ハルキシ5
いつの間にか、私はもどかしさから、親指を強く握ったり放したりを繰り返していた。自分が男子だったら、一緒に行けたかもしれないのに。いや、私が行ったからって、どうなるものでもないけど、でも……
ん。
男子?
「沖田くん、神くんは? 神くんに一緒に行ってもらったら、心強いんじゃない?」
「ミーか? そりゃ、確かにあいつはおれより体格がいいし、腕っぷしもあるだろうけど。……衿ノ宮、なんだか変だな。なにをそんなに警戒してるんだ?」
分かっている。
沖田くんにとっては知り合いと会うだけで、どうってこともないんだろう。
でも。
「……沖田くん、私が新宿のホテルの前で、沖田くんと鉢合わせた時あったでしょ?」
「ああ。鉢合わせたというか、とっ捕まったというか」
「私あの時、怖かったんだ。沖田くんが、やりたくもないことを、大人にむりやりやらされそうで。そんなの、ひどいでしょ」
「あんな親爺に、好き放題されるほど弱っちかないけどな」
沖田くんは軽い口調で言うけど、私はそうはいかない。
「腕力だけの話じゃないよ。今の時代、やろうと思えば人間一人追い詰めるくらい簡単にできるし、逆恨みされたらなにされるか分からないじゃない。あんなに恥ずかしげもなくぐいぐいくる大人、本気にさせたらどうなるのか……」
沖田くんが、やや真面目な口調になる。
「……そうか。そういう脅威みたいなのって、男のおれなんかは軽く見てるのかもな。その気になれば、おじさん一人くらいどうにでもなるって」
「私はハルキシさんのことを知らないから、そんな風に考えるのも失礼なのかもって思うよ。でも、分からないから怖いの。特にその、『仕事』が関係してるなら、沖田くん一人でどうにかできることじゃないのかもって、つい……」
そこでしばらく、二人とも無言になった。
ややあって、電話越しに、沖田くんがふうとため息をつくのが聞こえた。
「あっ、ご、ごめんね!? 私うざいよね!? 己の領分を超えて首突っ込むなって感じだよね!? で、でもっ」
電話の向こうから、吹き出す音が聞こえた。
「違うよ。衿ノ宮って、おれのこと凄く考えてくれてるんだなって思ったんだよ。おれはハルキシが顔見知りだからって、軽く考えすぎてたかもしれないな。向こうが警戒したら意味がないから、ミーは連れて行かない。でも、おれなりに気をつける。ていうかなんだよ、己の領分って」
武士かよ、と沖田くんはまた笑った。そして、
「衿ノ宮。頼みがあるんだけど」
「私に? なに?」
「ビデオ通話にしてくれないか? 顔が見たい」
……ん?
「え、今? ここで?」
「今。ここで」
「で、でも私部屋着だし、お風呂入ったから髪だって」
「見たいんだ。オフの姿の衿ノ宮を見たら、元気が出そうで」
「なんでっ!?」
「なんでも。おれの自己肯定感が上がって、自分を大切にできる気がする」
「どういう因果関係!?」
「おれも今風呂上がりで、いつもより髪下ろしてるし、オフはお互い様だろ。じゃ、いくぞ」
いうが早いか、電話がビデオ通話に切り替わる。勢いにのまれて、私もビデオ通話をオンにした。
それでもいきなり顔を映すのははばかられて、反射的に、スマートフォンを仰向けにして机に置いた。
「……天井しか見えん」
「だ、だって心の準備が……」
「顔見るだけで? ……女子ってデリケートなんだな。それは、悪かっ……」
私は、スマートフォンの上へ、地面と水平に顔を出した。
画面の中では、いつもよりも髪の癖が大人しい、やや細面に見える沖田くんが目をぱちくりとさせている。
「……で、できたよ、心の準備」
部屋の電気を逆光にすれば、この顔の赤らみを隠せるかもしれないという打算はあった。
でも、焼け石に水だったかもしれない。沖田くんが、
「わー。今おれベッドで仰向けになってるから、衿ノ宮の髪が下りてきてて、押し倒されてるみたい」
なんて言うから、ぼんと音を立てそうな勢いで赤面してしまった。
「もう、そーいうことを言うんなら終わり!」
私はぱっと身を起こして、顔を画面から外れさせる。
すると、スピーカーにしておいたマイクから、沖田くんの声が聞こえてきた。
「ありがとな、衿ノ宮。明日に向けて元気出たよ」
「う、うん。こんなものでよろしければ」
「また連絡するな。行きたいところ、ちゃんと考えておいてくれ。おやすみ」
それから二言三言かわすと、電話は切れた。
しばらくは、胸がどきどきして、それを早く静かにさせようとしていた。
けれど落ち着いてみると、最後のやり取りが気になった。
深読みかもしれないけれど。……会いに行くのに、普通よりも元気がいるってこと?
もしかしたら沖田くん自身、ハルキシさんに会うのに不安があるのかもしれない。
でも、今の私にできることはないしな……。
その時、スマートフォンにメッセージが入った。
「神くん!」
『あれから瀬那のやつなにも言わんけど、エリーの方ではなにかないか?』
あります。たった今ありましたよ、神くん! 沖田くんが、ハルキシさんに会いに行きます!
でも、どうしよう。沖田くんのプライベートだし、どこまで神くんに話していいんだろう。
秘密にしなくちゃいけないってほどのことではないと思うけど、かといって私からしゃべるっていうのも……。
とはいえ、私では手づまりなのも確かだし。なにより、ほかならぬ神くんなら、なにかあった時にきっと沖田くんの力になってくれる。
ごめんなさい、沖田くん。
私は神くんへの返信を入れた。
『沖田くん、明後日の夜にハルキシさんに会うみたい』
『マジかー。何時にどこ?』
何時にどこ。
『えっと……場所は歌舞伎町でそのどこなのかは分からなくて……時間も、夜っていうだけしか……』
ついてくるなと言われた時点で、正確な日時を聞こうという意識が乏しくなってしまったことに、いまさらながら気づく。
『いやいや、それだけ分かれば上等。ま、警察に捕まらない程度にふらふらしてみるよ。エリーはどうするんだ?』
『……来ないようにって言われてて』
『だから行かないのか?』
『……もしかして、煽ってる?』
『むしろ君が煽ってほしそうに見えるなあ。この天性のリーダーシップを持つおれの目には』
『リーダーシップというか、勘なのでは……。でも、うん。行きたい、とは思ってる』
『じゃ、一緒に行くか。瀬那に怒られないように、遠巻きに、安全にな』
沖田くんに怒られないように。
ううん、怒られてもいい。
何事もなく終わるなら。
私は神くんと待ち合わせの約束をすると、ベッドに寝転んだ。
ハルキシさんは、沖田くんになにをしようとしてるんだろう。
■
あっという間に、翌々日。
神くんとの待ち合わせは夕方だったので、せっかく新宿に出るということで、私はBL愛好仲間の友達と、午後に世界堂で買いものをしていた。
買い物といっても画材を買うのはその友達だけで、私はもっぱらそれについて回るだけなのだけど。
一通りいるものを買い終わって、西口を出て少し行ったところにある紅茶専門店に入る。
そういえば、沖田くんをラブホテルの前で見た日も、こうして木乃香ちゃんと買い物をした帰りだったなあ……などと思い出してしまう。
「燈ちゃん、なんだか雰囲気少し変わったね」
「えっ? そうかな」
「うん。前は、外に出る時もっとなんていうか、構わない感じの服装だったのに」
「構わないってなに!? た、確かに、少しは人目を気にするようになったかもしれないけど」
「もしかして、気になる人とかできた?」
「うっ?」
注文したアイスティーを持ってきてくれた店員さんが、口を開けて固まってしまった私を不思議そうにちらっと見て行った。
「燈ちゃん、分かりやすいねえ……。あたしと違って二次元限定じゃないんだろうから、どんどん好きにやればいいと思うよ」
どんどん……とはなかなかいかないんだけど。
「さては、あたしとのお出かけを夕方になる前に切り上げたいっていうのも、その人絡みなんじゃないでしょーね」
「ううっ?」
「燈ちゃん……」
ふるふると木乃香ちゃんがかぶりを振る。
「あ、あの、言っておくけど二人で会うとかじゃないからね? 全然そんな段階じゃなくて、むしろ全然進展しようがないんじゃないかっていうくらいの」
「相手、男の子?」
「うん」
「燈ちゃんがBL好きなのは知ってるの?」
「……言ってない」
というか、できることなら当分は言いたくない。
なんだか、沖田くんの仕事を知った上で「私、BL好きなんだよね!」と伝えるのは、あてこすりみたいに思われてしまいそうで恐ろしい。
「もし燈ちゃんがその人とつき合うことになったら、BLはどうするの?」
木乃香ちゃんが、わずかに身を乗り出して訊いてきた。
私はコースターを指先でもてあそびながら、
「い、いやだから、全然そんな段階じゃないんだってば。あっなんか、段階っていう言い方、おこがましい? いずれ登って行っちゃうぞって感じする?」
沖田くんは、BLってどう思ってるんだろう。
つまるところファンタジーだからって、気にしないのかな。嫌悪感があるかな。それとも、意外に好きだったり……という様子はないか……。
「木乃香ちゃんとか周りの人たちって、そういうのどうしてるのかな」
「あたしはリアルの男子とは全然だけど、万が一そういうことがあっても、趣味やめろっていうんなら、たぶん別れちゃうんじゃないかなあ。いくら好き合ってても、自分のかたちを変えたくないっていうか、犠牲を払ってまで付き合わなきゃいけないのかなって思う。あ、これオタクっぽいかな」
オタクっぽいかどうかは分からないけど、
「……気持ちは分かる気がする」
「でも、うちらの周りでも、リアルと男子と付き合うことになったからBL全封印って人はいるよ。折り合いつけられるなら、その方がいいんだろうなって思う。燈ちゃんはどう?」
趣味と好きな人。全然違う性質のものが、どうして同じ天秤にかけられる事態が起こりうるんだろう。人生の七不思議かもしれない。などという逃避をしつつ。
「私はできれば、元々好きだったものは、それと関係ない理由でやめたりはしたくないかな……」
木乃香ちゃんが、そりゃそうだよねとうなずいた。
冷房の効いた店内は涼しくて、外からの日光がシェードでやわらげられているのもあり、居心地がいい。
アイスティーに添えられたミントは、夏にふさわしく鮮やかな緑で、明るい琥珀色の紅茶がいっそうおいしそうに見える。
こんなに平和そうな世界に、今の私たちは生きている。
できれば、沖田くんの生活も、そんな風に平穏であってほしい。
沖田くんの場合、あの「仕事」は、平穏とは反対に位置するものだと思う。直接目にした二人のお客さんが、極端だったせいだからかもしれないけれど。
だから――
「もし、沖田くんが、元々やりたくてやってたことだとしても……」
小さい声だったので、木乃香ちゃんが「え?」と聞き返してきた。
なんでもない、と答える。
傲慢だな、私。自分の趣味は、人のために変えたくないって言っておいて。
私は、最近はやっていないという沖田くんの「仕事」を、このままぱったりとやめてしまってほしいと思っている。たとえ、今までは沖田くんが望んでやっていたことだとしても。
それが、ハルキシさんと会うことでぶり返すのが嫌なんだ。
■
JR新宿駅の中央東口で、周りの誰よりも背の高い神くんを、私はすぐに見つけた。
神くんは黒のシャツにすとんとしたチノパンで、かつてないほど印象の薄い服を着ている。
「おっ、いいねえ。エリー。動きやすい格好で来たな」
「うん、一応ね。神くんも」
「ふっ。次期生徒会長たるもの、服装のTPOくらいはわきまえんとな」
「……神くんて、今期の生徒会長選に立候補してたっけ? 見た覚えがないんだけど」
見れば絶対に覚えていると思う。
「なに、うちの生徒会の任期は半年だろ? 二年の後期、三年の前後期と、機会は三度も残っている」
「三年の、しかも後期に生徒会長やるの……?」
かもな! と親指を立てる神くんと、連れだって歩き出す。
私は木乃香ちゃんとは特に買い物もせず、小さなバッグにモスグリーンのパンツスタイルで、ラフかつ目立ちにくそうな、活動性を優先した服装にしていた。
それでも木乃香ちゃんにはあか抜けたというようなことを言われたのだから、今まではどれだけ地味だったんだろう……と思わずにはいられないけれど。
夕方六時。
お母さんには友達と晩御飯を食べてくると言ってあるけど、そうそう遅くなるわけにもいかない。
歌舞伎町と限定されているのなら対象地域はそんなに広くない――神くんいわく――そうで、探しやすい反面、あまり何時間もうろうろしていて変な目で見られるのもよくない気はする。
「あまり思いつめないで、気楽にな。見つからなくたって、別にそれですぐまずいことになるわけじゃないんだから」
「うん……」
「エリーにそんなに想ってもらえて、瀬那も幸せもんだな」
「そ、そんなことないでしょ」
「そんなことあるだろ。瀬那のどこが特に好きなんだよ?」
「どこって言われると……やっぱり、って、え?」
「ん?」
東口の先の信号は青い。なのに、私の足はぴたと止まってしまった。
「神くん、今、なんて?」
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