interlude2

神巳一郎は、自分の生き方を後悔したことがあまりなかった。


人からは、複雑な家庭だとよく言われた。しかし、神は自分の家でしか生まれ育ったことがないので、複雑なのか単純なのか、自分ではよく分からない。


母親の違う、少し年の離れた兄がいることは、小さい頃から知っていた。


長らく、ハルキシというあだ名でしかその兄のことを知らなかったが、ハルというのが父の前妻――つまり兄の実母の苗字だと知って、それを名乗る兄のことを、少し好ましく思った。


神は、小学生の頃から、男にも女にもよく好かれた。


六年生の時には、同じクラスの女子から告白もされた。


ためしに交際もしてみた。特に何とも思ってない女子でもつき合ってみれば面白いかな、と思ったのだ。

交際といっても子供らしいかわいらしいものだったが、神は、その先に、なんの展望も発展もないことを、早い段階で悟っていた。


「別れようぜ」


中学に上がる直前、そう言ったのは、神からだった。


相手の女子が、夢に描いていたような心ときめく交際にならないことに、期待外れだと思っているのは早い段階で気づいていた。


女子のほうから別れを切り出すのを待つべきか、自分から別れるべきか。神は、これについては真剣に悩んだ。


無効に言わせたほうが、彼女自身の意思で別れた形になるので、彼女のためになるような気がする。


しかし、告白してきた側の負い目のようなものを彼女が感じているとするなら――神には、感情的にはこの手の感覚が全く理解できなかったが、理屈としては一応把握していた――、このままずるずると交際が続いてしまう。


そのほうがかわいそうだろう。


小学生にして男女交際に踏み出すほど恋愛感覚が早期に発達した子を、いわば飼い殺しにするようなものだ。


それなら少々傷つけたとしても、神のほうから早いうちに終わりにしてやるべきだろう。結果的に、神はこちらを採用した。


よくデートに行ったショッピングセンターの帰り、日の暮れかけた公園で、神に別れを切り出された彼女は、


「え」


と言って硬直した。


ショックを受けているらしい彼女の様子に、神は驚き、動揺した。


ばかな。向こうだって、思っていたのとは違う、ドラマや漫画のようなロマンチックさのまるでない交際に、違和感を覚えていたはずだ。


別れようといわれるのを、望んでいるはずだとさえ、神は思っていた。


しかし、


「なんで……。なんでえ、私だめだった……?」


彼女はそう言って泣き始めた。これで、神はさらに動揺した。


自分でもそう自負していたが、神は女子には優しかった。


神は小さいうちから体格が同年代の子たちよりよかったし、発育も早かった。


同じクラスの女子たちが体力的な面で困っていれば必ず助けてやったし、それが「身長の高い男」である自分の責務だとさえ思っていた。


そんな神は、自分のせいで女子に泣かれたことなどない。


一瞬、「別れようと言ったのは嘘だ」と取り繕おうかと思った。


しかし、危ういところで思いとどまった。そんなことをしても、なにもいいことはない。どうせ遠からず、体勢を立て直して再び別れ話をすることは目に見えているのだから。


「だめなんかじゃねえよ。ただ、おれがそうしたくなっただけ。……ごめんな」


自分に非があるとは思えなかったが、ここで謝るのが、男のマナーだと思った。


思えば、昔から、自分は男としてどうあるべきかというのは、神の行動を規定し続けてきたような気がする。


もうなん言か交わして、ようやく彼女は


「分かった」


と言った。


これで一件落着だ、と神は安堵した。


特別な関係は終わった。


これで、おれたちは、「割と仲のいいクラスの友達」に戻れる。


それを神は疑いもしなかった。


それが大間違いだと分かったのは、翌日、登校してすぐだった。


すでに授業の大部分を消化しており、卒業式を待つばかりだった小学六年生のクラス。


「おはよう」


そう言って教室のドアを開けた途端、強烈な違和感に襲われた。


今まで、一貫してクラスの人気者だった神。だから、慣れていなかった。なんの免疫もできていなかったので、激しく狼狽した。


クラスメイトたち――とりわけ女子からの、突き刺すような視線の束。


敵意。悪意。そういったものを全く隠そうとしない、絶対の正しき自意識から放たれる攻撃的な意志。


「な、……なんだよ? なんか変だな。どうかしたのか? みんな?」


そう言う神に、


「どうかしたかってどういうこと!?」


一人の女子がくってかかってきた。女子はその場から動いていなかったが、椅子や机を蹴散らして飛びかかってきたかのような迫力を感じて、神はたじろいだ。


彼女は、学級委員長だ。そして、元彼女の親友だ。


よく見ると、その後ろには、昨日別れたばかりに元彼女がいる。泣いているようだ。


「神くん、昨日この子振ったでしょ!」


おいおい、そんな大声で言うもんじゃないだろ、なんてことするんだ、プライバシーだろ……と思ったが、どうやらすでに、その情報はクラス内で完全に知れまわっているらしい。


「振ったっていうか、別れただけだよ。お互いのためだと思って――」


この言い方はまずいのか、と気づいたのは、さらに向こうの女子の目が吊り上がっているのを見た時だった。


「お互いってどういうこと!? 神くんがこの子好きって言ったんでしょ!? しかもちゃんと理由も言わないで! ひどいじゃん! そういう人だと思わなかった!」


お前とはつき合ったこともないのに、どういう人間だと思ってたんだよ、勝手だな。そう言いそうになるのを、必死に飲み込む。


ちゃんと理由も言わないで? だって、「そっちが思うようなつき合い方はできないって分かったろ?」って言うほうがひどくないか?


これも、なんとか言わずに堪えた。


結局、口に出せたのは、


「……ああ、悪かったよ。ごめんな」


これだけだった。


おそらく、今はなにを言っても駄目だろう。なんと言えばこちらの気持ちが伝わるだろうなどと悩むのは、どう考えても時間の無駄だった。


正解のルートなどない。向こうはすでに、「許さない」という結論を決めているのだから、なにをしたところで無駄だ。


こんなにもあっさりと神が抗弁をあきらめたのは、結局女子を一人――現在進行形で――泣かせてしまっているからというのが一因だったが。

秋口にあった修学旅行のことが頭をかすめたのも、確かだった。


神たちの旅行先は、日光だった。千葉県の子供の修学旅行としては、妥当な場所だ。

バスでの移動はそれなりに楽しかったし、同級生とお菓子を分け合ったり、バスガイドの提案したゲームにみんなでいそしむのもいい体験だった。


しかし、はしゃぎすぎたせいか、夕方になる前に神は眠気に襲われた。


その後は、日光の山の中の空き地にバスを止めて、みんなで合唱をする予定だった。そのために今日までの音楽の時間は全て合唱の練習にあてられたし、修学旅行一日目のメインイベントでもあった。


その空地へ向かう途中、神はバスの中でうつらうつらしてしまった。バス内のレクリエーションは、「合唱に向けての気持ち」を一人ずつ表明するというものが進行している。


よほどやる気のある者が代表してしゃべるならいいのだが、一人ずつ順番に全員が発表していくので、時間はかかるし、正直、聞いていて面白いものでもなんでもない。


山の中の夜は早く、暗い帳が降りてきかけているのも、神の眠気を煽った。もう夜だ。寝る時間だ。


なんとか気力を振り絞って起きていようとは思うのだが、瞼が強制的に降りてきてしまった。


そして、何度か意識が明滅した時。


いきなり、耳元で弾けた声に心臓が跳ね上がった。


「神くん、なんで寝てるのお!?」


くだんの学級委員長だった。


なんと、目に涙を溜めている。


なんで、と、大声の次にはその涙に、神は仰天した。なんで泣いてるんだ?


「みんなで練習してきて、みんな歌う気持ち一つにして、これから歌うのに、なんで寝られるのお!」


今思えば、暗くなってきた時特有の夜のテンションと、人一倍盛り上がりやすい委員長の性格と、合唱への決意表明という人によっては大変に盛り上がるイベントと、そういったものの相乗効果だったのだろうが、当時の神にしてみれば全く理解不明の天変地異に等しい現象だった。


すると、本気なのか悪乗りなのか、前の席に座っていた、普段は少しばかり不良めいた素行の男子が振り返り、


「神、お前寝てたのかよ!? まじかよ!? そりゃねえよお!」


と叫んでくる。


瞬く間に神を糾弾する声はバス内にあふれ、神は本能的に恐怖を感じた。


「あ、ああ、違う違う、つまんねえな寝てやれとかそういうんじゃねえんだ、ただちょっと疲れちゃってさ」


一応そう弁明したのだが。


「疲れてるのはみんな疲れてるでしょお!」


委員長がそう叫んでくる。


幸い、神がもともとクラスで人気者だったので、その後適当にとりなしてことなきを得たのだが、もしあれがクラスの不人気者に対して起きていたら、どこまで非難はエスカレートしていたのか。


それを思うと、修学旅行が終わってもしばらくは、手に震えが来た。


あの一件で、クラスで村八分にされていてもおかしくない。


あの時と同じ気味の悪さが、今まさに、じき卒業を控えた教室の中で神に訪れていた。


攻撃的意志の矢印が、クラス中から放たれて自分に突き刺さってくる感覚。


単に怖いとか恐ろしいというより、もっと根源的な気色悪さを感じる。


……こいつら、煽り方さえ上手くやれば、刑務所に入るような悪事さえ簡単にやってのけるんじゃないか? ――そう思わせる不気味さがある。


神はもう一度頭を下げ、それから謝罪を改めて口にした。


そして妙な形で後を引きずらないように、


「当事者の間でしか分からないこともあるから、おれからはそれ以上なにも言えないよ」


と言ってはおいた。


やがて、中学に入ると、またちらほらと告白を受けるようになった。


さすがに前回で懲りていたので、こちらに気持ちがない相手とはつき合わないようにして、一年が過ぎた。


しかしそうすると、今度は「女子が必死の思いで告白してるのに、神巳一郎は冷たい」という評判が立つ。


それに嫌気が差していたころ、ほかの女子よりも熱烈に告白してきた二年の先輩がいた。部活が同じで、気が合い、早い段階で気心が知れて、神は彼女に一人の人間として信頼を寄せていた。


「神くんてさあ、あたしの先輩みたいな落ち着きがあるよね。なんか、ずっと一緒にいたくなる」


その先輩こそ年上だけあって余裕があり、時に冗談めかしながらも、好意ははっきりと伝えてくる。


その、友達の延長線上のような心地よさと、いい加減無責任な周囲の評価に疲れていたこともあり、神はその先輩とつき合うことにした。


少なくともこの時は、神は彼女に対して敬意と好感を抱いており、交際は楽しかった。いろいろなことに気づき、自分の知らない面がいくつも引き出された。


しかし、二ヶ月もすると、お互いの気持ちのずれが表面化してきた。


神は、あくまで、気の合ういい仲間のようにしか、恋人を見ることができなかった。


一方で先輩は、当然、思春期の男女の鮮烈な恋愛を期待していた。


形の上では、二人は恋人らしいことを一通り実践していたものの、三ヶ月目で神のほうから別れを告げた。


先輩に対する好感は、減衰してはいなかった。それだけにつらかった。しかし、早く決断することが、自分の役目だと思った。


別れ際に、


「神くんはさ、なんでも器用にできそうなのに、……ううん実際できてるのに、つき合ったらなんにもしてくれなくなるんだね」


と言われた。


なんにもしてくれなくなる。


なんにも。


その言い方が、神の胸の繊細な部分に突き刺さった。


なんにもって、なんだ。


いや、分かる。本当になにもしてくれないわけじゃない。男として、彼女がしてほしいことをしてくれない、ということだ。


自分は、男してひどく未熟なのだ。神は、そう思い知らされた。


今度こそ、もう恋人など作らない。


そう決めて、軽い感覚で短くつき合える、いい加減な女たちとだけ遊ぶことに決めた。


女子はかわいい。そう思う。守ってやりたいし、刹那的な疑似恋愛は楽しい。


自分の背格好も少なくない女子たちに需要があるようで、十代後半並みの背丈になっていたこともあり、こっそりと盛り場に出るとよく声をかけられた。


その頃に、歌舞伎町に出入りするようになった。


補導されたくはないので、警官の目を気にしつつも、お互いに傷つきも傷つけられもしない関係を求めて夜の街に出ていく。


その頃、母親の違う兄と、活動圏が重なったことで、会う回数が増えた。


「お前、こんなところに出てきて、ばかじゃねえの」


そう言いながら、ハルキシは悪い気はしなかったようで、適当に世話を焼いてくれた。


「自分で稼いでもいない金を持つといよいよばかになる」


と言って金銭こそそうそう渡してはくれなかったが、危ないところとそうでないところをはっきりと神に教え、危険を回避するために必要な小金はそっと握らせてきた。


そうして、高校生になった。


神は、自分はきっと、成人してもこういう人間関係ばかりを築いていくのだろうなと漠然と思っていた。


そんな時期に、神は、一人の同級生と仲良くなった。


最初は、適当に気が合うなと思っただけだった。


しかし、次第に、そのなににも執着しないで生きているような、一挙手一投足に目が惹きつけられるようになっていった。


彼もまた、人づき合いにこなれていて、話していてストレスを生じない神と、他愛ない会話をするのを好んでいるようだった。


というより、神が今までの人間関係で失敗してきたことから身に着けた、相手の要望を察してそれとなく助けるように立ち回る所作に、軽い尊敬の念を抱いている節があった。


こいつは、あまり人と打ち解けあうのが得意ではないのだな。と思うと、そんな彼が自分にはどんどん心を許していくのが、たまらない快感だった。


彼の「仕事」を知った時は、驚きはしたものの、軽蔑したりはしなかった。自分だけに打ち明けてくれたのが嬉しかったし、彼なりの目的があってのことなら、止めるべきではないとも思った。


うっかり止めて、自分との関係を切られるのも恐ろしかった、


もっとも、後に、彼の「目的」を知った時は、世間の狭さと因果の意地悪さに眩暈を覚えることになるのだが。


そんな風に彼のことを許容していた神だったが。


さすがに、いつしか、彼の体に触れたい、唇を合わせたい、そうした衝動を自覚した時には、かつてない動揺を覚えた。


これは言えない。


生まれて初めて好きになった相手。しかし、この気持ちは決して口に出せない。


出せば全てが変わり、失われ、終わってしまう。彼は同性愛者ではあるようだが、間違いなく神はその対象ではない。それくらいは分かる。


そして、過去に思いを馳せた。


今まで、自分に告白してきた女子たちは、こんな気持ちだったのか。こんなに心細く、やるせなく、怖さにうちひしがられそうになりながら、それでも想いを告げてきたのか。


かつて、こうすることが相手のためになると思ってしてきた自分の行為が思い返された。


相手を思いやったのは本当だ。しかしそのやり方は、正しかったのか。あれでよかったのか。


いや、もっと、なにかやりようがあったはずだ。自分の未熟さが、彼女たちに、つけなくていい傷をつけてしまった。


ある、よく晴れた日。


神の、悔恨と、やるせなさと、秘め続けてきた思いは、ひとつの行動になって表れた。


そして、それを、一人の女子高生に見られた。


その時、神は、しまったと思った。決して見られてはならないものを見られたと、自分のうかつさを呪った。


しかしそんなことはおくびにも出さず、一瞬後には、見られてよかったのだと思いなおした。


それが、歯止めになる。秘密を秘密のままにしないと、なにが起きるかということを思い描くから。


そして、それから、さらに少し後には。


見られたのが彼女でよかったと、神は心からそう思った。


本当は、彼女が、もっとたちの悪い、まるで信頼できない、彼のために損にしかならない人間であって欲しいという気持ちがなかったといえば嘘になる。


その後何度も、彼女にに惹かれていく彼が、自分だけのもとに戻ってきてくれないかと胸中で願いもした。それも本当だった。


それでも、神が抱いた喜びも、充足感も、幸福も本当だった。もし彼が神の告白を受け入れ、万が一にもつき合うことができたとしても、こんな幸福は得られなかっただろう。


より深い傷を得る別ればかりが待っていたとしか、神には思えない。


それでも告白するべきだった。


いや、これでよかった。


その堂々巡りを繰り返しながら、神は、恨みや妬みのこもらない目で、衿ノ宮燈を見つめることができるのが、本当に嬉しかった。


自分の傍から彼女のところへ巣立っていく、彼の背中を、二度と表さない想いを込めて見送りながら。


神は、誰にも聞こえない祝福の言葉を、胸の奥で伝え続けていた。


interlude2 終わり

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