鳴門歩の妖(あやかし)事件簿 ――彼女は呪われた図書委員――

明日乃たまご

第1話 盗まれた人魚の鱗

 宇宙と生命の神秘を探求し続けて三百年の歴史を持つ全寮制の女学校、聖オーヴァル学園。その日は、中等部と高等部の卒業式が行われる日だった。教師や生徒の中にはお祭りに浮かれるような油断があって、学園を守る呪文は形式的な言葉に終わり、学園全体に張られる結界にはほころびが生じていた。それを熟知しているのは犯人ただひとり……。


 生徒たちは寮の1階の学生食堂で朝食を済ませると、身だしなみを整えることや式典の準備に時間を使った。そうした中、中等部2年の福島七恵ふくしまななえは図書館に足を向けた。彼女はゆで卵におかっぱ髪を乗せたような顔をしていた。それで座敷童とかと友人に呼ばれることが多い。それを気に入っているわけではないが、嫌だ、と表明したこともない。


座敷童ざしきわらし、おはよう!」


 声をかけた小山咲良おやまさくらは同級生。背が高く、身長が140センチに満たない七恵の頭をバスケットボールのようにポンポンとたたいて通り過ぎた。たたいた本人はでたつもりだから、世間でいじめ問題が深刻化するのは当然のことだ。


 七恵が振り返ると、脚の長い咲良のスカートがひるがえってピンク色の下着が見えた。中等部の制服はブレザーと、グレーとピンクのチェック柄の可愛らしいスカートで、F市内の少女のあいだでは人気だった。


 七恵は唇の端をヒクリと動かして「オハヨウ」と応じた。が、言葉が唇を離れたころには、足の速い咲良は遠くに去っていた。


 同級生は同級生であって友達ではない。友達ならば、立派な名前のある友人を座敷童などと呼ぶはずがない、と七恵は思っている。たとえ座敷童が幸福を運ぶ妖怪だとしても、妖怪は妖怪だ。妖怪と同一視されて喜ぶ人間はいない。それが七恵の本音だった。


「おはよう」と別の声がする。振り返ると、グレーとブルーのチェック柄のスカートが目に留まる。それは高等部の制服だ。制服の主は七恵と同じ身長の松下朱里まつしたあかりで、ルームメイトの咲良を追っていた。


 学生寮を出る。西隣にある円形の建物が図書館で、卒業式のために、その周囲に人影はなかった。暦の上ではとっくに春なのに、建物や樹木の陰には、砂ぼこりに汚れた雪がとけずに残っている。


 強い北風が、おかっぱ頭の髪をかき乱した。


 七恵は図書館の通用口から入ると受付カウンターの前を通り、沢山の書物に見送られて奥に進んだ。


 地下に下りる階段は、上り階段の裏手の目立たない場所にあって、降りた先の長い廊下の両側には四つずつ防火扉が並んでいる。それぞれの扉の奥には分野別に貴重な書物や古美術品が保管されている。そこに一般の学生や生徒が足を踏み入れることはなく、大学講師や高等部の教師が資料を探しに入るくらいだ。


 廊下の突き当たりにも同じ防火扉が一つあり、扉の横には、まるで人の出入りを見張るように、場違いな中世の甲冑が置かれてにらみをきかせている。そうした地下空間全域が図書委員である七恵のテリトリーで、心の安らぐ場所だった。


 階段の下に水屋みずやがある。七恵はそこでバケツに水をくみ、各防火扉の奥に並ぶ机や椅子を拭いて回る。それが日課だ。突き当りの部屋は、金庫しかない特別な保管庫なので入ることがない。


「あ……」


 ところがその日は、突き当りの防火扉に隙間があった。明らかに誰かがそこに足を踏み入れて、きちんと閉めずに立ち去った痕跡だった。


 結晶化して安定していた心に、楔くさびを打ち込まれたような衝撃が走る。それは咲良に頭をたたかれるのとはわけが違う。


 七恵は乾いた心が久しぶりに激しく動くのを感じた。怒りの感情だ。しかし、その怒りが表情に現れることはなかった。おかっぱ頭の下にある顔は、人形のようにいつも同じ表情をしていた。実際には目や唇の端が動いて喜怒哀楽を表すのだけれど、普通の人にはそれが認識できず、あだ名になるような〝座敷童〟とか〝こけし〟とかいった印象を与えるのだった。


 七恵は防火扉の隙間から奥を覗きこんだ。その先は正面の壁一面に80個、四方の壁を合計すれば203個の大小の金庫が並ぶ異様な雰囲気の保管庫だ。


 室内には誰もいないと確信して扉を引くと、鳥の羽ばたきを超高速度カメラで撮影したように……、簡単に言えば、とてもゆっくりと防火扉が開いた。


 廊下から差し込む明かりが室内をぼんやりと照らす。


「あ……」


 保管庫の壁を埋める金庫には、それぞれに貴重な品が収められているのだが、ひとつの金庫が開いていた。


 七恵は、廊下をパタパタと軽い音をたて、それは七恵の全力疾走だったのだけれど、胸をはずませて階段を上った。


 息を切らせながらカウンターに駆け寄り、インターフォンのボタンを押す。


「学園長、大変です。人魚の鱗が盗まれた」


 七恵はタメ口を利いた。それを許されるのが七恵という存在だ。


 最初にやって来たのは学園長から連絡を受けた米沢紅子よねざわべにこ事務長だった。


「なんてことをしてくれたの」


 小役人のような紅子は、まるで七恵が犯人のように言い、手掛かりのない部屋の中を動物園の虎のようにうろついた。動きは虎だが見た目は大きなキツネザルで、七恵はその姿から目を離すことが出来なかった。


 ほどなく、昨年の美魔女コンテストで準グランプリの名誉を手にした相馬朋恵そうまともえ学園長がメイクをバッチリ決めて駆けつけた。


 学園長の香が漂ってはじめて、七恵の視線は紅子から解放された。


 朋恵は美しいだけでなく、国文学の博士であり、呪いや魔法などの霊異現象の研究者でもある。才色兼備を形にしたような存在は、聖オーヴァル学園の学生、生徒たちの憧れであり目標だ。そんな生徒たちが推薦したので、彼女は美魔女コンテストにも渋々参加したのだ。


「七恵さん。無事?」


 学園長は教育者らしく七恵の身の安全を確認する。


「ハイ」


「そう、よかったわ」


「誰の仕業でしょうか?」


 紅子が思い浮かぶままに尋ねた。学園長が犯人を知っていると思っているはずがないのに……。


「さあ?」


 朋恵が金庫の中を覗きこんだ。


 時をおかずに隈川豊くまかわゆたか理事長が姿を見せた。彼はこの学園に入ることが許された唯一の男性で、ロマンスグレーというカタカナが似合う50代の紳士だ。


「人魚の鱗が。……誰の仕業でしょうか?」


 紅子が、彼にも同じことを訊いた。


「私は今、自宅から駆け付けたところだから」


 彼は自分の潔白を主張するように応じた。


 駆け付けたというには息が上がっていない。七恵は冷静に観察していた。筋肉質の体型を維持するために有名スポーツジムで鍛えているから、駐車場から図書館まで走ったところで息が切れることもないのだろうか?


「結界が破られるとは……」


 神主の資格を持つ彼が自分のふがいなさを口にした。


 3人の大人たちは何度も空っぽの金庫をのぞき込んだ。5度目にのぞき見て初めて、桐の箱に入れてあった人魚の鱗が箱ごと消えた事実を受け入れた。


 人魚の鱗には、食べれば不老不死の力を得るが、ただ持っているだけなら寿命を吸い取られて死に至る、といわれている。その存在は、理事会のメンバーと学園長、事務長、そして七恵など、極ごく少数の者のみが知っている秘密だ。七恵以外の生徒はもとより、教師さえも知らない学園の秘宝だった。


 もっとも、人の口に戸は立てられないと言う。どこからともなく人魚の鱗の情報は洩れ、伝説は他の多くの情報同様にゆがんで伝えられていた。そのために、古美術や珍品の収集家、命を惜しむ富豪などから鱗を売ってほしいという申し出が後を絶たない。


 つい先日も、鱗に10億円の値段をつけた中国人がいた。そんな依頼があるたびに、隈川は人魚の鱗など都市伝説にすぎないと、存在自体を否定していた。


「大変なことになった……」


 つぶやいた隈川が七恵を見下ろす。


「どうしましょう?」


 朋恵も七恵に目をやった。


「警察に」


 紅子が理事長に言った。


 七恵はプルプルと頭を横に振る。


「それはまずい」


 隈川が紅子の意見を拒絶した。


「でも、これは明らかに窃盗です」


「人魚の鱗の存在を公にするのは危険だ。この件は私にあずからせてくれ」


 隈川が、事務長、学園長、七恵の順に顔を見て了解を取った。


「会計報告の時期も近い。私は宝会計事務所に相談に行ってくる。君たちは、今日の卒業式を無事に済ませてくれ。生徒や保護者たちを動揺させてはまずい。くれぐれも、この件が外部に漏れないように。いいね」


 4人は部屋を出て、紅子が防火扉を閉めた。


 隈川は足早に図書館を後にし、朋恵が七恵の肩を抱き寄せた。


「七恵さん、あなたは何も心配しなくていいのですよ。すべて上手くいくはずです」


 彼女が七恵を安心させようとしていた。


「うまくいくとは、どういうこと?」


 七恵が言い終るより早く、朋恵は背中を見せていた。


「さあ七恵さん。卒業式の準備ですよ」


 七恵は紅子に追い立てられた。

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