ウソカノ4
――衿ノ宮は、その子たちとは違う。最初からおれが男が好きだって知ってるし、おれもそれを承知で交流を持ってる。前の女友達には、そこは隠してたんだ。おれに非があるよ。いや、そんな話じゃないな。とにかく、頼まれてほしいんだ。もちろんお礼はする。
私、そんなお芝居自信ないよ。
――嘘つかせる形になって申し訳ないけど、いざその時になったら、おれが一方的にしゃべって終わらせるから。
……そんなナイーブな話、私も、前の子たちと同じで、沖田くんを傷つけるかもしれないよ。
――いや、傷つけたのはおれなんだよ。そこは認識を変えちゃいけないところだとおもってる。第一、……
第一?
――衿ノ宮は、男が好きな男なんて、好きになったりしないだろ?
最後の一言は、なにげなく、気負いのない笑顔で言われた。
でも私は、ほかのなにより、その言葉に、頭の中身を強く揺らされたような衝撃を受けた。
どうして?
なんで私なんだろう。
その理由は聞いた。納得もいく。
それでも、何度も胸の中で問い直してしまう。
なんで私なんだろう。
ウソカノ。
自分を好きにならないと信じている相手だからこそ頼める、嘘の彼女。
沖田くんは私を信じてくれている。仲がいいと言ってくれている。それはすごく嬉しい。
それなのに、あの無邪気な笑顔と最後の言葉を思い出すたびに、胸の奥が針で突かれたように痛む。
胸の中の半分が嬉しさで満ちると、もう半分がつらさで満ちる。それはなぜか、単純につらさだけで心が埋まってしまうよりも、ずっと苦しかった。
やめようやめよう、こんなことを考えるのは。もっと楽しいことを考えよう。
それでも頭には、沖田君の顔が浮かんでくる。
私は観念して、沖田くんを目で追い始めたころのことを思い出すことにした。
あれはちょうど一年前の今頃、高校最初の夏休みの前だった。
初めての期末テストを目前に控え、なにをどのくらい勉強すればいいのか、見当もつかずに復習に追われていた。
高校受験が終わった時、もう当分勉強なんてしないぞと無敵の解放感に身を任せていられたのは、ほんの数ヶ月もない短い期間だった。
放課後、集中して勉強しようと学校の図書室で居残りし、切り上げて下校しようとした時、まだ夏の太陽は強烈な西日を校舎の窓から廊下へ送り込んでいた。
恐ろしく体温の高い動物にがっしりと抱きつかれているような空気の中、額の汗をハンドタオルでぬぐいながら下駄箱までくると、同じ一年生らしい団体が五六人、私の横を大きな声で話しながら通過していった。
「うちのクラスの沖田ってさあ、マジで教室で人としゃべんねえよな」
「でも発表とかは全然するじゃん。人前で話すのが苦手ってわけじゃないんだろ」
沖田くん。その名前には聞き覚えがあった。高校にきて最初に友達になったカナちゃんが、隣のクラスにかっこいい男子がいると騒いでいたから。
――燈は見た? いやなんかスラッとしてて、でも痩せぎすってわけじゃなくてさあ、筋肉はありますよって感じで、前髪が絶妙の長さで目が少し隠れてて、それがまた絵になるんだよー。沖田瀬那くんていうんだって。
その時私はまだ、沖田くんを見たことがなかった。もしかしたら見かけてはいたのかもしれないけれど、少なくとも、顔と名前が一致していなかった。
がやがやと通り過ぎて行った男子たちは、昇降口を出る時、右手の中庭を指して言った。
「あれ、沖田じゃね? なんであんなとこで突っ立ってんだ? あっついだろうに、変なやつ」
男子たちは首をひねりながら帰っていく。
私は、彼らの指さした方を見た。
そこでは、楡の木の下、沖田くんが立ったまま文庫本を読んでいた。しかもそこは西日に対して角度的に楡の梢が影を作ってくれておらず、彼は、橙色の突き刺すような光をまともにその身に浴びている。太陽に背中を向けているけれど、あれでは体の背面は相当暑いだろう。
確かに変だ。でも、なにか理由があるのかもしれない。変ではない理由が。
私は目を凝らした。すると、沖田くんのすぐ横のテーブルに隠れて見えづらいけれど、どうやらベンチに誰かが寝転がっているらしい。
見えづらいのは障害物があるからだけでなく、その寝ている人のいる場所が、沖田くんの体が太陽光を遮っているせいで、陰になっているからだ。
寝ていた人が、いきなり起き上がった。そして私にも聞こえる声で、
「あー、寝ちまった。あれ、瀬那、なにしてんだそんなとこで。暑くねえ?」
それに対して沖田くんの声は、幾分聞き取りにくかったけれど、どうやら「暑いに決まっているだろう」というようなことを答えたらしい。
起き上がった人が、けらけらと笑った。
「いやー、ひさしになってくれたのか。いいとこあるじゃん、瀬那。じゃあなに、真昼時で太陽が真上にあったら、上から覆いかぶさってくれんのか?」
これに対しては、「そんなわけあるか。もう帰る」みたいなことを答えたようで、沖田くんは文庫本を閉じて歩き出した。
こちらの方へ向かってくるので、私は――なぜか――慌てて校門の方へ向き直った。背中越しに、起き上がったほうの人の声が聞こえてくる。
「まあ待てよ、瀬那。お前って普通にいいやつなのに、クラスだとめちゃくちゃ浮いてるよな? お前がそうしたいなら、この次期生徒会長、
「なに言ってるんだ、お前は」
この時初めて、沖田くんの肉声がはっきりと聞こえた。あきれたような、けれどさらさらと乾いた、春先の風のような声。
そして、乱れた足音と、押し殺したような声がする。
なんだろうと思って、つい振り向いた。
すると、二人の姿はなかった。中庭のたもとの校舎の陰に隠れたんだな、ということは、すぐに分かる。
「お前なあ!」
春の風の声がそう叫びながら、沖田くんは校舎から出てきた。唇を手の甲でぬぐっている。なにを――しだんだろう。
「はっはっは、軽いスキンシップだよ。国によっちゃただの挨拶なのかもしれないぜ」
「しれないのかよ、せめて断言しろよ! まったく……」
毒づきながら、沖田くんは足を速めた。
あっという間に私の横に来て、そのまますれ違いそうになる。私はその時、指が震えて、手に持ったままだったハンドタオルを落としてしまった。
沖田くんは、あ、と言ってかがみ込み、それを拾ってくれた。軽く表面を払ってから、私へ返してくれる。そして小さな声で、
「見えたかな。女の子に変なもの見せてごめん、勘弁してくれな」
と呟いた。
勘弁?
なにを? 見えませんでしたが、なにをしたんですか?
そう訊くことはできなかった。
間近で見た沖田くんの顔は、その辺りの女子よりよほどきれいだった。前髪の奥の目が、夕日の中で一層濃く、その存在を主張していた。
再び歩き出す沖田くんに、もう一人の男子が追いすがろうとして、こちらも私に
「しい」
と口止めのポーズをした。
こちらの人は彫りが深く、顔にメリハリがあって、沖田くんとはタイプの違う美形だった。肩甲骨のあたりまであるオレンジ色の長髪を、縛りもせずに揺らして、あっという間に去っていった。
私は、胸が熱く高鳴っているのを自覚した。
一目散に、家に帰った。
そして買ってもらったばかりのノートパソコンをがばりと開くと、練習したブラインドタッチで猛然と文章をつづり出した。
この時期、既に私はBLにはまっていた。
今まで主に二次元で妄想を繰り広げていた私に、今日の出来事は刺激が強すぎた。
私は、沖田くんのことを、名前、顔、声くらいしか知らない。沖田くんの顔立ちが整っていたこともあって、映画のスクリーンの向こう側にいる人のように、どこかその存在に現実感がなかった。
そのころ私が読んでいたBLはどれも、絵がきれいで、言葉がきれいで、登場人物の心がきれいで、ほとんど私にとっての理想の世界だった。
その世界に、私の想像の沖田くんに足を踏み入れてほしくて、たまらなくなっていた。
学校で孤立している高校生。唯一心を許しているのは、オレンジの髪のちょっと不良っぽい男子。二人は、ええと――そう、幼馴染で、お互いにとても大切な相手。神くんといったか、彼の髪は、実は沖田くんが染めてあげているのだ。神くんは、ほかの人には決して髪を触らせない。特別な、たった一人――沖田くんにしか。
彼らは家に帰ると、必ずどちらかの部屋に行く。これは毎日の習慣。
神くんが、ほかの女子を見ていただろうとか、教師で気になるやつがいるのかとか、沖田くんにちょっかいをかける。
沖田くんは少し赤面しながらすねてみせて、やがて神くんの胸に頭を預け、そして……そして……
「ふ、ふあああああ」と気持ちの悪いため息が私の口から漏れる。
筆が止まる気配はなかった。
気が付くと、真夜中になっていた。そういえばお母さんに、もう寝るわよとあきれた声でドアの向こうから言われたような気がする。
私は、肩で息をしていた。キーボード叩くって肉体労働なんだな、と思った。
ふと我に返ると、足の先にうそ寒さを感じた。それは腰から背筋を這い上って、すっぽりと私を包んだ。
その嫌悪感を、罪悪感と呼ぶのだと、すぐに気づいた。
全然知らない人なのに、こんなことをしてはいけない。その声は確かに私の中にあるのに、あまりにか細くて、力を持たない。
次の日から、私は、沖田くんを目で追うようになった。
声をかけるなんてできない。近づくことさえ恐れ多い。私の理想の世界と現実をつないでいる、計り知れない存在に対して、私ご時が接触なんてしたくない。
そして、尊いシチュエーションが頭の中に去来するたびに、それをなんの工夫も構成もなくひたすらキーボードを叩き続ける。私自身見たこともなければ聞いたこともない行為を、架空の沖田くんは私のテキストの中で、想像任せにどんどん繰り広げていく。
もしなにか不慮の事故で私がこの世を去ったとして、この文章が遺品整理をしようとした両親の目にでも触れようものなら、私の霊は家を揺るがすような叫び声をあげるだろう。
これから先、どんなに死にたいと思うようなつらいことがあったとしても、このデータを削除するまでは死ねない。そういう意味では、なにより私を強く生かしてくれる特効薬が、沖田くんの妄想だった。
そうこうしているうちに、あっという間に一年は過ぎ、二年生のクラス分けが発表された時は、ひいと思わず悲鳴が漏れた。
廊下に張り出された掲示を何度見返しても、沖田瀬那くんの名前が、私と同じ2-Aのところに書かれている。
すでにその時には、私のテキストファイルは、ロックをかけたフォルダの中に無数にひしめいていた。
……思い出してはみたものの、まったくもって、ろくでもない思い出だった。
まだよく知らない人のことを噂話なんてできないなどと言っておきながら、文字と想像の世界ではとんでもないことをさせている。
「やめなきゃ、こんなこと……」
口に出しても、手は言うことを聞いてくれない。
現実の沖田くんといると、すごく胸が高鳴る。彼の力になってあげたいと思う。
でも、妄想の沖田くんは、私のことを助けてくれる。彼のおかげで生きる意欲が湧いてくる。
後者だけで私は楽しく生きていけるはずなのに、現実の沖田くんと距離を置くことが、私にはできそうもない。
いまだに慣れない自己嫌悪がまた強まってくるのを感じながら、私の閉じた瞼の裏には、今日の沖田くんの笑顔が浮かんでいた。
――衿ノ宮は、男が好きな男なんて、好きになったりしないだろ?
そうだよ。私が夢中なのは、私の想像の中の沖田くんだから。
だから、本物の沖田くんを好きになんてなるわけがない。確かに見た目はとてもかっこいいけど、それだけで人を好きになんてなるわけがない。
彼を好きになるようなことを、私はなにもしたりされたりしていないのだから。
ただ、猛暑の日に、自分の身を挺して友達のひさしになってあげるような優しさを持っていると、あの日知っただけだ。
私ご時を、女子だからという理由で気遣ってくれる性格だと知っただけだ。
それからなぜか、目で追い続けてしまうというだけなのだ。
だからこの気持ちは、きっと勘違いだ。
もしそうでなくても、誰にも明かされない他愛もない感情としてじきに消えていくに違いない、と言い聞かせてきたのだ。
私と沖田くんが現実に接近することなんて、あるわけがないと思っていたから。
■
沖田くんと待ち合わせをしたのは、期末試験を終えた、七月半ばの土曜日だった。
午前十時、新宿西口、改札を少し出たところ。
「あれ、衿ノ宮早いな。まだ二十分前だぞ。待った?」
そう言って現れた沖田くんは、明るいブルーのサマーニットから白いシャツがのぞき、スキニーパンツ姿で、すらりとした体に色も形もよく似合っていた。キャンパスシューズは紺色で、汚れ一つない。
「ううん、今着いたところ」
なんというテンプレな答えだろうと思いつつ、ほかに返答のしようが浮かばない。
「ウソカノの件、頼んでから少し時間が空いちゃったな。でも期末も終わったし、この時期って開放感あっていいよな。何事もうまくいきそうだ」
テスト期間中はお互い勉強に忙しく、お昼や放課後に時折世間話を少しするくらいだったので、まとまった時間をとって沖田くんと話すのは久しぶりだった。
「今更だけど、本当に私でいいのかな。嘘っぽくない?」
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