃の時だ。……アドレナリンが噴出する。


「そう思うなら帰れ」


 玉麗の言葉は冷徹だった。歩は早々と玉砕した。


「働かせてください」


 最終兵器、必殺の土下座を繰り出す。それが必殺技でないのは、内定がないことで明白だが、理解していなかった。それは歩のぼんやりした感性のなせる業だ。


「我が、宝会計事務所は阿修羅あしゅらの国。覚悟はあるのか?」


 本当に地獄というものがあって閻魔えんま大王がいるのだとしたら、こんな顔なのだろう。……玉麗を見上げて歩は震えた。


「もちろん。何でもやります!」


 やる気をアピールすると、好子がスッと手を上げた。


「好子、なんだ?」


「何でもやるという鳴門歩さんに、お願いがあります」


「ハイ。何でも聞いてください」


 好子の優しいもの言いに、歩は天の助けと立ち上がった。


「踊ってみせてください」


「えぇ?」


「何でもやるのでしょう。ここで踊ってみせてください」


 好子が中指でテーブルをトントンとたたいて繰り返した。その瞳は、命令に従うまで何度でもたたき続けるぞ、と宣言している。


 ――トントン、トントン……、音は続いた。


「あのう、ダンスの経験がありません。あ、正確には、中学校の体育で踊ったのが最後です」


 返事を聞いた好子が立ち上がる。


「何でもやると言ったでしょ。ビジネスの世界では、やったことのないものに挑戦するのは当たり前のことよ。教科書やマニュアルがあるわけじゃないの」


 好子が目をむき赤い舌をチロチロのぞかせた。


 歩は、玉麗と阿久に助けを求めて視線をやった。が、阿久はニタニタと笑っているし、玉麗に至ってはうたた寝をしている。


 ――トントン、トントン……、音が鳴る。


 聖オーヴァル学園のためにやるしかない。歩は決意した。


 アニメソングやアイドルグループに合わせたダンスは多い。それはオタクにとってアドバンテージだ。しかし、怖い顔をした会計士たちがそれを理解するとは思えなかった。


 歩は究極の選択をする。


「鳴門歩。踊ります!」


 宣言してテーブルに飛び乗った。


 ――♪チャンチャラ、チャンチャン♪……ラテンドラムのリズムを口ずさむ。――♪パァーァーァーンー♪……ミュートを活用したトランペットの響きを薄い唇で真似る。


 腰を下ろし、片足を上げる。コメディアンが〝タブー〟の音楽に合わせて踊る動画を再現しているつもりだった。


「ちょっとだけよ……」


 ネクタイを緩め、ワイシャツのボタンをはずす。やせた胸があらわになる。


「……あんたも好きねー」


 顔を好子に近づけてウインクすると、好子が頬を染めた。


 阿久が口笛を吹き、玉麗が薄目を開ける。


「なかなか色っぽいなぁ。ニューハーフ・クラブに勤めれば会計士より稼げるぞ」


 阿久が手を叩いて感動を表明した。


「鳴門君、年はいくつよ。そんな古いネタをするなんて」


 玉麗が声を上げて笑い、目じりに涙を浮かべている。


 歩はベルトを外しながら、勝ったと思った。勝利を確実なものにするために、トランクスも脱いでしまおうと決めた。


 玉麗が立ち上がり、涙を拭いた。


「しかし、うちは真面目な会計事務所よ。宴会芸じゃやっていけない」


 彼女は言い残し、打ち合わせ室を出てしまった。


「ちょっと、玉ちゃん……」


 阿久が玉麗を追った。その背中を、歩は呆然と見送った。


 ばか、ばか、ばかぁー。……無言で叫び、テーブルに身を投げる。悔しさに涙がこぼれた。玉麗の涙を、落ちた証拠と考えた自分の甘さを責めた。


「私は気にいったんだけどね」


 涙にむせぶ歩を、好子が慰める。その顔は迷える子羊を救う菩薩に変わっていた。


「ありがとうございます」


 言いながら、よろよろとテーブルを降りる。


 シャツのボタンを留めながら、テーブルの上で踊れと言ったのは目の前の菩薩だったと気づいて腹が立った。


 就職面接だと思うから、清水の舞台から飛び降りるつもりで踊ったのに……。自分という存在自体が、この社会では受け入れられないのだ。そう確信した。


 橋の上から川に飛び込んでザリガニの餌になってしまおう。田舎のお父さん、お母さん。先立つ不孝をお許しください。……陳腐なセリフが頭の中をぐるぐる回った。


「採用するわ」


 突然ドアが開き、玉麗が怖い顔を見せた。背後に阿久のにやけた顔がある。


「ただし条件があります。この事務所の上が独身寮よ。明日、越してきなさい。明後日から試用期間。待遇はアルバイト程度だけど辛抱しなさい。問題なかったら4月1日から正式雇用しましょう。すべての条件をのみなさい。それが嫌なら不採用よ」


 玉麗は一気に話すと、質問は許さない、といった様子で右手を出した。


 歩に選択の余地はない。彼女の手を、恐る恐る握った。

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