エピローグ 分光連星の君たちへ1

<エピローグ 分光連星の君たちへ>


十月の朝。


通学路の空気は冷た過ぎず、暑過ぎず。程よく晴れていて、雲は少ない。


とても清々しい日だと思ったのは、きっと私の気分だけのせいじゃないだろう。……と思う。


それでも、ともすれば不必要な歩幅で不必要な歩数を刻んで歩いてしまいそうな――つまり、左右にふらふらと浮かれて歩き回ってしまいそうな――気持ちは、否定できなかった。


そんな風にして昇降口に入り、廊下を歩き、教室まで来たものだから、当然のように女子たちには心情を看破されてしまう。


「おはよう。裏切り者」


「う、裏切り者ではないっ! って何度言わせるのっ!?」


カナちゃんが上目遣いに言ってきたので――半笑いではあったけど――、反射的に言い返す。が、全然納得はしてもらえない。


「裏切り者じゃないのよー。自分だけちゃっかり彼氏作って。しかも沖田くんとは」


「私も、まさかこうなるとは思ってなかったんだってば……」


教室に吹き込む風は、からりと乾いて、段々と秋らしい落ち着きを湛えてきている。


生徒会選挙もいよいよ近づいていて、神くんがここのところ、ひときわ忙しそうにしていた。


ヨウコと奥野さんが、横でくすくすと笑っている。


「で、今日も一緒に帰るんでしょ?」


「そ、それはまあ……多分」


「明日は学校休みだし、多少遅くなってもいいんでしょうなあ」


カナちゃんが、器用に口をとがらせながら口角を上げた。かなり面白い口元になる。どうやるんだろう、これ。


「ふ、普通だよ普通! 普通の時間に帰るから!」


そんな話をしていたら、沖田くんが登校してきた。


「おはよう、衿ノ宮。……なんだ、みんなにやにやして」


ヨウコが、「別に、なんでもないよう。ねえ」


沖田くんは、あまり突っ込むところでもないと察したのか、あっさりと話題を変える。


「そうか? 衿ノ宮、今日も一緒に帰れるか? 寄りたいところがあるんだ」


私がうなずくと、幸いそれ以上冷やかされる前に、先生が教室に入ってきた。


沖田くんの仕事についての噂は、もう校内ではほとんど聞かれなくなっていた。


夏休みを挟んだのと、沖田くんに彼女――そう、彼女である――が誕生したという事実の方がよほど話題性が高かったらしい。


それに、なにかと目立つ人気者の神くんが平気で沖田くんと接しているのを見ると、ほかの人たちも、沖田くんに後ろ暗いところなんてないのだろうと思えてしまうようだった。私にはできない助け方で、本当に神くんがいてくれてよかったと思う。


始業のチャイムが鳴った。


沖田くんはどこかぼうっとして、窓の外を見ていた。


あの夏休みはもう遠い。毎日、確実に遠ざかっていく。



「寄りたいところって、カフェだったんだ?」


「まあな」


柏駅から少し離れた、日当たりのいいお店の中からは、外のいちょう並木がよく見える。もう少ししたら、本格的に葉が色づいていくのだろう。


私たちは、ソファの席に並んで座った。


沖田くんはカプチーノ、私は紅茶の注文を済ませると、沖田くんがスマートフォンを取り出した。どうやら、一緒に画面を見るために並んで座れるお店を選んだのだと、ようやく気づく。


表示された画面は、私が利用している小説投稿サイトのものだった。


沖田くんは、そのトップ画面をしげしげと見てから、ふうと息をついて上を向き、それから私の目を真隣から見つめてくる。


その視線の眩しさに、思わず、目を逸らしそうになった。


「衿ノ宮。作家デビューおめでとう」


「さ、作家じゃない! たまたま、BLのコンテストで入賞しただけで」


私が少し前に仕上げた中で、特にお気に入りだった中編小説が、投稿サイトのコンテストで先日佳作に入った。


コンテストの特典として、佳作以上の作品はまとめて本になり、この冬に発売される。


今はまだ投稿サイト上で無料で読める私の作品は、本の発売直前には非公開になる。

そんな話を発売元から聞かされた時は、私だって「なんだか作家みたいだな」と浮かれてしまった。冷静に考えると、なにが作家みたいなのかよく分からないけれど。


「ちゃんと予約して買うからな」


「い、いいよ、読まなくて。沖田くんが読んだことあるやつだし」


「それはそれ。……ところで、これなんだけど」


沖田くんがスマートフォンを操作し、私の受賞作品のコメント欄を出した。


もちろん私は全部読んでいる。大部分は肯定的な言葉だけど、中にはあまり目にしたくないような言葉での批判もあった。


沖田くんが、コメントのうちの一つを指でさす。


「この、『GOD☆ME NO.1』ってやつさ……あいつだよな……?」


私もそのハンドルネームは見知っていた。時折書かれる悪口のようなコメントに対し、いつも私を擁護する内容で反論してくれている。


それにしてもなかなかの名前だった。神、ミー、一番……


「うん……本人に確かめたわけじゃないけど、ほぼ間違いなく……」


神くんにも、私が小説を書いていることと、投稿時のハンドルネームは教えてある。


「ミーだよな、これは。しかも、きっちり小説の内容読んでないと出てこない言葉で、煽らないよう建設的に言い返すから、コメント欄が荒れもしない。あいつ、いろいろやってるな……」


神くんと私は、今も以前と同じように自然につき合えている――少なくとも、表向きには。


私こそ、神くんがいてくれてよかったって、何度思ったかしれない。なのにその気持ちを口に出すと、どうしても傲慢に響きそうで、なかなかうまく伝えられないのが歯がゆかった。


その時ふと、コメント欄に、見覚えのない書き込みがあるのを見つけた。書き込まれたのが今日の午前中だったので、まだ見ていなかったものだ。


<終わった。送った>


「……なんだこれ? 衿ノ宮、意味分かるか?」


私はかぶりを振る。全然心当たりがない。


なにか深い意味があるのだろうかと考え込んでいると、私のスマートフォンが震えた。


何度かメールや電話でやり取りをしていた、出版社の担当者さんからの着信だった。カフェの隅の通話スペースへ行って、電話に出る。


『あ。もしもし。学校終わってます? ちょっとですね、大したことじゃないんですけど、一応聞いておこうと思いまして。実は、ファンレターが二通ほど届いていてですね』


「ファ……!? 私にですか? え? 私に!?」


電話の向こうで、微笑ましそうな笑い声が聞こえて、恥ずかしくなった。


『そうですよ。本が出てもいないうちにっていうのは珍しいんですけどね。衿ノ宮さんが現役女子高生だってどこかで聞いたらしくて、同じ高校生の子たちが感銘を受けたみたいで。作品を投稿されたときに読んでくれてたそうで、本になるのが楽しみですって』


う、うわあああ。謎の強制的な力で持ち上げられてるかのように、ほっぺたが持ち上がってにやけてしまう。


『…で。本題はこちらなんですが。もう一つ、謎のモノが届いていまして』


「謎の、もの」


なんですかそれは。


『特に手紙とかも入っていないので、どうしようかと思いまして。長さ十センチくらいかな? 黒い細長い棒で、なにかの握りみたいな。部品っぽいというか、これだけじゃなくてなにかの一部のような』


黒い。なにかの握り。なにかの一部分……


頭の中に、あの人の声が、火花のように閃いた。


――このナイフはまだ持っておく。必要なくなったら、捨てる。多分そうなる――


もしかして、それは。ナイフの、刃を外した、


つか……」


考える間もなく、そう呟いていた。


『あ、本当ですね。なにかの束みたい。よければ、画像送りましょうか。気持ち悪ければ、こちらで処分しますけど』


私は、スマートフォンを両手で握って、勢い込んで答える。


「いえ! いえ、ぜひ、送ってください。私、それを待っていたんです。でも、もっと時間がかかると思っていたんです。だから、凄く嬉しい」


そうですか? と小さな疑問符を浮かべる担当者さんに、お礼を言って電話を終えた。


今聞いたことを沖田くんに伝える。


「本当か? にしても、ハルキシのやつなんでわざわざ出版社に……ああそうか、最寄り駅は知ってても、おれや衿ノ宮の家は、あいつ知らないもんな」


「え、そうなの? ハルキシさんて、沖田くんの家に行ったことは」


「ないんだよな。あいつにしてみれば、わざわざ千葉くんだりまで来るのも面倒だろうし。また駅で延々と張るのもさすがに嫌だろうしな」


そういえば、沖田くんの家でハルキシさんが沖田くんと……っていうのは噓だったんだっけ。


それなら神くんを経由すれば……と思ったものの。

後日、神くんにそう訊いてみたら、「おれとかとやり取りするのが手間だと思ったんだろ。出版社への郵送なら、エリーのところまで一方通行で、投函しちまえばハルキシにはもう手間はかからないわけだから。それに、おれや瀬那をエリーとの間に挟みたくなかったんじゃねえかな」とのことだった。


人の心情というのは、なかなか複雑で難しい。


「じゃあ、さっきの『送った』ってのはそのナイフの束のことだな。そうすると、『終わった』ってのは……?」


二人で軽く腕組みをして、十秒後。私の口から、その単語がこぼれた。


「手術……?」

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