第6話 シスター

 朋恵がインターフォンを押して事務長を呼ぶと、キツネザルのような顔の紅子がおかっぱ頭の生徒を連れてきた。


「中等部2年の福島七恵さんです。こちらは鳴門アユミさん。大学3年に編入してきました。人魚の鱗の捜索もお願いしています。校内のことを色々おしえてさしあげてね」


 学園長が紹介すると、七恵は大きな瞳を歩に向けた。


「よろしくお願いいたします。アユミお姉さま」


 七恵は小さな声で言い、静かに頭を下げた。腰から90度、直角に上体を曲げている。それが学園の作法だ。


「お姉さま?」


「シスター制度といって、同室の先輩のことをお姉さまと呼ぶのです。同室でなくても気に入った先輩をお姉さまと呼んでいる子もいるようです。本来、先輩が後輩に日常生活上の作法を指導するための仕組みです」


 朋恵が顔を七恵に向ける。


「それじゃ、お部屋に案内してさしあげて」


「はい」


 彼女は先ほどより大きな声で返事をすると、歩に目を向けた。


「では、お姉さま。まいりましょう」


 歩は物怖ものおじしない彼女に65点をつけ、スーツケースを引いて従った。2人は三つの校舎を貫くように通る廊下を進む。学生寮は廊下の突き当たりになる。


 終業式が終わってもクラブ活動をする生徒は残っていて、七恵と歩を見かけると、幾人かの生徒が教室から顔を出した。


「ごきげんよう」


 彼女たちが声をかけてくる。この学園では、朝は「おはよう」と挨拶するが、それ以外は全て「ごきげんよう」と言う。「こんばんは」「バイバイ」なんて、決して言わない。そこに歩は萌えていた。


「ゴキゲンヨウ」七恵が返事を返す。


「ごきげんよう」歩も応じた。


 慣れない言葉に戸惑いはあったが、少女たちとの一体感に胸がうずいた。相変わらず、55点、63点、78点……、と反射的に採点していた。


 点数はともかく、歩の胸は躍った。ここは天国だ!


 改めて前を歩く七恵に目をやる。背の低い彼女のつむじを見ると気持ちが冷めた。美少女ゲームの少女たちと違って七恵は無愛想だ。ゴキゲンヨウという口調も棒のようだ。コンビニの前にたむろするヤンキー娘の方が、まだ愛嬌がある。


 歩にとって少女は鑑賞して楽しむものだったが、今は自分も観察される側になっている。もし、男とばれたら犯罪者だ。いや、ばれなくてもやっていることは犯罪だ。


 前を行く七恵の沈黙さえ、彼女が歩の様子を観察している証に思えて息苦しさを覚える。そうして恐怖と不安がじわじわと広がる心に、玉麗の声が蘇った。――宝会計事務所は阿修羅の国――


 戦え自分!……歩は自分を励ました。


「あのう、僕……いや、いえ、私、鳴門アユミです。一歩二歩の歩という字を書いてアユミです。七恵さんは、どんな字を書くの?」


 彼女が足を止めて振り返った。


「漢数字の七、山口百恵の恵の2文字です」


 無表情に応えると、クルリと向きを変えて歩き始める。


 ヤマグチモモエ、だれ?……歩は、その名前に心当たりがなかった。


 管理棟や校舎はシックなレンガ造り風だったが、学生寮は近代的なデザインだった。1階には400人収容の大食堂があり、2階から上が居室になっている。


 歩にとって女子寮への潜入は垂涎物すいぜんものの夢だったが、現実になると楽しめるものではなかった。下着姿のような少女も目の前をうろうろしているのに直視できない。小心者なのだ。


 学生の居室は2人部屋で、七恵と暮らすことになる部屋は2階の東端にあった。


 ドアを開けた右側に洗面所と浴室があり、左側にはトイレと収納がある。3メートルほどある廊下の奥に細長い空間があって、左右の壁際にベッドと机、本棚、洋服ダンスが並んでいた。七恵が使っている側には、本棚からあふれた本が床に積み重ねられていた。


 歩は、その空間が想像していた女子中学生の部屋と異なっているのに驚いた。ピンク色の布団カバーや枕もなければ、アイドルのポスターも、クマやネコのぬいぐるみもない。


 歩を安心させたのは、部屋の真ん中を仕切るためのカーテンがあることだった。着替えの際に女装がばれることはなさそうだ。


「そちらを使ってください」


 七恵が空いているほうのベッドを指した。


 歩は、七恵の視線を背中に感じながら荷物を机や洋服ダンスに収めた。


「七恵さんは学園のことに詳しいんだって?」


 思い切って振り返る。予想に反して、彼女は歩を見ていなかった。ベッドに座って厚い本を読んでいる。


 彼女が顔をあげた。


「ええ、他の生徒よりは少し」


「聞いてもいいかしら?」


「ハイ、どうぞ」


「聖オーヴァル学園のオーヴァルって、どういう意味?」


「ラテン語の卵がら取られています。肉体的にも知性の上でも未発達だけれど、限りない可能性があることを意味しています」


 ベッドに腰を下ろして向かい合うと、七恵が手にしている本の表紙が日本語でないことに気づいた。


「その本は?」


「聖書です」


「そっか……」


 真面目に聖書を読む中学生がいることに驚いた。


「……生徒たちは人魚の鱗のことを知らないのに、七恵さんだけは知っているのよね?」


「ええ……」七恵がコクリとうなずく。「……図書委員だから」


「図書委員だと教えてもらえるの?」


「図書館には古文書や古美術品が多いのです。学園の歴史にまつわるものもたくさん残されています」


「それで保管係になっているのね」


 七恵が表情を変えずに首を傾ける。歩の解釈は微妙にずれている、と言っているようだ。


「人魚の鱗が保管庫の金庫にあるって、七恵さんも知っていたの?」


「ハイ」


「金庫には人魚の鱗以外のものも入っていたの?」


「いいえ。その金庫には鱗だけ」


「その金庫?」


「保管庫には、金庫が沢山あります」


「ふーん。他の金庫からも、何か盗られた?」


「いいえ、なにも」


「今から図書館に入れるかしら?」


「どうぞ」


 彼女が聖書を閉じてベッドを下りた。


 図書館は寮の隣にあった。2人はひんやりとした1階のホールを通り抜け、屋根のある渡り廊下を歩いて図書館の前に立った。


 隣接するテニスコートから少女たちの声がする。学園は柔らかな温もりに包まれ、日当たりのよい場所では梅の花が甘い匂いを放っていた。


 その建物は円筒形だった。外壁はくすんだ銅線のようなツタで覆われていて、それが芽吹きはじめたところだった。全体的に窓は少なかったが、最上階だけは大きな窓が並んでいる。


 正面入り口の観音開きの大きな扉は閉まっていた。2人は通用口から中に入る。


 図書館内部は自然光が少なく薄暗かった。受付カウンターには髪をボーカロイド風のツインテールにした図書係がひとり座っていた。彼女は七恵の顔を見ると立ちあがって頭を下げた。


 80点。……歩は点数をつける。それが高かったのは図書館が薄暗かったからかもしれない。


 春休みを迎える図書館には人が少ない。書架周りをうろついているのは、春休み中に読む本を探す生徒か、研究室の学生だ。


 七恵は書架の手前をすり抜けて奥に進む。そこに非常口と上階に上る階段があり、彼女は、上階へ続く階段の裏側に回った。


「非常口の鍵は開いているの?」


 歩が訊いたのは、人魚の鱗を盗んだ犯人が非常口を使って出入りした可能性があるからだ。


「内側からはノブを回すだけで出られます。外側からは開きません」


 念のために、それを開け閉めしてみた。七恵の言うとおり、非常口を使って内部に入るためには内側から開けてもらうか、ドアを破るしかない。それを壊して侵入したら、警備会社の非常ベルが鳴る仕組みだった。


「ここからの侵入には、内部からの手引きがいるね」


 複数犯を想像していると、七恵が動き出した。地下への階段に向かっている。歩は慌てて後を追った。


 地下は一層ひんやりとしていた。とはいえ、本を保管しているために湿度の調整がされていて居心地は悪くない。


 七恵は何の説明もせず、いくつかの扉の前を通り過ぎて奥の防火扉の前に立った。扉の隣にある本物の甲冑かっちゅうがミスマッチだ。


 彼女が防火扉を開けた。内部に入り、その異様な様子に身体が固まった。天井の高さまで壁一面に様々なサイズの金庫が積み重なっている。沢山並んだ金庫のダイヤルは、まるで異世界を動かす装置のようだ。


「壮観な光景ね」


 しばらくしてからそんな言葉がこぼれた。


 七恵が正面の壁の金庫の前に立っていた。


「これです」


 彼女は、下から3番目の自分の頭ほどの高さにあるレバーに、ぶら下がるように摑まった。


 ガツ、と金属の歯車が噛み合う重い音がして鉛色の扉が動いた。


 内側にはベージュ色の樹脂の扉があり、歩の眼には、色のない世界に日の差す窓が開いたように映った。


 七恵がその扉を開けると、金庫で構成された平面的な壁のそこだけが切り取られ、50センチ四方ほどの異次元空間が現れたように見えた。


「いつも、鍵をかけてないの?」


「かけています。今は、取られるものがないから。……あの日も、他の金庫同様に鍵はかかっていたはずです」


 歩は顔を近づけて確認する。確かに、異次元空間はからっぽだった。


 試しにいくつかの金庫のレバーを動かしてみた。どれも鍵がかかっていてレバーは動かなかった。


「警察で指紋を調べてもらったら、犯人がわかるかもしれないのに」


「指紋を取れば、それが誰のものか比較するために多くの子供たちの指紋を取ることになります。そうしたら子供は傷つく。大人と子供たちの間にあって大切なのは、信頼です」


 七恵が教師のような口をきいた。


 歩はそんな彼女に呆れた。いや、馬鹿にされたようで反感のようなものさえ芽生えた。知り合って僅かな時間しか過ごしていないないが、この少女はニコリともせず、怒ることもなく、上から目線だ。理事長は感情表現が下手な子と言ったが、はたしてそうだろうか?


 感情を表現しないのは、他人に対する軽蔑、あるいは敵意の表現ではないのか? あるいは硬い心の壁……。この金庫のように。……冷たい扉をなでた。


 そうでないのだとしたら、彼女は感情を持たない人形なのかもしれない。


 胸のわだかまりを抑えて尋ねた。


「人魚の鱗には、本当に不老不死の力があるの?」


「そういわれています」


「それを理事長や学園長たちが使わないのは、なぜだと思う?」


「長生きしてもいいことがないと知っているからです」


 それは、意外な答えだった。


 世の中の人間は、始皇帝のころからずっと不老不死に憧れている、と思っていた。多くの人は生きるために病院に通い、苦い薬も飲めば、手術で体を切り刻むことさえする。


「理事長や学園長は、何故、七恵さんを鱗の管理者にしたのかな?」


「あれは危険なものですから」


「危険というと、どんな?」


「呪いです。人魚の鱗は、持っている者の寿命を奪います」


 七恵の応えは歩を失望させた。学園長といい七恵といい、人魚の鱗の力を疑っていない。人魚の伝説が本当ならば、管理を任された七恵は死んでしまうではないか!


「七恵さんの寿命も縮んだの?」


「ハイ。でも、私は大丈夫なのです。管理者だから」


 理屈になってない。鱗の力を信じながら、管理者の仕事を受け入れるのはおかしいではないか。……歩は、彼女の言葉を信じないことに決めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る