ハルキシ1
<第二章 ハルキシ>
一学期の終業式は、来週に迫っていた。
ウソカノの一件から、神くんとも打ち解けた私は、この日は沖田くんと神くんと三人でお昼休みを過ごしていた。
沖田くんが「人目がうるさい」と言うので、屋上に来ている。
春や秋はにぎわう屋上も、七月の下旬ともなると太陽が強烈すぎて、閑散とするのが常だった。
私たちは、神くんがどこからかパラソルを持ってきて組み立て、日陰を作ってくれたので、ありがたくその下でお昼を広げている。
「んで、瀬那とエリーはつき合ってんのか?」
箸先のインゲンを取り落としそうになる私とは対照的に、沖田くんはごく冷静に訂正を入れた。
「つき合ってはない。仲いいだけ。な」
うん。とうなずきながら、少しだけ寂しくなる。表には出さずに。
でも、はっきりと仲がいいと言われるのは、くすぐったいような嬉しさがある。自分からはなかなか訊けない。沖田くん私と仲いいよね、なんて。
「ところで、瀬那。噂になってるの知ってるか?」
「おれの? なにが?」
首をかしげる沖田くんの横で、私の胸が不吉さに高鳴った。
もしかして。
「瀬那の『仕事』についてだよ」
やっぱり。
「前からだろ。衿ノ宮にしか見つかったことないし、どうってことないよ」
「いや、今までとは違う、具体的な内容まで話に出てる。歌舞伎町や池袋で売りやってるのを見たやつがいるってよ。今までも似たようなことはあったが、今回のはやたら具体的だ。それに、ほかの学年まで話が広がってるっぽいぜ」
私が前に沖田くんのよからぬ噂を聞いた時は、ほんの数人の間で、しかも大して中身のないものだった。沖田くんが夜の街で悪いことををしているらしい、程度。顔がきれいでミステリアスな男子になら、年に一度くらいはそんな話が出るんじゃないか、と思えるような、他愛のないもの。
でも、今回は違うらしい。
神くんに向けていた顔を、沖田くんはゆっくりとうつむかせた。
「いずれこうなるかもとは思ってたけどな……。でもおれ、ここのところ客取ってないぞ。ミー、それいつの話だよ? そいつら、何月何日におれを見たんだ?」
「さすがにその辺は不明瞭だ。とにかく、あのかっこよくて人気者の沖田瀬那が、おっさん相手に援助交際をしていると、暇人どもが騒いでる」
別に人気者ではないだろ、と沖田くんは笑って、
「援助交際ね。じゃ、ホテルに入るところまで見られてんのかな。だったら衿ノ宮みたいに、その場でとっつかまえてくれればいいのにな」
どういう顔をしていいのか分からず、私は目を逸らしてしまう。
「ははは。衿ノ宮、困ってるなあ」
そう沖田くんが言ってくるので、
「困ってるってわけじゃ……。どっちかっていうと……」
「瀬那。エリーはな、怒ってるんだよ」
「怒ってる?」と沖田くん。
「エリー?」と私。
「そんなことも分からんようじゃ、瀬那もまだまだだな。ところで友達思いのおれ様は、すでに噂の出どころも突き止めていたりする」
神くんが、親指を立てて自分を指さした。
「ミーって、妙なところでやり手だよな。うさんくせえ」
「次期生徒会長にふさわしく、表裏の実務能力に長けていると言え。おれはお前に仕事をやめろとは言わんし、理不尽にお前が追いつめられるようなことがあれば守ってやる。しかし単なる噂話を越えてSNSでの拡散でもされたら、なかなか厳しいぞ。早めに対処しろよ。早めというのは、つまり今日のことだ」
沖田くんは一つため息をついた。
「分かったよ。で、誰なんだ? 噂の発信元は」
神くんは、ちらりと私を見た。それから、
「平町だ。平町あずさ。お前の元カノだな」
今度は、沖田くんがちらりと私を見た。
「な、なに?」
「いや。なんでもないよ。あのなミー、元カノじゃない。告白されて、断っただけだ。それももう半年以上前だぞ。なんで今になって、そんなこと」
「だから、向こうにとっては過去じゃねえんじゃねえの? そんな時に、愛しさ余って憎さ百倍の男の醜聞が手に入ったもんだから、複雑な心境からついつい心ない真似をしてしまったのではなかろうか」
「解説口調で言うなコラ。くそ、昼休みまだ時間あるよな。平町のやつ、教室にいるかな」
そう言うと、沖田くんは立ち上がって校舎の中へ入っていった。
それを見送った神くんが、ぐるんと私の方へ振り返ったので、驚いて肩が小さく揺れてしまう。
「エリーは、平町知ってるのか? 金髪のなっげえ髪の毛で、いつもスカートから足ドバッと出してる、同学年の」
エリーという呼び方は、もう神くんの中では確定らしい。
「分かんないな……金髪の子、何人か二年にいるし」
「そうか。なんにせよ、エリーはもうちょっと感情と表情を切り分ける練習をした方がいいな。そんなんじゃ、瀬那にすぐばれるぞ」
「な、なにが!?」
「元カノっつった時のさっきの顔。顔面に、漫画みたいに縦線がザッと降りたみたいだったぜ」
うそ。思わず、両頬を手で覆う。
「悪い悪い、意地悪だったな。瀬那と仲良くなる女子なんてそうそういないから、ついからかっちまった」
「もう。そんなんじゃ、生徒会長に推薦されないよ」
「それは困るな。おれの今一番の目標だ」
そう言った神くんの顔は、おどけた口調とは裏腹に、ひどく真面目だった。
「……神くんは、どうして生徒会長になりたいの?」
「瀬那を守れるからだ」
神くんは、よどみなく、私に向かってそう言い切った。
「沖田くんを……?」
「仕事のこともそうだけどよ、あいつなんか危なっかしいだろ? そんな時、一番発言力があって、一番他人から認められていて、一番瀬那を守れる場所にいたい。高校なら、それは生徒会長かなってな。役職自体が面白そうだなってのもあるけど、元々の動機はそれだな。不真面目だなあ、おれ」
神くんがけたけたと笑う。
「……ううん。不真面目ではないと思うよ。ちっとも」
「ありがとう。おれも、エリーが真面目に瀬那のために怒ってくれたの、嬉しかったわ」
神くんが、おどけて眉をいからせる。
私は思わず、指の先で眉間のしわを伸ばした。
「エリー、おれが心配してるのは、平町のことだけじゃない。あの女がそもそもの元凶なら、今以上に瀬那を追い詰めるつもりはないだろう。そうでない場合――今以上に瀬那を傷つけてやろうと思っているやつが関わっていたら、これはちょっと本腰入れて対処しないといけなくなる」
寒気がして、つい、肩を縮めた。
「そんなこと、あるの……?」
「エリーは心当たりあるか?」
私がかぶりを振って否定すると、神くんは一つ息をついて、
「おれはある。一度しか会ったことがないし、顔と名前以外は知らんが、あいつは瀬那に妙に執着してた。エリーと仲良くなってからの瀬那は、少しずつ仕事を減らしているように見える。それが気に食わないのかもな」
「あいつ? 誰? この学校の人?」
「いいや。高校生じゃないし、あれは学生じゃないな。二十歳前後くらいの男で、名前はハルキシという――本名なのか、名字か下の名前かも分からねえけど」
「ハルキシ……」
「おれが会ったのは、半年くらい前だ。夜中の歌舞伎町で瀬那とバッタリ出くわして、その時ハルキシは瀬那と一緒にいた」
「……なんで神くんは、夜に歌舞伎町に?」
神くんはついと目をそらし、
「うんまあそれはいいじゃないかフフフ。で、おれが会った時のハルキシは、銀色のロングヘアで紫のカラコン入れて、布が多いのに露出度の高い、珍妙な白黒の服を着てた。話してすぐに、瀬那と同じ仕事をしてるんだと知れたよ」
服のセンスに関しては神くんも人のことは言えない気がしたけど、ハルキシという人は、また別方向に独特なようだ。
「別に反社とかってんじゃないとは思うが、あまりお近づきになりたくない雰囲気は出してたな。瀬那は平気な顔してたが、ハルキシの方は尋常じゃない目つきで瀬那を舐め回してた。おれにはとっとと消えろと言わんばかりだ。その場は学校の話にかこつけて瀬那を連れて帰ったんだが、あの野郎、視線でモノが切れるんじゃないかってくらいの鋭さでおれを睨んでたよ。瀬那に、仕事絡みでなにか悪いことが起きるなら、こいつが関わってるせいなんじゃないかって……予感めいたものがあった」
その時、予鈴が鳴った。
「おっと、変な話で昼休みが終わっちまったな。さすがにエリーに直接なにかは起きないと思うが、少し気をつけておいてくれ」
「う、うん。分かった。ありがとう……」
私はスカートをはたいて立ち上がりながら、パラソルをたたむ神くんにもう一度お礼を言った。
それでも頭の中は、沖田くん身にこれからなにが起きるのか、その心配でいっぱいだった。
■
教室に戻り、次の授業で使う教科書を出していると、カナちゃんとヨウコが左右から私を挟んで立った。
「な、なに?」
「燈……。燈は、あの噂が本当かどうか知ってるの?」
カナちゃんに小声でそう言われて、すぐになんのことか思い至る。
でも、私が勝手に沖田くんのことを口にするのははばかられた。
あの仕事をしているのだから、噂は出まかせだと言えば嘘になる。
かといって、本当だなんて言えるわけがない。
肯定するのも否定するのも、沖田くんのためにはならないと思った。そうなると、
「分からないよ。そんな話、しないもん」
私にできる範囲で嘘をつくしかない。ごめん、二人とも。
ヨウコが天井を見上げた。
「そうだよねえ、そんなの思いっきりプライバシーだもの。でも、最近燈が沖田くんとよく一緒にいるの、それはそれで噂になってるよ。変なのに絡まれなきゃいいんだけど」
「へ、変なのってなに?」
「たとえばあ」
がら、と教室のドアが開いて、先生が入ってきた。
まだ立ち歩いていて生徒たちが、カナちゃんとヨウコも含め、慌てて席に戻る。
本鈴が鳴り、授業が始まった。
沖田くが戻ってこない。
平町さんとはどうなっただろう。放課後に聞けるかな。
■
そして、放課後。
私は終礼が終わると、すぐに教室を出ようとした。
「あ、待って、衿ノ宮さん」
声をかけてきたのは、奥野さんだった。黒い髪がさらさら揺れて、遠慮がちにしていても独特の存在感がある。
「うん、なに、奥野さん。どうしたの?」
「噂、……聞いたんだけど。あの、沖田くんの」
おずおずとした口調だったけれど、私は、お腹の中に苦い石を詰め込まれたように感じた。
「ちょっと、場所変えようか。えっと、静かなところ……」
私は奥野さんを連れて、生物室や化学室のある一角に向かった。
生物部などの部活は今日は休みらしくて、ひと気はない。廊下の前後にはどちらも階段があるけど、ひとまず誰もいないのを確認して、私たちは小声で話し出した。
「衿ノ宮さんは知ってたんでしょう? 沖田くんが、その……悪いことをしてるって」
こう単刀直入に言われると、はいともいいえとも言いにくい。
「そんなの……そんなの噂でしょ? 勝手にいろいろ言うの、よくないよ」
奥野さんは、上目遣いに私を見た。長い前髪の間から、細く視線を伸ばしてくる。
「ごめんなさい。私、見てたの」
見てたの。
なにを?
心臓の鼓動が早まる。
なにか、かまをかけられてる? でも、奥野さんがそんな……
「前に、歌舞伎町で、衿ノ宮さんと沖田くんがいるの。ホテルの前だった。大人の男の人と一緒に。……どちらかのお父さんとかじゃ、ないよね」
しらばっくれるという選択肢は、なくなってしまった。
私だけが目にしたと思った秘密は、さらに別の人物に私ごと目撃されていた。
なぜこの学校の生徒は、みんな歌舞伎町に行きたがるんだろう。人のことは言えないけど。
「でも奥野さん、それなら、沖田くんがなにもせずに出てきたのも分かってるってこと……だよね?」
「確かに、そういう風には見えたよ。でも、あれが初めてっていうわけじゃないんでしょう? だったら……」
だったら。
だったら、なに?
「衿ノ宮さん、沖田くんと仲がいいなら、変なことはやめさせるべきだと思う」
変なこと。
おかしいな。私だって沖田くんには、「仕事」をやめてほしいと思っていた。なのにこんな言い方をされると、なぜか、仕事ごと沖田くんをかばいたくなってしまう。
でも、それはやめておく。きっと私の本音とは違うから。今、制御も説明もできない感情に身を任せるのは、とても危険な気がした。
「うん……。奥野さんの言うとおりだと思うよ。でも沖田くんのことに、私が口出しできるわけじゃないし、噂の中身だって確かな……」
そこまで言いかけて、ぎょっとした。
奥野さんの目から、ぼろぼろと涙がこぼれている。
「私だって……私だって、正義感だけで、こんなこと言ってるんじゃない……」
やっと分かった。奥野さんが、沖田くんをどう思っているのか。
「衿ノ宮さんが、……私より、ずっと沖田くんに近いなら、どうして……私だったら、そんなこと」
「奥野さん。私は」
「ずっと好きだったの。一年の時から。でも、相手にされないだろうって分かってた。見てるだけでよかった。でも歌舞伎町で、あんなこと……あんなおじさんと、そんなことしてるんだって思ったら、すごく気持ち悪くなった。好きな気持ちが、全部吐き気に変わったみたいな、最悪の――最悪の気分。どうして? どうして衿ノ宮さんは、あの場に居合わせて、今も平気でいるの? 今も沖田くんは、続けてるんでしょう? あれを」
さすがに、これでは、言われるがままでいるわけにはいかない。
「……私だって沖田くんのことは知らないことばっかりだよ。でも、知らないからこそ、勝手なことは考えないようにしてる。今の噂のことだけじゃなくて。理由を知っているのと知らないのとじゃ、同じものでも全然違って見えるはずだから。私が決めてるのは、沖田くんの味方でいることだけなんだよ」
奥野さんが、なにか言おうとして、その言葉を飲み込んだ。
――かと思ったら、ヒッと声を上げて、体を強張らせる。
「奥野さん? どうかし……」
その時ようやく、私は背後から響く上履きの音に気づいた。
振り向いて、「ヒ……ヒェッ……」と、私も声を漏らす。
「お化けみたいに言うなよなあ。衿ノ宮まで」
沖田くんが、小首をかしげるようにしながら私の顔を覗き込んで、そう言ってきた。
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