ウソカノ1

<第一章 ウソカノ>


「衿ノ宮。おれと、昼食を一緒にとらないか」


「どうして?」


歌舞伎町の日の翌日の月曜日。


昼休みに入って数十秒後。


お弁当箱を取り出そうとして、教室後ろのロッカーへ向かいかけた私に、沖田くんが話しかけてきた。


ブレザーの青い夏服は、彼によく似合う。


私服も青だったけど青が好きなのかな、などとのんきな感慨に浸る余裕もなく、思わず口をついて出た答えに、自分で慌てる。まるで「どうして私がそんなことをしなくてはならないんですか?」の略みたいだったんじゃないだろうか。


「沖田くん、あの、違うよ。今のは」


「いや、いきなりごめん。わけ分かんなかったよな」


「ううん、ていうか、どうして」


私は頭を横に振ったり縦に揺らしたりしながら、顔が赤くなるのをこらえる――こらえようとしたけど、どうしていいか分からないので、余計に慌ててしまう。


教室の中が、そんな私たちにざわつくのが分かった。


どうして。あの沖田が。一学期の間、まともにクラスの人間となじもうとしてこなかった沖田が。なぜあの、冴えない襟ノ宮に。


冴えないというのは、自虐的な幻聴だけど。でも、当たらずとも遠からずだと思う。中学ではぼっちだった私にも、一緒にお弁当を食べる友達が今はいるけど、いつものグループの外からお呼びがかかるような人気者じゃない。


「おれ、いつも一人で食べてるから、たまにはいいかなと思って。そんな大層なことじゃないだろ? クラスメイトなんだし」


いや、そこそこ大ごとです。


沖田くんは、意志の強そうな目も、同い年の男子の中でも頭一つくらい高い身長も、人を必要以上に寄せつけないクールな態度も、私生活について全然明かされないミステリアスさ――これが無責任な噂が流れる一因でもある――も、密かに女子の間では話題になっている。


女子の間で話題になっているものだから、その気配は男子にも伝わる。


つまり沖田くんは、特にリーダーシップを発揮しているわけでもなんでもないのに、いつの間にかクラスの中で妙に大きな存在感を醸し出してしまっていた。


「確かにそうだけど、もしかして……なにかあったの?」


昨日のおじさんのことで、なにか、とか。


「いや全然。なにかないといけないほどのことか?」


沖田くんが首をひねる。


いつも私と一緒にお昼を食べているカナちゃんが、見るに見かねたのか、私たちの横に来た。


「行っといでよ、燈。いいじゃんたまには」


「う、うん」


「じゃあ、中庭のテーブルに行こうぜ。あそこ割と空いてるだろ。今日は、そんなに暑くないし」


私はお弁当箱を取り出すと、先に行く沖田くんの後に続いた。


昨日の光景を思い出して、胸がくすぐったくなる。


今までも沖田くんの後ろ姿を何度も見た。でも、昨日や今日は、それとは全く違うように見える。


私たちが教室を出ると、背中の向こうで、教室の中のざわつきがどよめきに変わる気配がした。


違う、違うんです。私と沖田くんの間で、なにかが始まったわけじゃないの。騒がないで、お願いだから。


ひょいと沖田くんが振り返り、


「少し話したくてさ。放課後に時間とらせちゃ悪いと思って、昼ならいいかと……って衿ノ宮すっげえ顔真っ赤」


「た、体質なの。運動するとすぐ赤くなるんだ」


「歩いただけで!? い、いや、そういうこともあるよな。人ぞれぞれ、うん」


そんなことを話している間に、中庭に着いた。先客がちらほらと、十個ほど並べられたテーブルとベンチに早々ととりついている。


力強い緑が日光を遮ってくれているにれの木の下で、私たちはそれぞれにお弁当箱を広げた。


「襟ノ宮の弁当、かわいいな。小さくて、女子って感じがする」


「沖田くんのは、運動部男子って感じのサイズだね……帰宅部なのに」


「よく知ってるじゃないか。襟ノ宮って、クラスメイトの部活事情に精通してるのか?」


そんなわけないでしょう。限られた人にだけです。


「沖田くんて、そんな風に普通にしゃべるんだね。もっと寡黙なのかと思ってた」


「そりゃ、話す相手がいれば普通に話すだろ。まあたぶん、クラスでは、むっつりしてて気色悪いと思われてるんだろうけど」


「そんなことないよ」


「いや、あると思うけどな。さっきだって、おれが襟ノ宮誘ったらなんだか騒ぎかけてたじゃないか」


「それは、沖田くんが私なんかを誘うからだよ」


「なんかってことないだろ。おれ、昨日、衿ノ宮のことすごいと思ったよ。男二人であんなところ出入りしてるの、放っておくよ大抵は。おっかないだろう、男って」


男子にそう言われると、答えに困ってしまう。


「たまにおれ、よく分からなくなるんだ。なにがいいことで、なにが悪いことなのか。あれを……あの『仕事』を始めた時は、もちろんよくないことだと思ってた」


いきなりデリケートな話になって驚きながらも、私もそれは、もっともだと思う。


「でも来る客来る客、みんな大喜びでおれを褒めたり、お礼言ったりしてくるんだよな。そうすると、あれ、これってむしろいいことしてんのかなって、おれの中に確かにあったはずの……なんて言うのかな、『みんなと同じ枠』みたいなものの境目が、あいまいになってくるんだ。それは、自分でやっといて変なんだけど、おれには結構怖いことで。だから、あんなふうに止めてくれると、安心する。ああおれ、衿ノ宮がいるような、まともな世界にすぐ戻れるんだなって思うんだよ」


「まとも……」


まともかな。


私の頭の中で、沖田くんは、別の男子に、けだものみたいにキスされたりしてるんだけど……。


昨日止めたのも、悪いことだとかまともじゃないからとかじゃなくて、「そんなおじさんより、沖田くんならもっと別にいい人がいるでしょうって思っただけなんじゃないの?」と言われれば、否定できない気もする。


箸を持った手から力が抜けて、取り落としそうになった。


「ああ、悪い、食事時にする話じゃなかった」


「ううん、全然平気。沖田くんのしたい話、なんでもしてほしい」


ようやく私たちは、お弁当箱の中身を口に運び始めた。


口の中に物が入っているのと、考えてみれば私たちの共通の話題は昨日のことしかないのだということに気づいてしまったせいで、なにを話せばいいのか分からなくなってしまう。


私はただ黙々と、お米や、ソーセージや、ミニトマトを噛んでは飲み込んでいく。


「衿ノ宮」


「うん?」


「衿ノ宮って、髪型かわいいな」


「はあっ!?」


危うく、喉に卵焼きがつかえるところだった。


「女子の誉め方って難しいんだよな。顔がかわいいとか、スタイルがいいとかっていうのは、あんまりよくないって聞くし。でも、それ、ハーフアップってやつだろ、髪型は遠慮なく褒められるからな。……え、まさか、気に入ってない?」


「き、気に入ってるよ。でも、そんなこと言われたことないから」


「ああ、そうか……おれが、お客やそれ系の知り合いからよく言われるから、ずれてたかも。かわいいとかかっこいいとか、結構言われるんだよ、あの界隈。それが礼儀というか、挨拶みたいなもんなのかもな。おれこの程度なのに」


「界隈関係なく、沖田くんはかっこいいよ」


言ってしまってから、はっとして、そして顔が熱くなるのを自覚する。

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