第7話 カクテル『竜殺し』

(7)



 ――影法師(コイツ)…


 美恵子は突如寄せて来た心の波中で思わず罵声を放った。

 放った罵声に気づいたのか、影法師はやがて口元を引き締めるとやがて軽く首横にして小声で言った。

「横、良いですか?」

 そう言っておきながら美恵子の返事なぞ、聞くこと無く影は音もなく椅子に腰掛ける。

 美恵子の瞼が薄闇の中で真横に細くなる。一重瞼の切れ長の瞼の奥で影法師を捉える。捉える瞳孔がランプの灯りに照らされる影法師の輪郭を捉えて行く。

 それは暗闇の中で鮮明に。

(…これは、いや影法師(コイツ)は)

 首元に掛けられたヘッドホン。そして細身の体にスーツ。

 それは正に…

 隣人。

 美恵子はここ数日、いや正確には週末を思い出す。

 自分の行きつけのジム、カフェ、夜の外国人バー、そして朝の川沿いの散歩道。

 その至る所でコイツは自分の目の前に現れる。

 そして今日は遂に面前で。

 それも自分の名を呼ぶ。

 鋭くなる目がまるで猫科のしなやかな獣の様に影法師を見つめて離さない。

 自分の生活領域、いや生存領域(テリトリー)にこいつは土足で入り込んできている。それは正に昆虫であれば捕食し「死」を給わなければならない「敵」ともいえる。

 そんな鋭さを増した美恵子の眼差しに影法師は再び口元を緩めて、微かに笑った。

(――笑うか、コイツ)

 美恵子の鋭さに声が被さった。

「…本当に不思議だ」

 影法師の声。

 それは男の様だった。

「いえ、実に不思議なくらい。僕とあなたはその領分が重なるようですね。本当に見事なくらい」

 影法師は顔を動かした。蝋燭の灯りに照らされた瞳孔がバーテンダーを見て言う。

「彼女と同じものを」

 小さくてもはっきりとした響きのある口調は、決して店の雰囲気を壊さない奥ゆかしさがあった。

 バーテンダーが頷くと美恵子が席に着いた時の様に背を向け、それから元に戻るとカウンターにグラスを置く。

 置かれたグラスは美恵子に差し出されたものと寸分変わらない。寸分変わらないが、ただ違う物があるとすれば美恵子が飲み込んだ思いとは違う物を男は飲み込んだかもしれない。

 グラスを置く小さな音がして、影法師はバーテンダーに聞い。

「この酒(カクテル)の名は?」

 バーテンダーは顎を引いて、それから言った。

「竜殺し(ドラゴンスレイヤー)」

「そいつは凄く危険な名だ。…だが素敵だね、とても体の芯に熱く響く」

 バーテンダーは顎を縦に引くと静かに二人の前から薄闇に消えた。他の『迷宮』の客人に挨拶するために。

 その姿が二人の視界から消えるのを待って影法師が言った。

「さて、僕が言った互いの領域が重なり合うという意味はいずれお分かりになる事でしょうが、…しかしながらあなたには僕とはでも随分違うところがあるようです。そうそれは正に蟷螂ともいわんばかりのあなたの性質(タチ)ですがね」

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