ハルキシ3

家まで上がり込むつもりはなかったんだよ、と言う暇もなく、私は沖田くんの家の中に通された。


中は1LDKで、家具はあまり多くなく、すっきりと片付いている。


確かに、エアコンが利いてひやりと涼しい。どうしても顔に汗が浮くのが気になっていたので、七月の熱気から解放されて、私は一息ついた。


しかしこれは私としては、なかなかの重大な事件じゃなかろうか。仮にも女子高生が、好きな男子の部屋に入っているのだから。


でも、沖田くんははっきりと男の人が好きだと言っていたので、ここで私との間に特別な意味は生じないのだろう。


安心したような、少しだけがっかりしたような。いや、そんなことを考えている場合じゃない。沖田くんは今、体がつらいんだから。


「……一人暮らしなの?」


ご両親と暮らしている間取りには見えない。


「割と近くに、父親と母親がそれぞれ住んでる。別に仲悪いわけじゃなくて、仕事の都合で。たまにここにもどっちかが泊まりに来るし、タイミングがかち合えば二人とも同時に来たりして、かなり窮屈になるな。……変だろ?」


「へ、変ではないよ! お仕事なんでしょう?」


「それに、子供には早い段階で一人暮らしをさせたいっていう主義ではあったみたいだな。衿ノ宮、なに飲む?」


「いやいやいやお構いなく。早く寝たほうがいいでしょ? シャワーとか浴びる?」


「いや、このままでいい。下手したら風呂場で寝ちまう。……衿ノ宮のことおもてなししたいのに、いよいよやばいな。くそ、ミー以外の人を初めて家に入れるというビッグイベントだというのに、いきなり寝る話かよ」


そう言いながら、沖田くんの目はとろんとしてきた。


「あー、なんかすっげえ空しい。一晩中人捜して、なんの成果もなく、たぶん寝て起きたら夜になってて、今日が終わるんだろ? 高二の夏休み前、最後の土曜日が、一人ぼっちでこんなにも寂しく過ごされていいのかね……」


「私、沖田くんが起きるまでいようか?」


ほとんど条件反射のように、そう言ってしまった。


嘘嘘、調子に乗りました。家の人が寝てる時に、上がり込み続けるなんてこと、できるわけがないです。


などと言う前に、


「本当か!?」


まるで久しぶりに飼い主に会えた犬のような目で見つめられて、私の言葉は止まってしまった。


「この感じだと、おれは三時間くらい寝れば大丈夫だと思う。家の中のものは好きに触っていいし、なに飲んでも食べてもいいから。本も好きなの読んでくれ。いや、それでも三時間て長いよな」


沖田くんは、傍らのチェストから、銀色の小さな金属を取り出して、私にくれた。


「ここの鍵だ。合鍵だから気軽に持っててくれて構わない。好きに出歩いてくれ。えーと、今十時ちょい過ぎか。じゃあ十三時に起きるよ。なにかあったら、おれが寝てる間に帰っても全然いいから。その時はまた、月曜日にな」


そこまで話すのが限界だったらしく、沖田くんはリビングの隣の寝室らしい部屋によろよろと消えていった。


着替えなくていいの? と訊こうと思った時には、もう寝息が聞こえ始めた。


……。


思ってもいなかったことになってしまった。


気持ちの整理が追いつかない。


まず合鍵だから気軽に持っててって、それはちょっと難しい。沖田くんの家の鍵。いつでも気が向いた時に入り放題ではないか。いやそうではないでしょ、と自分に突っ込む。


とりあえず、ドアに向かい、内鍵をかけることにした(沖田くんがかけ忘れていることに気づいていたので)。


でも、それが妙に悪いことに思えてしまう。


いや、後ろめたいことがあるわけじゃないんだから……と言い聞かせながら、私はゆっくりとノブについたつまみを回した。


好きにしていいと言われたからと言って、あまりいろいろ引っかきまわすつもりなんてなかったけど、沖田くんの本棚には興味がある。


リビングの隅、黒いカラーボックスを利用して作られた本棚には、何種類かの漫画本と数冊の文庫本、架空の大陸での戦記ものらしいシリーズ、それに難しそうな専門書が何冊か入っていた。ご両親のお仕事に関係するのかもしれない。


キイ、と木のきしむ音がどこからかして、私は危うく飛び上がりそうになった。


振り向くと、寝室のドアが開いている。ちゃんと閉まっていなかったらしい。


足音を立てないようにして歩き、ドアを閉めようとした時、ベッドのうつ伏せになった沖田くんの寝顔が見えた。


タオルケットを背中にかけ、瞼を閉じた顔だけがこちらを向いている。


完全に寝入っているようで、無防備な寝息が低く響いていた。


同級生の男子の寝顔。それも、沖田くんの部屋のベッドで、当の沖田くんの。


恋人同士でもないのにこんなものを見る機会というのは、地球上でどれくらいの人に与えられているものなんだろう。私に安心しきって意識を手放している、好きな人の寝顔。


つい、沖田くんの仕事のことを考える。


沖田くんのお客は、彼のこの寝顔を見たのだろうか。


全員ではないだろう。どんなお客さんなら見ることができて、どんなお客さんなら見ることができないのだろう。


こうしていると、普通の男子高校生にしか見えない。


それでも、シャツから覗くうなじや、二の腕、白い足首……そうしたパーツの一つ一つが、ひどくなまめかしい。


最近はともかく、少し前は、見知らぬ男の人を相手に、この沖田くんがホテルで、服を脱いで……


そして……


ぞく、とおかしな感覚が背筋に走った。熱い悪寒、としか言えないような、気持ちよくはないのに嫌ではない、奇妙な感じ。


私に与えられた三時間。その間ずっと、こうして沖田くんを見下ろしていたい、強烈な欲求にかられた。


でも、それはだめだ。きっと、沖田くんは、そんなことをされたくない。――こんな目で見られたいはずがない。


それは分かっているのに、顔に落ちたまつ毛の陰に、すっかり脱力した肩口に、いちいち目が吸い寄せられてしまう。


顔が熱い。呼吸が早くなる。なぜだか、その場で飛び跳ねたくなった。


頭の中で、誰かがうわーうわーと騒いでいる。誰かというか、私が。


私は寝室を出ると、静かにドアを閉めた。


リビングにある一人用のソファを借りて、体を沈み込ませる。


もう勝手に寝顔を見たりしない。


だから、同じ屋根の下にいるくらいはいいよね。


不思議ににやけてしまう頬を、誰も見ていないのに両手で隠しながら、私はそれからの三時間、ずっと沖田くんのことを考えていた。


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