ウソカノ2


でも、沖田くんが自分のことを不当に低く評価していると、私は、即座にそれを否定せずにはいられない。


沖田くんは目をぱちくりさせてから、


「ありがとうよ。クラスの女子に言われると、なんか新鮮だな。気分いいぜ」


少しおどけたように言う。


涼しい風が木陰に吹いた。


ああ、まただ。昨日と同じ。


この時間が続いてほしいと思う。いつまでもいつまでも。


私たちは、食べ終えたお弁当を片づけた。午後の授業の時間が近づいている。


なにか話したい。でも、話せば話すほど時間が早く過ぎてしまいそうで、開きかけた口がまた閉じる。


なにもしないでいれば、どこまでも時の流れが緩まりそうに思えた。そんなはずがないのに。


「衿ノ宮、さ」


名前を呼ばれて、私は、「ひゃいっ?」としゃっくりのような声で答えた。


「……行こうぜ。遅刻になる」


「そ、そうだね。行こう」


また、沖田くんが私の前を歩いた。周りの生徒たちもみんな引き上げていたことに、私はようやく気づく。


楡の木の下には、私たちだけだった。


沖田くんが、背中を向けたまま、「衿ノ宮」とまた私の名前を呼んだ。私は今度は幾分落ち着いて、「なに?」と訊く。


「……おれ、襟ノ宮に、軽蔑されてないか?」


「されてない。全然」


沖田くんの背中が少し伸びる。肩の緊張が抜けたように見えた。ほっとしたみたいに。


軽蔑されてないよな、ではなく、されてないか? と訊かれたことに、私の胸が痛んだ。


もしかしたら沖田くんは、昨日から怯えていたのだろうか。沖田くんがまともだと思ってくれている私に、まともではないと軽蔑されることに。


そんなわけないよ。私は、沖田くんについて知りたいことを、まだほとんど知らないのに。


条件反射のような即座の否定が、今は役に立った。


私のためではなく、沖田くんのために。それは嬉しいことだった。



私たちの高校から、新宿までは電車で四十分ほど。


遊びに行こうと思えば、東京の中の大抵の場所へ一時間かからずに行けるのは羨ましいと、北海道に住んでいるいとこに言われたことがある。


終礼が終わり、生徒が次々に教室を出ていく。


帰宅部の私は、まっすぐに昇降口へ。そのまま校門を出て、駅へ。クラスで仲のいい子たちはみんな部活に入っていて、帰路を誰かと共にしたことはない。


自分の帰り道のことも、誰かの放課後のことも、今まで気にしたことはなかった。それが今日は違った。


校門を出ようとして、足が止まる。


つい首を巡らせて、知った顔を探してしまった。


見つけたところでどうにもならない。


平日だけど、今日も歌舞伎町へ行くの? なんて訊けるわけがない。


そもそも、……沖田くんはどうしてああいうことをしているんだろう。


「あれ、衿ノ宮」


「きゃあっ!?」


驚いたあまり、校門から車道へ飛び出しそうになった私の腕を、細身で筋張った男子の手がつかんだ。


「うお、あぶな。っておれのせいか。ごめん、大丈夫?」


「だ、大丈夫大丈夫。沖田くんも今帰り?」


「そ。知ってるだろ、帰宅部だって」


そう言って沖田くんは、にやりと笑った。


本当は、こんなに表情豊かな人なんだ。こうしていると、私にとって特別な男子も、ごく普通の高校生だった。


ふっと、沖田くんが私の横に来た。小さい声で、


「今日はこのまま帰るんだ。衿ノ宮、今、おれのことを頭の中でいろいろ考えてただろう」


お見通し。いや、それは考えるでしょう。


「駅まで一緒に行こうぜ。衿ノ宮はどっち方面?」


「えっ、いいの?」


「おれが聞きたいよ。これでも結構、勇気出して誘ってるんだからな。一応年頃の男子が女子に声かけてるわけだから。おれとしては、それくらいの親しさはあると思っていいかな、と考えてるわけだけど」


「あ、ある。沖田くんさえよければ、それくらいは」


男子と帰るなんて初めてだけど。


すると、沖田くんはまた小声になって、


「心配しなくても、衿ノ宮に変なちょっかい出そうとかはしてないからな。安心してくれ。おれ、男が好きだから」


「そう……なんだ」


はっきり言葉にされると、沖田くんのその発言がぐるぐると頭の中に舞う。


「おれが、ノンケであんなことしてると思った? 気軽に金が稼げると思ってああいうの始めるノンケのやつ、おれの周りでも定期的に出てくるんだけど、結局続かないんだよな。単純に嫌気が差したり、思わぬ影響が精神面に出たりして、気がつくといなくなってるんだ」


「沖田くんは……どれくらいになるの? そういうの、を始めてから」


「一年くらいかな」


こともなげに言われて、愕然とする。


一年。一年前の私は、なにをしていただろう。


私は一年生の時から、遠くから沖田くんを見ていた。それなのに、その「仕事」のことは全然知らなかった。


私が、気になったミュージシャンの新譜を検索したり、流行りの飲み物の派手さに驚いたりしていた時に、沖田くんはそういう「仕事」をしていた。


夕方前の七月の空気はむっと暑いのに、足元に、冷たい風が吹き去っていく感じがした。


沖田くんと私の間に、この一年で積み上がった、途方もなく大きな段差があるように思えた。


私たちは歩き出す。


沖田くんは車道側を歩いてくれた。


「おれ、最初は店舗みたいなとこに登録してたんだけど、年齢のこともあってやばくなっちゃってさ。その後店変えたりもしたけど、今は素人同士で作ったグループみたいなのに入ってるんだ。お客は主に代表者のSNSから入ってきて、好みとかを教えてもらって、おれらのうちからちょうどいいやつが割り振られていく」


「そんなの、危なくないの?」


「グループの人たちは割と普通な人が多いな。客は変なのもいるから、危ないなと思ったら会うのやめるんだけど、会ってからも一応品定めはするよ。本格的に危険だったことは、今のところはない。その点は、おれが男だからっていうのはたぶんあるな。本気で振り切れば、なんとか逃げ切れる。同じ仕事で、女の人が男の相手するやつがあるだろ? ……っていうか、そっちが多数派か。はは」


そう言って笑われても、なんと答えていいのか分からない。


「そっちはどんなに安全策を取ろうとしても、客と部屋に入ったら少し怖いと思うよ。おれの場合は、正面から取っ組み合えば相手をねじ伏せられるだろうっていう自信もあるから。相手、おっさんばっかだからね」


どこまで訊いていいのか、なんのことなら尋ねていいのか、必死で頭を巡らせていると、私の口数は自然と少なくなった。その分、沖田くんが話してくれている。


「おっと、駅が近づいてきたら人が多くなってきたな。この話題は、この辺にしておくか」


え、と私は思わず口に出してしまった。沖田くんがあまりに屈託なく話してくれるので、彼にとっては普通に口に出していて問題ない事柄なのだと、勝手に思ってしまっていた。


「あのな、おれだって一応時と場所はわきまえてるぞ。風俗業でも、仕事に誇りを持ってれば堂々と言うべきって人はいるし、それはそれでいいと思う。でもおれは、人目をはばかって裸になる仕事を、それも未成年と大人がやってることを、平気であけっぴろげにするのはよくないと思ってる。どんな事情が本人にあってもな。いろんな意味で極端な仕事だし。って、今のおれがあれを仕事って言うのも本当はだめだよな。それぐらいの常識は、なくさないでいたいな」


沖田くんが苦笑した。


私は、なんて答えていいのか分からない。


自分は今まで、割合楽に接して来られる相手としかつき合ってこなかったのだなという気がした。


きっと、もっといろんな、自分とはまるで違う生活をしている人たちから、様々な話を聞いておくべきだった。


そうすれば今、沖田くんに、なにか意味のある言葉をかけることができたかもしれないのに。


今の私では、相槌を打つことさえはばかられた。私が沖田くんのことも、沖田くんの「仕事」のことも、ほとんど知らないということは、沖田くんにだって分かっているんだから。


うん、本当だね、そうだね、分かるよ――なんて言おうものなら、沖田くんは私を見限ってしまうんじゃないかと思えた。


沖田くんは今までどんなものを見てきて、どんなことを知っていて、なにを考えているんだろう。


「ごめん。困らせた。……おれ、衿ノ宮に謝ってばっかりだな。いきなり甘えすぎかな、ごめん。うわ、まただ」


苦笑よりも少しだけ明るく、沖田くんが笑った。改札口はすぐそこまできている。


「沖田くんは……どんな話がしたいとかある? 音楽とか、本とか、映画とか、好きな有名人とか」


「そうだな。そういう話を、高校生ってすべきだよな。衿ノ宮、今日もあんな話聞いてくれてありがとうな。普通にしゃべってたけど、割とおれ、まずいかなってドキドキしてた。でも、衿ノ宮は本当に昨日のこと誰にも話さないでいてくれたし、おれの話も聞いてくれて……おれ、そういう人間関係久しぶりなんだ。いや、違うな、見栄張った。初めてだよ」


私と沖田くんは、向かうホームが逆だった。


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