第2話 宝会計事務所

 宝会計事務所は殺風景だった。必要な事務用品や設備以外には何もない。壁のカレンダーさえ文字ばかりで、季節を匂わせる写真やイラストもなかった。


 代表の財部玉麗たからぎょくれいは何よりも金を愛していて、季節感などに興味はなかった。3月になれば高校や大学で入試が行われ、すべての学校で卒業式が行われるように、春は勝手にやってくるし、梅や桜の花も勝手に咲くと思っている。自然や時間は勝手に流れ、勝手に去ってゆく。勝手にやってこないのは金だけだ、と信じている。


「玉ちゃん。人を入れてくれよ」


 声を上げたのは50歳になる阿久大貫あくだいかん会計士で、宝会計事務所のエースだった。一番多くのクライアントを抱え、日々奮戦している。奮戦するのが日々であって日夜でないのは、暗くなるとネオン街に出てアルコールと香水の匂いに浸つかるのが日課だからだ。酒と女が好きなのだ。


 阿久がオーナーである玉麗を玉ちゃんと呼ぶのは、玉麗が年下だからだが、玉麗が事務所を立ち上げる際、対等な人間関係を条件に他の会計事務所から引き抜いたという事情もある。


 玉麗は30代で事務所を設立し、10年で地域最大規模の売り上げを誇る会計事務所に育てた。それは玉麗の力だけでなく、阿久の力によるところも大きい。


 今年、44歳になる玉麗は美人会計士として有名で、ぶっちゃけ、その美貌びぼうを受注に利用している。愛想は良くないが、容姿とクールさで顧客の気持ちをつかむのがうまいSキャラなのだ。阿久が年長で、多くのクライアントを抱えているとしても、そのほとんどは玉麗が契約してきたものだから、阿久も一目置いている。


 宝会計事務所には、もうひとり、金田好子かねだよしこという27歳の優秀な会計士がいる。彼女は大学現役で公認会計士試験に合格した秀才で、鉄の女ならぬかねの女として、あるいは〝金だい好き子〟として全国に知られる存在だった。 そんな好子が一地方の会計事務所に留まる理由を知っているのは、本人と玉麗だけだ。


 阿久が人を入れてくれというのには理由がある。3月は日本中の学校で卒業式があるように、日本の企業の年度末決算が集中するからだ。それは多くの企業にとって一大イベントで、会計士や税理士にとっては猫の手も借りたい季節だ。


 決算の事務処理を行うのは4月か5月で、ITが進化した現代では難しい仕事ではない。だが、3月には株主総会や税務申告を見込み、売上や経費額の調整を行うから、この時期の仕事は単なる事務処理ではなく難しい判断や決断を要するのだ。


 夜の街が好きな阿久でも、この時期、2月から4月にかけては徹夜仕事もいとわない。それが、プロだ。


「募集はかけていますよ。事務所はもっともっと大きくしたいから。でも、誰も来ないのよ」


 玉麗は、人を採用しろと言う阿久の意見に応えた。


「もっと力を入れろよ。新規契約を取るくらいのつもりでさ」


「私が手を抜いているというの?」


 玉麗は阿久を見上げた。


「ハローワークに会計士募集の求人票を持って行っただけじゃないか。そんなことで会計士なんて来るわけがない。俺の時みたいに、どこからか引き抜けないのか? それが無理なら、助手でもバイトでもいいから、気の利いたやつを探せよ」


「アルバイトなんて、ドブに金を捨てるようなものよ。私は資格を持った即戦力を探しているの。だからといって、阿久さんみたいに超高額報酬は出せないのよ」


 玉麗は、超高額報酬というところを強調した。


 ちまたの会計士の間では、宝会計事務所の報酬は高いが、それ相応に仕事もきついというので有名だった。阿久や好子のような優秀な会計士でなければ、しり込みしてしまう状況にあった。


 日当たりの良い打ち合わせ室で、玉麗は隈川理事長と向き合った。


「資産に計上されている鱗の除却じょきゃく処理をしたいというのですか……」


 玉麗の声はワインのように甘いのに、口調は事務的だ。


 手元の資産明細表をめくると【鱗 残存価格1千万円】と記載されていて、人魚の鱗の伝説を知らない玉麗は首をかしげた。


「実は盗まれまして」


 隈川は身を乗り出し、押し殺した声で説明した。


「警察への被害届があれば、帳簿から資産を消すのは簡単なことですが……」


「それができないのです。学園は男子禁制、学園の自治を守る点からも警察権力の介入は認められません」


 それが建前の理由だと玉麗にはわかる。


「1千万円相当のものの除却となると、税務署や文科省からの追及があるかもしれません。何よりも、決算が赤字になる可能性があります」


 建前には建前でしか答えようがない。


「何か良い手はないでしょうか?」


 隈川の眼は真剣そのものだった。


 玉麗としても、地元の名士である隈川に恩を売るいい機会だから何とかしようとは思うが、会計にはできることとできないことがある。一線をこえれば犯罪だから、安易な操作はできない。


「この時期に理事長自らおこしになったということは……」


「御察しの通り、来年度早々に文科省へ帳簿を提出しなければなりません。それまでに何とか問題を処理したいのです」


「年度内に鱗を取り戻すか、除却しないといけないわけですね。しかし、除却することで最終利益が赤字になるかもしれません。そうなった場合、どうします?」


「赤字にもするわけにはまいりません。なんとか、ギリギリのところで抑えられないでしょうか?」


 玉麗が同じようなことを繰り返しきいたのは、隈川の意思を確認するためだ。会計処理を税務署が違法だと認定すれば、その類は学園にも及ぶからだ。それなりの覚悟を持ってもらわなければならない。


 決算は結果なのだと割り切れば苦労はないが、現実は、世間の評価を意識するあまりにゆがめてしまうことが多い。その結果で融資が断られたり、事業継続が困難になったりすることもあるから、なんとか繕つくろって見せたいと考えるのは自然な感情だ。


 だが、数字に振り回される人生は虚むなしくないか、と心の内で問いかけるのが常だ。


「時間がありませんね。経費を減らすのは、今からでは無理でしょう。ましてや学校法人では、突然、収益が伸びることはありません。できることは限られますね」


「ええ。こんなことを今頃お願いするのはご迷惑だと分かっているのですが、万が一にも学校法人としての認可が取り消されるようなことになったら、600名の生徒と保護者に多大な迷惑をかけることになります。お礼なら契約の料金の倍、出させていただきます」


 玉麗は、少し考えさせてほしいと応えて隈川を帰した。


 もともと会計事務所の料金は高くない。倍出すと言われても、法に触れるリスクをおかすほどのメリットはなかった。

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