エピローグ 分光連星の君たちへ2

「手術? 性別適合手術ってことか? ああいうのって、予約で何ヶ月待ちじゃなかったか? そんな話聞いてなかったけど」


確かに、夏休みに最後に会ってからまだ二ヶ月も経っていない。


そういうことってあるんだっけ、と、夏の終わりにいくつものサイトを見て知った情報を、懸命に頭の奥から引っ張り出す。


「えっと、確か……普通だと半年とかそれ以上待つことも多いんだけど、キャンセルが出たり、場合によっては割とすぐに決まることもあるんだって。そういうのは日本より、タイとかでの方が多いみたい」


それなら、空きの状況が出た時に、ハルキシさんはほとんど迷いなく、早まった手術を受けると決めたんだろう。急な話だったはずなのに。


そして、……『終わった』。


「衿ノ宮、思いっきり調べてるなあ……」


「ま、まあ気になって。……あの、もしかして沖田くん」


私は、そのハルキシさんとの別れ際に、自分の言ったことを思い出した。


「ん?」


「今日の朝、ハルキシさんのこと考えてた……?」


「……ちらっと。というかここ最近、時々な。なんで分かるんだよ」


「ううん。そんな気がしただけ」


どういう心理なのかは、自分でも分からないけれど、またも、変に頬がにやけた形に上がってしまう。

やはり人の心情は難しい。自分でさえ、自分のことを全然コントロールできない。


そして沖田くんの次の一言で、私のにやけは、そのままの形で硬直してしまった。


「衿ノ宮。この後、うちに来ないか?」



避けていたわけではないのだけど。


夏休み以来、私と沖田くんは、どちらかの部屋には入らないでいた。


以前は、沖田くんは、努めて紳士的に振る舞ってくれていたんだと思う。つき合っているわけでもない男子と女子が、一つの部屋に――それも男子の部屋に入っている状況を、少しでもやましくないものにするために。


それは、私のためだった。よく分かっている。


でも、今は? 私と沖田くんは、つき合ってしまっているのだけど……。


どうしていいのか、正解が分からない。経験値がないせいで、どんな判断基準で、どう行動していいのか分からない。


それでも、久し振りの沖田くんの部屋には、あっけなく到着してしまった。


「お邪魔します……」


「どうぞ」


沖田くんに促され、リビングのローテーブルの前に座る。


麦茶をグラスに注いでくれた沖田くんが、ブルーの薄いコースターと一緒に、ローテーブルへ置いてくれた。


その指先を見ていると、前に見た寝顔が思い出されてきた。なぜか、関係が進展した今のほうが、あの時よりも緊張してしまう。


沖田くんが、ふっと吹き出した。


「そう警戒しなくても、暗くなる前に送っていくよ。制服だしな」


「い、いや、決して警戒しているわけでは」


沖田くんは、私の正面に座ると、小さく息をついてから言った。


「そんなに大した話ではないんだけどさ。おれ、大学に行こうと思って。本当は、なにかすぐに仕事を見つけて働きたいと思ってたんだけど。今は、勉強したいこともできたから」


「え、そうなんだ。勉強したいことって?」


性差に関わることとか、青少年の心理とか、そんな系統が思い浮かんだのだけど。


「法律と経済」


「すみませんでした」


「謝るなってのに。いや、ていうかなんで謝った?」


「思い込みの強さにです」


「……まだまだ難しいな、君は」


どういたしまして。それにしても、

「進路かあ……」


今まで、ずっと学生だったせいか、何年経ってもこれまでと同じ学生生活が送られるような気さえしてしまう。


春になると進級して、一学期を過ごして期末試験を受けて、夏休み、二学期、期末試験、冬休み、三学期……


そんなループがずっと続くような感覚。


でも、本当は、一回きりの日々はもう二度と繰り返されることはない。出会った人と過ごした時間が消えることも、つらい思い出がなくなることもない。


今までは毎年やってきた、今年と似たような一年間。でも、似ているということは、違うということでもあって、全ては必ず遠ざかっていく。


そうして、かけがえのないものだけが残るといい。たとえそれが失われたとしても――出会わないよりはいい。そう思えるのは、私の隣に、今沖田くんがいてくれるからだろうか。


「衿ノ宮には、思ったことは言っておこうと思って。これからのことなんて考えるようになったのは、おれの場合、衿ノ宮のお陰だしな」


「そ、そんなそんな」


私はまだ先のことなんて、全然考えていないのに。私のほうが、沖田くんといて、変わっていくものが多いんじゃないかと思う。


「ま、おれは学費は結構自力で負担できるからな。学生にしてはありえんほど稼いだから。選択肢は多く持てるだろう」


「それは、ご両親に突っ込まれるのでは……」


「だな。今のうちに、ごまかしの利くような、割のいいバイトしておこう」


沖田くんは少しでも自分で払おうとしているんだな、と思うと、私もしっかりしないといけないという気になる。


「衿ノ宮は、進学するのか?」


「お母さんは、してもいいって言ってくれてるけど……どうしようかな」


「作家にはならないのか?」


思ってもいなかったことを言われて、危うく麦茶をこぼしかけた。


「な、なりませんっ。あんな異常にモチベーション要りそうな仕事、どうやって続けてるのか見当もつかないよ」


「また、おれのこと書いてくれてもいいんだぜ? 衿ノ宮のモチベーションになるなら」


沖田くんは、柔和ではあるけれど真面目な顔でそう言った。


私が沖田くんと神くんに気兼ねして作品を消去したのだと、彼は今でも気にしている。


く。


これは……正直に言わなくちゃいけない、な。


「実は、……試みたことはありまして。改めて、沖田くんを主人公にしたお話を……」


「おお!?」と沖田くんが乗り出してくる。


私は顔の前に両手のひらを上げて、ぱたぱたと横に振った。


「で、でも私、ある程度知ってる実在の人をモデルにして書くとなると、本当にその人との思いでそのまんまの話にしかならなくて。試しに一章書いてみたら、私も神くんもハルキシさんも出てきて、日記みたいになっちゃって」


「それはそれで読んでみたいけどな……」


沖田くんは、少しテーブルから身を離し、


「こんな風にちょっと先の話したくて、静かなところの方がいいと思って今日は誘ったんだ。せっかくだしあれか、卒業アルバムでも見るか?」


「あ、それは見たい」


沖田くんに連れられて、彼の部屋に入り、ベッドに腰かけて、分厚いアルバムを開いた。


中学の制服を着た沖田くんの、一年生の時の文化祭の光景が目に飛び込んできた。


「わあ。凄い。沖田くんが、かっこいいまま小さくてかわいい」


「なんだそれは」


だって、と笑って顔を上げた時、すぐ目の前に、沖田くんの顔があった。


部屋の明かりと西日の混じった光に照らされた沖田くんは、一層きれいだな、と思った時には、沖田くんが穏やかに体重を預けてきた。


気がつくと、仰向けになって沖田くんと重なっていた。


沖田くん、と声に出そうとした時、彼の指が私の唇に当てられた。


恥ずかしくてうなずきはしなかったけれど、逃げようとしないのが私の答えだと、沖田くんには理解されてしまった。


目を閉じた。


一瞬遅れて、初めて、沖田くんと唇が重なった。


それは優しくて穏やかだったけれど、触れた部分から体温が溶け合っていってしまいそうな心細さと、私の感情が唇から全て伝わってくれたらいいのにという激しい欲求が混ざり合って、どうにかなってしまいそうだった。


呼吸をしていいのかどうかが分からなくて、すぐに苦しくなり、唇がわずかに離れた隙に息を吸い込んだら、その瞬間にまたキスされた。


凄く嬉しくて、この気持ちをどう伝えればいいのか分からず、思わず体全体を下から沖田くんに押しつけて、そのつもりがなくとも、ただ抱き合うよりもはしたないところまで進んでしまったと気づいて、慌てて体を引いた。


「……衿ノ宮」


「……はい」


「腰を使うな。こんな体勢でそんなことしたら、君が危ない」


顔が、一気に熱くなる。


「こ、腰は使ってないっ!」


沖田くんは分かっていて言ってるな、違うかな、いやそう信じよう、そうに決まってる、そうであって欲しい。


「で、腕も首に回すな」


所在なく上に差し出しただけの私の両腕を、沖田くんが横目でちらりと見る。


「だ、だって、今、腕ってどこに置けばいいの?」


「特にどこってことはないだろう。こう、普通に」


「普通って難しい……。くう、今だけちょっと腕が肩から外れればいいのに。ぱこって」


「怖いって。……怖いか。おれも怖かった。だって、おれは……衿ノ宮、君に、おれの……」


今度は私が沖田くんの顔に顔を近づけ、唇を合わせた。


柄にもないことをして、顔がさっきよりもさらに燃えるように熱い。


でもきっと今沖田くんは、口にしたくはないけれど私に言わなくてはならないと思ったことを、言おうとしたのだと思う。


怖いことは言わなくていいよ。言わなくてはいけないからという理由では、言わなくていい。言いたくなった時に、伝えてくれれば。


今は、多分、嬉しいだけでいい。そういう気持ちで、二人共で満たされたい。


もう一度沖田くんが覆いかぶさるように抱きしめてきて、それから、私を抱き起した。


荒い息を整えながら、体を寄せ合う。沖田くんが横から私の肩を抱いた。


今、ちょっと思ったのだけど。……私は結構、たがが外れると止まらないたちなのかもしれない。


沖田くんが、私のこめかみに額を当てた。


「……まだ明るいうちに、外に行かないか」


「いいよ。行きたいところがあるの?」


「いいや。ただ、……笑うなよ」


「笑わないよ」


「好きな人とキスした後に、世界がどう見えるのか、見てみたい」


……それは、私も見てみたい。


手をつないで、外に出た。


空は確かに黄昏れかけた色なのに、太陽は眩しくて、体が軽くて、まるでよく寝た日の朝のようだった。


斜め前を、沖田くんが歩いている。握られた手のひらの温かさを、幸せな温度だと思った。

そして、同時に、なにかが――なにかが、寂しいとも。


「さて、どうするかな。あけぼの山公園……は、ちょっと遠いか」


「……沖田くん」


「ん?」


沖田くんが振り返る。


特別な相手。特別な距離、特別な時間。それを、もっと。


私は、欲張りになったなあと思う。


「私こそ、笑われちゃいそうなことを、言うんだけど」


「どうぞ?」


大通りは、人波が途切れずに続いている。知らない人たち。それぞれ全然違うことを考えていて、別々に生きていて、知らない毎日を送っていく。


その中で、私にとって特別になった人たち。


「私、みんなでいたいな。私にとって、好きな人は沖田くんなんだけど、ほかの特別な人たちとも、一緒にいたい。こんな風に、並んで、話したり、笑ったり、時々怒られたり……」


沖田くんが、怒られる側なのが衿ノ宮らしいな、と呟く。


「すぐ近くで暮らしたいとか、そういうのじゃないの。時々でいいから、そうしたい時にはそうできるような、……そんな風でいたい、というか」


思いつくまま口に出していたら、自分で言ってて、なにが言いたいのか、よく分からなくなってしまった。


いや、分かるんだけど、どう言ったらいいのかが分からない。


凄く大きな図書館の真ん中にいるのに、私の知りたいことには手を伸ばせば届くのに、私には文字を読む能力がない。そんな気持ち。


こんなんじゃ伝わるわけがない。


――はずだったのに。


「みんな、幸せにか」


「え?」


「いや、そういうことが言いたいのかと思ったんだ。『みんなが幸せでありますように。私と一緒に』。……なんだか子供っぽい言い方になったけど、そういうことかなって」


……そうだ。


そういうことだ。


みんなで。幸せに。私も。離れていても、一緒に。


「……沖田くん、もしかして、国語得意?」


「全然。ただ、予備知識があったからな」


「予備、知識。……あ、私の書いた小説?」


「それも含めて、衿ノ宮のことを、また少しは知ったんだよ。前よりも、もっと。まだ未知の部分のほうが多いだろうけど、これから知っていく。衿ノ宮も、まだおれのこと、知らないところは多いだろ?」


私はこくこくとうなずく。


「も、もちろん。私もこれから知っていく」


「そうだな。まずは、おれが結構やきもち焼きだってことは知っておいて欲しい」


「やきもち?」


沖田くんが、私の手を強く握り直した。


「おれといる時に、さっそくほかのやつのことを考え出すとは、なかなか煽ってくれるよな」


え。


「ま、待って。ほかの人って言っても、それはハルキシさんとか、神くんとかのことで」


「ほおおお」


「そ、その顔なに!? 初めて見るんだけど!?」


「おれの未知の部分の一つだな」


二人で、笑って、大通りを歩く。


太陽が降りていく。


空の光が淡く薄らいでいく。


でも、ともしびのような光は、秋の半ばとは思えないしたたかさで、私たちの上にいつまでも残り続けていた。


「なにか、……」


私の小さな声に、沖田くんが「え?」と振り向く。


「なにか、全部、始まるみたい」


今度こそ意味不明だったらしく、沖田くんは思案顔になった。


「ええと、つまり、私にはそんな風に見えるってこと!」


「なにがつまりなんだ? ……あ、そうか」


 私は二歩だけ小走りになって、沖田くんの横に並び、顔を見合わせて、お互いの視界をお互いの表情で埋めた。


「私の、好きな人に気持ちが伝わった後に、見える世界」


その瞬間、その日最後の日の光は、私たちの笑顔を、真夏のように眩しく照らし出した。


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歌舞伎町の沖田くん @ekunari

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