ウソカノ3
もう数分で、別れてしまう。
いいのかな。
今日聞くべき沖田くんの話は、ちゃんと聞けたかな。私が言うべきことは、ちゃんと言えたかな。
家に帰ってから、ああ言えばよかった、あんなこと言うべきじゃなかった、なんてことにならないかな。
「沖田くん」
「ん、なに?」
「連絡先を教えて」
沖田くんが立ち止まった。口を少し開いて、私を見ている。
「おれが言うの、男からだとよくないかなと思って、我慢してた」
電話番号と、メッセージアプリのIDを交換する。SNSのアカウントは、沖田くんが「おれのやつあるにはあるけど、『仕事』用だからあんまり衿ノ宮には見られたくない」と言うので、聞かないことになった。
「衿ノ宮。また、たまに、昼食を一緒にとれそうな時、誘ってもいいかな」
うん。
それが、この日の、私と沖田くんの最後の会話だった。
それからの電車の中、駅で降りて家までの道、そして部屋に入って着替えるまでのことは、あまりよく覚えていない。
部屋着でベッドに飛び乗ると、横の本棚にいくつも刺さっている、BL漫画や小説の背表紙が見えた。
今まで、それらと似ていてどれとも違う、私だけの沖田くんのBLストーリーを、何度も頭の中に思い描いてきた。
それは、私が沖田くんとろくに言葉も交わさないでいたから、好きに空想ができたのだ。あんなに近くで、本物の沖田くんの声で、いろんな表情で楽しそうに会話なんてしてしまったら、刺激が強すぎて妄想のほうが負けてしまう。はかどらない。
これではいけない。なにもいけなくない気もするけど、なにかがいけない。
私はがばりと起き上がると、ノートパソコンを開いた。
「文章」という無味乾燥なフォルダの中には、数十個のテキストファイルが詰まっている。
大半は、私の生み出した架空の人物たちのBLだった。
その中に、沖田くんを主人公にして私が書いた、単話のストーリー……というより、書きたいシチュエーションだけを書きつけた、ばらばらのパーツが収められたファイルが混じっている。
ファイルによって、沖田くんは孤高の生徒会長だったり、学校の理不尽な体制にあらがう不良じみたアウトロウだったりした。
共通していたのは、現実の教室でそうであるように、沖田くんの友達――理解者がとても少ない設定であること。
沖田くんが孤独であったほうがいいということでは、決してない。ただ、そうした環境の中で、厳選された人間関係を充実させ、唯一無二の恋愛に発展していくところを文章にしていくと、突き上げるような興奮に襲われた。
ごめん、沖田くん、ごめん。
はっきり言葉にする沖田くんと違って、私の謝罪は、心の中で繰り返すだけだった。
新しいテキストファイルを開いて、考えるより先に指がキーボードを叩く。
誰にも言えない秘密を持った沖田くん。それを、たいして親しくもないクラスメイト――もちろん男子の――に知られてしまう。
激しい高揚の中では、緻密に秘密の中身を考える余裕はなかった。どうせ誰に見せることもないし、私には、現実の沖田くんが「仕事」でどんなことをしているのかはいまいち具体的には分からない。大まかな設定だけあればいいだろう。
沖田くんは、体を売る仕事をしていた。それを知ったクラスメイトは、最初、沖田くんをゆすって売り上げを奪おうとする。
けれど沖田くんの事情を知るうちに、そんなつもりはなくなって、やがて二人は心を通い合わせていく――……
そこまで書いて、ふと私の打鍵は止まった。
事情。
沖田くんがなぜ、「それ」を仕事にしているのかという事情。私の思考はそこで行き止まりに至った。
妄想では、いくらでも答えを作れる。似たようなことは今までさんざんしてきた。
それなのに、今は指が動いてくれなかった。
なにも知らないのに、勝手な想像で勝手なことを書くのは、沖田くんに対してとてもひどいことをしているように思えた。
ひとまず、そこでファイルを保存する。タイトルは「内緒の仕事」。……なんだかとても幼稚だけれど、いずれ変えればいい。今はそんなところに脳みそを使う気になれなかった。
私の書く沖田くんは、今までは話の最後で必ず、頼りがいがあって信じあえる男子と、激しく抱き合った。
構想の中でさえそこまでたどり着けないのは、初めてだった。
ノートパソコンの電源を切って、またベッドに寝転がる。
実はひそかに、あの本棚に並ぶ本のように、私もBL小説を書いて、本を出してみたいなどと思っていた。
幸せになってほしい男の子が、本当に好きな相手と出会って、好きになられて、幸せになる。それだけの話を。
コンテストみたいなのって、結構あるんだよね。一度くらい、ちゃんと作品として書いてみようかな。
そう呟いて寝返りを打っても、実行に移せたことはなかった。BLの投稿サイトに、沖田くんの登場しないオリジナル作品を、さほど閲覧数が増えないのを承知で載せてみるのがせいぜいだった。
もし本気でお話を書いてみる機会があったら、その時は、私は沖田くんのことしか書きたくない。
そして、私が書いた沖田くんは、誰にも見てほしくなかった。
もちろん、一番は、沖田くん本人に、決して。
■
翌日の火曜日。
この日は、教室の中で、仲のいい女子メンバーと机を寄せ合ってお弁当を食べた。
沖田くんは、昼休みになったらすぐに、ふいっと姿を消すのが通例だった。この日も、チャイムが鳴って五分後にはもういなくなっている。
「ちょっと
私を下の名前で呼ぶほど親しい間柄の人間は、このクラスに二三人しかいない。
「さ、最近っていうか、昨日だけたまたま」
別の女子――左手にいた奥野さんも、曲げわっぱの渋いお弁当箱のふたを開けつつ、
「たまたまで、沖田くんが女子を教室から連れ出すことはないでしょう。ほら、白状しなさい。なにがあったのか。もしかして、一昨日の日曜日? 二人で会ったりしてたの?」
ずばりと言われて、私はお箸を取り落としそうになり、慌ててわたわたと持ち直す。その様子を見て、さらにもう一人、右にいたヨウコも加わってきた。
「うわー、図星? あたしたちの知らない間に、なんたること……」
「ち、違うよ! そんなんじゃない!」
確か上手な嘘のつき方というのは、少しだけ本当のことを混ぜるとかだったと思う。けれどいざその場になると、そんな気の利いたことは私にはできそうになかった。
とにかく百パーセント否定しておいて、後で沖田くんと口裏を合わせよう。
カナちゃんが、グリーンピースを器用に箸先で一粒ずつつまみながら、あ、と声を出した。
「沖田くんといえば、あたし先生から沖田くんあての伝言預かってたんだよね。昼休み中に伝えてって言われたんだけど、逃がしちゃった。まずいなー。燈、沖田くんに連絡できる?」
「あ、うん。でもすぐに既読になるか分からないよ。昼休みの間はつかまらないかも」
私はスマートフォンを取り出して、アプリを立ち上げる。
ふっと画面から顔を上げて、沖田くんになんと伝えればいいのかカナちゃんに訊こうとした時、私を囲む三人がぽかんと口を開けていることに気づく。
「……え、え? なに?」
カナちゃんがグリーンピースを宙に据え置いたまま、
「燈、それ、クラスメイトのグループとかじゃないよね? 沖田くんと個人的にアカウント交換してるんじゃん。沖田くんとそんなんなってる人、うちのクラスにそうそういないんじゃないの? しかも女子で」
「なっ!?」
は、はめられた!
「やっぱり特別に仲良くなってる! さあ、吐きなさい! どんな経緯!?」
「ずるいそんなの!」
「
「い、意味はよく分からないけど、すごく、してやられた! って感じがする!」
「たっぷり追及するために、わざわざ昼休みまで待ったんだから! さあさあ――って、あ、あれ、沖田くん!?」
目を見開いたカナにつられて、私たちはぶんと首を巡らせて教室のドアを見た。そこには、空になっているのだろうお弁当箱の包みを下げた沖田くんが、きょとんとこちらを見ていた。
「え? おう。なにか用か?」
その受け答えは、あまりにも自然だった。男子はもちろん、そして女子だと余計に、沖田くんとは同じクラスの人とほとんど会話することが今までなかったのに。
でも、これがきっと彼の素なのだ。そう思える私だけが、四人の中で一人だけ冷静にいられた。
沖田くんが、邪気のない顔でつかつかとこちらへくる。
用なんてあるはずのないカナは、軽くパニックに陥りながら、あたふたと左右を見回した。
確かに、「ここにおります衿ノ宮燈が、沖田くんと急に仲良くなっているのが気になって、ことのあらましを吐かせようとしてました」とは、なかなか言いづらいだろう。
どうしたものかなと思っていると、沖田くんが私たちの顔を順に見渡して、にやりとしながら言った。
「もしかして、悪口言ってた?」
私はどきりとする。悪口ではなくても、「仕事」のことをつい漏らしたりしてるんじゃないかとは、たとえわずかでも沖田くんに思わせたくなかった。
「言ってないよ」と私は沖田くんの目を見て答える。
「そうか。よかった。四人とも、昼はよくグループになってるよな。衿ノ宮の友達なら、みんな人柄がいいと思うから、楽しそうでうらやましいよ。おれは腹ごなしに、一人で校内でも散歩してくるわ。衿ノ宮、時間が合えばだけど、また放課後一緒に帰ろうな」
私が心配していたような疑念は抱かせずに済んだらしい。
私は胸をなでおろして、再び教室を出ていく沖田くんの後ろ姿を見送った。
そして正面に向き直ると、さっきまでよりも眼光を鋭くしたカナちゃんたちが、私にらんらんとした目を向けてくる。
「な、なに? カナちゃん」
「燈の友達なら人柄がいい……? ずいぶん信頼されてるのねえ……」
続けて奥野さんが、
「昨日の放課後、一緒に……? どこに、なにしに行ったの?」
はっと気づく。なんてことを言い残してくれたのだ、沖田くん。
なんとか追及の手を逃れて、ようやく午後の授業の予冷が鳴った時、沖田くんが戻ってきた。
ここで少し、不用意なことを口走らないよう釘を刺しておかなくてはいけないと思って、私はまたキリキリとした女友達の視線を感じながら、沖田くんに小声で話しかけた。
「沖田くん、あのね、私少し言っておきたいことが……」
「ちょうどよかった。おれも衿ノ宮に話があったんだ。さっき時間が合えばなんて言ったばっかりなんだけど、さっそく今日の放課後、少し付き合ってくれるか?」
「え、うん。いいけど」
私も、内容が内容だけにこのお願いは、変に沖田くんを傷つけないよう丁寧に言いたいので、二人になれる時の方がいい。
残りの授業は、いつもよりだいぶ長く感じながらも、時計の指す時間ぴったりに終わった。
荷物をまとめて廊下へ出ると、待ち合わせ場所にした昇降口へ速足で向かう。
終礼を一緒に終えて、さっきまで同じ教室にいたのに、足の速さ(というか長さ)が違うのか、沖田くんはすでに下駄箱に到着していた。
結果的に言えば、私の釘は、刺すどころか、取り出すことさえできなかった。
人目をはばかって歩き出し、ひ時わ人波が途絶えたところで、校門のすぐ手前で、沖田くんはそれを私に伝えた。
「おれの、ウソカノになってくれないか」
■
その夜。
またしても、私はぼんやりと自分の本棚のBL本を眺めながら、ベッドに転がっていた。
ウソカノとは。
嘘の彼女。彼女の振りをしている女友達。
あまり私には縁のない言葉だったけど、それくらいのことは語彙として知ってはいる。
全く話が見えずに固まっていた私に、沖田くんは
「無理言ってるよな。でも、こんなこと衿ノ宮にしか頼めないんだ」
と頭を下げてきた。
駅までの道で説明されたことには。
沖田くんの「仕事」関係で、最近彼に猛アタックしてきている男の人がいる。その人に、自分は本当は女子が好きで、男性を相手に仕事をしているのは単に成り行きなのだと言って諦めさせたいらしい。
――一回だけ。一度だけ三人で会って、十五分もあればきっちり説得しきってみせるから。
そう言われては、断ることもできない。
でも。
「なんで私なんだろう……」
もちろん、沖田くん本人にもそう訊いた。それでも嘘のような話で――実際ウソカノなんだけど――いまだに頭がついていかない。
――どうしてって、さっき言ったとおりだよ。衿ノ宮しか、こんなこと頼めるくらいの仲の女子いないんだ。
でも沖田くんて、女友達たくさんいそう。
――はは、なんでだよ。いないって、そんなの。……いや、実は、前にいたことはある。何人か。
前にいた?
――その時も、似たようなことを頼んだんだ。でも、だめだった。
だめって?
――ウソカノじゃなくなるんだ。本当に付き合ってほしいって言ってくるんだよ、おれに。それを断ったこともあるし、断らなかったことも……ある。でもやっぱり、つらかった。長続きしなくて、結局傷つけただけだった。告白を断ってその場で泣かせるか、その場ではオーケーしてその後泣かせるか、その違いだけだった。だからもう、女友達なんて作らないって決めたんだ。
……私は?
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