ハルキシ2
「お、沖田くん!? い、い……どっ……」
いつから近くにいて、どこからどこまで聞いていたの? と言おうとしたのだけど、どうやら察してくれたらしい沖田くんは、
「そっちの子が、『私見てたの』って言ってた辺りから。声かけようとしたんだけど、少しばかりは気になったからな。なにをどう見られたのかな、って」
私が奥野さんの方に視線を戻すと、彼女は真っ青になって震えていた。
「あ、あ、あの……お、沖田くん……私」
「ああ。……気にかけてくれてたんだな。ありがとう。君の言うこと、その通りだと思うよ。それに……ごめん」
謝罪は、告白に対してだろう。奥野さんは、またも大粒の涙をこぼして、ぱたぱたと走っていった。
「悪いことしちまったな。……なんで、おれのことなんて好きになる女子がいるんだろう。女に好かれるようなこと、した覚えもないのに」
本気で言っているらしい。そうつぶやく横顔だけで、私は見とれてしまいそうになるのに。顔立ちというよりは、もう戻らない水底の宝物を見るような、切なそうな眼差しに。
「そ、そうだ。沖田くん、平町さんとはどうだったの?」
「ああ。昼休みに捕まえて話ができた。……やっぱり、噂を広めてたのはあいつだった。泣かれちゃってさ、あまりきつく言えなかった。とりあえずもう、やめてくれるように頼んだよ。なんでそんなことしたんだって訊いてもはっきり答えなかったんで、ま、それだけ嫌われたってことなんだろうな」
違うような気がするよ、沖田くん。
「……それに、なんであんな噂を広めたのかなんてことより、一番訊きたかったのは別のことだ。平町が直接売りの現場を見たわけじゃないだろうとは思ってたからな、おれの仕事のことを、誰から聞いたか。これが肝心だった。平町が知っていたのはそいつの風体だけだったが、これはほぼ誰なのか確定した」
私ののどが、こくりと鳴った。
「平町が新宿でたまたま知り合った男が、おれの知人だったらしい。おれは、これからそいつのところに行ってくる。なにかのすれ違いのせいかもしれないし、案外あっさり片付くかもしれない……そうだといいけどな。以上、経過報告だ。じゃな」
にっと笑って、沖田くんは私に背中を向けた。
夕暮れが近づいていて、わずかに暗闇色を含んだオレンジが、その肩を照らす。
「待って、沖田くん。これから行くのって、歌舞伎町?」
沖田くんはくるりと振り返り、
「当たり。でもあいつ、どこにいるか分からないんだよな。上野か、池袋かも。連絡してもあんまりつながらないし。実は午後の授業さぼって、何度か電話やメッセージ入れてみたんだけど、なしのつぶてだから、今晩は空振りするかもしれない。でもまあ明日は学校休みだし、多少遅くなってもいいだろう」
「私も行く」
え、と沖田くんは組みかけた腕を途中で止めた。
「なんでまた? やめとけよ、昼間ならともかく夜の繁華街なんて。衿ノ宮は高校生だろ」
「沖田くんもだよ!? い、いやそれはともかく、連れて行ってほしいな、なんて」
「だめだ。特に、さっきの話を聞いた後じゃな」
「話? のどの部分?」
「全体的に。特に『誰なのか』のところ。衿ノ宮、おれは、必要もないのに君を危なっかしい場所になんて連れて行かない」
「……危なっかしい場所に行くの?」
「一般的にだよ。酔っ払いもいれば、ろくでもないのもふらふらしてるからな」
「……探すのは、ハルキシさんて人?」
沖田くんの顔色が変わった。
「衿ノ宮、なんで名前……そうか、ミーか。あいつ……そういえば一度会ってたな。しかしどういう勘してるんだ……」
沖田くんが喉仏をさらすほど、大きくのけぞった。
わざと大仰にしているみたいで、そのふざけている感じに余裕があったので、私も少しほっとしてしまう。
「ごめんなさい。私、詮索するつもりじゃなくて」
「ああ、いいいい。謝らないでくれ。どういう流れでその名前が出たのかは、だいたい想像がつくよ。聞いたかもしれないけど、前からの知り合いなんだ。だからハルキシ自体が危ないとかおっかないとか、そういうんじゃない。単純に、学校よりは治安が悪い場所だから、衿ノ宮は行かないでいいってだけだ」
「それじゃ、日本のたいていの場所が当てはまると思うけど……」
「今日だけは聞いておいてくれ。おれは、おれのせいで衿ノ宮になにかあったら立ち直れない」
沖田くんは、口元は笑っていたけど、目は真面目だった。
「う、うん。……分かった。ごめんね」
「さっきの今で、また謝ったな。もう、衿ノ宮はおれには謝罪禁止だ。君はおれになにをしてもいいから、謝るようなことも存在しない」
「そんなことはないと思うけど!? それに、沖田くんだって、私に結構謝るよ?」
そうだっけか? と沖田くんは首をひねり、
「なら、おれもなるべく控えよう。じゃ、行ってくる。さすがに私服で行くから、補導は心配しないでくれ。これでも、たまに大学生に見られるんだ」
ひらひらと手を振る沖田くんの後ろ姿を、私は見送る。
さっきよりも闇が濃くなった夕日が、ワイシャツの背中を彩っていた。痩せ気味な体が、深い海に沈んでいくようだった。
■
その日は、家に帰っても、キーボードを叩く気にはなれなかった
さすがに、妄想の中の沖田くんを追いかけるより、現実の沖田くんのほうが圧倒的に気になる。
ハルキシさんてどういう人なんだろう。神くんから聞いた様子だと、格好はやや奇抜みたいだけど。
神くんが会ったのが半年くらい前。
沖田くんが「仕事」を始めたのが一年くらい前。
それなら、沖田くんとハルキシさんは、「仕事」を通じて知り合いになったのかな。
つまるところ、どういう関係なんだろう……。
答えが出るはずのない疑問をいくつも思い浮かべていたら、あっという間に夜になってしまった。
仕事から帰ってきたお母さんと夕食を食べて、お風呂に入って、寝る。
行動はいつもの生活をなぞっていたけど、疑問の数は減るどころか、増えるばかりだった。私が一人で考えても答が出るわけないんだから、当たり前なのだけど。
寝て起きると、土曜日。
早く目が覚めてしまったので、着替えて、特にあてもないのに出かける。
来週には一学期が終わって、夏休みがやってくる。
青く晴れ上がった空を見ていると、もう少し気持ちが浮ついてもよさそうなのに。
はた、と気づいたけど、私はもしかして、これから一ヶ月半も沖田君に会えないのではないのか。
せっかく打ち解けることができたのに、ここでそんなお預けはなかなか切ない。
とはいえ、私の方から、どこかへ遊びに行こうと誘うのも……どうなんだろう。連絡先交換の時は、沖田くんは私から働きかけるのを待っていてくれたらしいけど。
そんなことをぐるぐる考えていると、いつの間にか駅に着いていた。
うちからどこへ行くにしても、まずは隣の柏駅まで出ないと始まらないので、順当ではある。
時計を見ると、まだ十時になっていない、お店もあまり開いていないだろうけど、まあいいか。
電車に一駅揺られ、柏で降りると、二階の東口に出た。歩いているうちに、興味のあるお店も見つかるだろうと思って歩き出した、その時。
駅前の、タクシー乗り場を見下ろす二階広場に、見知った後姿があった。ブルーのストライプのTシャツに、黒のワイドパンツ。初めて見る服装だけど、背格好だけで確信できる。
私はそろそろと近づいて、顔を覗き込んだ。
「沖田……くん?」
「うお、衿ノ宮。びっくりした。まじか、本物の衿ノ宮? ……なんで……衿ノ宮って、」
「え?」
「あ、いや。えーと、家この辺なのか?」
「うん、隣駅。高校受験の時、予備校もこの近くだったし。それよりどうしたの、こんな早く。昨日、遅かったんじゃないの?」
ハルキシさんとは、会えたの?
そう訊く前に、沖田くんは両手のひらを上に向けて肩をすくめた。
「だめだった。あの野郎、会いたくともなんともない時はどこからともなくくるのに、こっちから用事がある時はいっつもこうだ。新宿から池袋回ったところで終電終わって、始発で一応上野を見にいって、収穫ゼロ。おかげで徹夜だよ」
「徹夜? 寝てないの?」
「そ。おれ、仮眠でもいいから寝ないとだめなんだよな。今にもこの場で崩れ落ちそう」
沖田くんがくなくなと頭を振った。
「あ、危ないよ。ここで降りたってことは、家近いの?」
「歩いて十五分くらいかな。あっちのコンビニの裏らへん」
沖田くんは大通りの向こうを漠然と指さす。
「送っていくから。もう少しだけ、頑張って」
私たちはエスカレーターで下に降りて、隣に並んで歩いていく。
沖田君の足取りは確かだったけど、何度も目を手の甲でこすっていた。
「衿ノ宮には、変なところばっかり見られてるな」
「いいところもちゃんと見てるよ」
「ミーにキスされた日のやつとかだろ? 充分変だよ」
苦笑交じりに足を進めていると、一軒のマンションに着いた。
灰色の、少し古そうに見えるけど、造りのしっかりした清潔そうな建物だった。
「ここの二階なんだ。オートロックなんかじゃないから、普通に入ってくれ。冷房タイマー入れといてよかったよ」
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